水着グラビアへの回帰 1

 最近グラビアに開眼した。何度目の開眼だろう。
 グラビアというのは、水着グラビア、それもピンポイントでいうとビキニ姿のもののことをいっている。それを近頃はせっせと眺めている。まるで中学生のようだ。もっともいまどきの中学生は、スマホでいくらでもエロ画像を眺めるのだろうから、あの当時の中学生のようだ。
 とてもエロいエロ画像がいくらでも見られる時代に、水着グラビアになんの価値があるのか。鉄砲や大砲で戦う時代に、剣がなんの役に立つのか。たしかに水着は、裸に対して、局部を覆い隠しているという点で、下位のように思えるかもしれない。水着姿を見せてくれるのはいいけど、本当はもっと中身をさらけ出してくれたほうがいいんだよなあ、と思い、その願望を叶えてくれるのがエロ画像であると。つまり水着グラビアのその先にエロ画像はあるのだと。そう思いがちだと思う。僕もそう思う時期もある。大人の僕も傷ついて眠れない夜はある。苦くて甘い今を生きている。
 しかし水着グラビアに何度目か知れない到達をした今の僕には、これは水着グラビアという始発駅から、エロ画像という終点まで続くただの路線ではなく、実はこれは環状線になっていて、水着グラビアの先にはエロ画像があるけれど、しかしエロ画像の先にもまた、水着グラビアがあるのだと、そういう風景が見えている。覆い隠すからこそ見えてくるものがあるのだと、なんかしらの武道における、かなりの境地に達した感がある。
 昔と今ということでいうなら、エロ画像の手に入りやすさのほかに、登場する女の子のクオリティ(このあたりの表現は現代ではとても厳しくなり、岡村隆史のことも脳裏によぎる)に関しても、かつては厳然たる事実として、露出度と顔の美醜は比例関係にあり、かわいい子は脱がず、そこまでかわいくない子は脱ぐというシステムになっていたが、現在はそんなこともなく、すごくかわいいのにあられもない姿でとんでもないことをする子もいるし、その一方でなぜ脱がずに成立するのか疑問を抱かざるを得ない子もいる。そういう意味でも、水着グラビアとエロ画像のあわいは曖昧になっていて、単純ではない。
 しかしこうして論めいたことをつらつらと述べるよりも、僕自身が、エロ画像ではなく水着グラビアを見る理由、なにを求めて水着グラビアをまた眺めるようになったのかという、自身の心情について語るのが手っ取り早いだろう。
 水着グラビアは、エロ画像に較べて、どこがいいのか。
 脱がないのに、チンポを咥えないのに、なにがいいのか。それは。
 脱がないし、チンポを咥えないところだ。そこがいいのだ。
 つづく。

陰嚢宝石

 鳥取旅行の帰りの車中でポルガの撒き散らすウイルスを浴びまくり、体調を崩したが、その気怠い日々の中で、宝石みたいに輝くひとつの発見を得た。
 それは、鼻炎薬を服むと陰嚢が寛ぐ、ということである。
 旅行が終わった途端に山陰に冬がやってきて、冬がやってきたということは、陰嚢は縮むのである。「当園のマスコットキャラ金玉くん夏と冬とでサイズ激変」という短歌があるが(藤原定家が詠んだのだったか僕が詠んだのだったか忘れた)、この中で示されるように、金玉及び陰嚢というのは、気温によって形態がまるで変わり、陰茎と同じく、それゆえに愛しさがひたすらに募るわけだが、とにかく寒いと陰嚢は縮む。
 精子は熱に弱く、そのために陰嚢は体の外に垂れ下がっているといわれるが、もともとのベースとしての女体においては、陰嚢は大陰唇にあたり、体の内側にあるものなので、高熱の脅威にさらされていない、冬のキュッとした陰嚢こそが、生命体としては自然な姿、望むべく姿なのであって、夏のダランとした陰嚢のほうが非常事態なわけである。とはいえエンターテインメント性の観点からすると、陰嚢はタプタプしていたほうが断然いい。そよぎ、揺れ、揉まれ、持ち上げられ、引っ張られ、そのように可動域があると、行為にもいろいろバリエーションが生まれ、情趣が増す。
 冬の陰嚢にはそれがない。風呂などで時間をかけてぬくもらせれば和らぐが、寒い空気の中に戻ればたちまち元に戻る。戻ってしまえばそれまでだ。陰茎は血液が充填されれば膨らむが、陰嚢はそんなことにはならない。熱を逃すために表面積を増している夏の陰嚢は、勃起した陰茎に対して、なるほど黒幕というか、名参謀というか、実はこれが陰茎を操っているのだな、ということに納得がいくバランスだが、冬のそれは勃起に対してあまりにも頼りなげで、不格好であると思う。
 おとなり韓国では、前になにかの本で読んだが、陰嚢の大きさというのがとても重要視され、名誉を守るために、死後に陰嚢に液剤を注入して陰嚢を膨らませたりするそうだが(本当かどうかは分からない)、なんとなく気持ちはわかる。陰茎が大きいのはもちろん大事だが、陰茎がIQだとすれば、陰嚢はEQというか、数字では計れない本質的な部分みたいな、そういう価値観があると思う。
 そんな冬の陰嚢、陰嚢の冬において、鼻炎薬を服んだ日は、あれ、ここは常夏の国かな、というくらいに、陰嚢が寛いだのだった。もっとも寛ぐというのはこちらの主観であって、繰り返しになるが夏に陰嚢がその状態になるのは熱を逃すためなので、本当はリラックスなんかしてないはずである。でもここではそう表現する。
 どういうことだろう、血流だろうか、薬の成分で血流がよくなって熱が高まるから陰嚢が(肉体が)夏のような状態になるのか、と考えたが、鼻炎薬にそんな作用はない。じゃあなぜだろうと検索をかけた結果、「鼻炎薬 陰嚢 寛ぐ」などで検索してもなにも出てこなかったが、鼻炎薬の作用として、筋弛緩作用というのがあったので、もしかしたらこれによるものかな、と思った。体に力が入らなくなるから、陰嚢もキュッとならず、ダレる。そういうことなのではないか。だとすればやっぱり陰嚢のあの状態というのはリラックスということなのだろうか、などとも思う。
 原因は不確かにせよ、鼻炎薬を服むと陰嚢が寛ぐ、というのは、鼻炎薬を服んでいた数日間は寒くても陰嚢が寛いでいたという、身を張った人体実験の結果として証明されたので、これは日常生活の中でのライフハックとして、知識のひとつに加えようと思う。冬に陰嚢を寛がせたいとき(陰嚢が寛いでいたほうが、そよぎ、揺れ、揉まれ、持ち上げられ、引っ張られ、いろいろしてもらえる可能性が高まる)は、鼻炎薬を服めばいい。ためになる情報だな。これで無人島にひとり漂着しても安心。ポケットに鼻炎薬さえあれば、タプタプの陰嚢をいじって、ずっと愉しんでいられる。よかったよかった。

ちんしょぼ

 ひとつ前の記事を書いたあと、自分の中では、妻が少し右を向けばどんなものを見ているのかすぐにバレてしまう状況でエロサイトを眺めることに、大義名分が得られた気持ちになり、そして眺めていたのだけど、ファルマンはまだその投稿された記事を読む前だったので、少し右を向いた瞬間に僕の頭越しにエロサイトが見えて、「なに見とんねん」という話になった。それで僕は、これこれこういうことなんだよ、とブログ記事を示して弁解したのだけど、「はあ?」と一蹴された。おかしいな。確固とした大義名分を手に入れた実感があったのだが、他者には通用しない手形だったのかもしれない。あるいは、経済社会においてなんでも買えるクレジットカードを持っていても、お金の概念さえない未開の地ではなんの価値もない、みたいな感じか。とにかく通用しなかった。びっくりした。しかも、「見るにしたって、そんな、あまりにも下品な、そんなのやめてよ」といわれたのだが、そのとき開いていたサイトは、僕が見ているエロサイトの中では、だいぶ穏当な部類のものだったので、なんかもう詰んだな、と思った。
 どうやら僕はもう、のびのびとエロサイトを眺めることは、できないらしい。そして前記事にも書いたが、こうしてエロサイトを眺めることができない日々が続くと、ちんこの筋力、それはただ単にセックス能力というわけではなく、ちんこ発想で世界を明るく照らす力とでもいうべきものだが、それはどんどん衰えていって、取り戻すこともかなわず、やがて完全に枯渇してしまうことだろうと思う。
 そのとき爆誕するのがなんなのか、分かりますか。
 ちんこがただの黒ずんだ排泄器官でしかなくなった、しょぼくれた、おじさんですよ。ちんしょぼおじさんですよ。エロサイトを排斥する倫理観は、この世にちんしょぼおじさんを生み出すんですよ。いいよいいよ、ちんしょぼおじさんで溢れ返ったユートピアがお好みならば、そうやってエロサイトを邪険にしておればいい。エロサイトを邪険にするあなたがたを見て、おじさんたちは優しく微笑む。そしてそのおじさんたちのちんこは一様にしょぼくれている。世界には頻繁に勃起するちんこと、しょぼくれているちんこしかない。その選択肢において、あなたたちは後者を求めたのだ。そのちんしょぼユートピアに、いったいどんな幸福があるだらう。

凛と咲く花

 模様替えにまつわる話ばかりになるが、先日の模様替えの結果、これまで互いのパソコンの背面を突き合わせるようにして、向かい合っていた僕とファルマンの机は、やっぱり机って素直に壁に面したほうが部屋が広く使える、という何度目かわからない発見によって、北側の壁を向く僕の左後ろにファルマンの机、西側の壁を向くファルマンの右横に僕の机、みたいな配置になって(向きを東西南北で言い表すの、非常に田舎者っぽい)、そうなるとどういうことになるかというと、僕がエロサイトを漫然と眺める時間が、以前に較べて大幅に減った。コロナ禍の居酒屋の売上くらい、ガクンと減ったと思う。
 それで、こうしてブログを毎日ペースで書いたり、部屋の広くなったスペースで裁縫のことをしたり筋トレをしたりしているので、いいことづくめだ。いいことづくめである。いいことづくめなのだけど、心のどこかで常に、(エロサイトを漫然と眺めたい……)という思いがくすぶり続けている。エロサイトを漫然と眺めるのって、本当に生産性のない行為で、時間ばかりが空費されるのだけど、でもこうして禁断症状のようなものが出て、渇望感があるということは、精神的になんかしらの作用をもたらしていたのだと思う。そしてそれは、人には無駄な時間も必要なんだよ、などという、なにかいっているふうの、なにもいっていない理由なんかではなく、もっと実際的な、それこそ筋トレ的なものだったのではないだろうか。
 すなわち、ピアノだったりバレエだったりで、1日サボると取り戻すのに〇日かかる、みたいな、それくらい厳しくて高度なジャンルなんですよ、というアピールとしか思えないいい回しがあるけれど、エロというのもまた、これとまったく同じことがいえるのではないだろうか。ましてや僕は38歳である。若い頃ならば意識せずとも衰えることなどなかったが(そもそもサボろうにもサボれなかった)、ぼちぼち、うかうかしているとそっち方面が薄らいでいってもおかしくない年齢である。自然に任せて薄らぐのなら、薄らがせればいいではないかと思われるかもしれないが、やっぱりそんなわけにはいかない。性欲だと、まるでそれが清廉で正しいことかのようだが、体型で考えたらどうだろうか。代謝が落ちてきて、下腹が出たりする、中年からの体型の変化を、なすがままに任せて放るのが、潔くてかっこいいだろうか。そんなことないだろう。性欲だってそれと一緒だ。だから僕は意識を高く持って、現状の性欲を保とうと努めなければいけないのだ。エロサイトを漫然と眺めることは、つまり僕にとって筋トレみたいなものだったのだ。筋トレならぬ、いわゆるひとつの、チンのほうですけどね(哄笑)。
 であるからして、この配置になり、自由にエロサイトを眺められないことは、大いに問題がある。この問題を打開するにはどうしたらいいか。答えはひとつだ。不意に画面を見られて、咎められても、くじけず、眺めたいときは眺めればいい。高い志を持っていれば、周囲の雑音なんか気にならない。この道をゆく。ゆけばわかる。歩いたあとに花が咲く。

渡りたい渡れない

 先日部屋のわりと大規模の模様替えを行ない、机周りがとても整ったのだが、それにあたって処遇に困ったのが、純粋理性批判(二次元ドリーム文庫)および社会契約論(美少女文庫)の群である。困ったというか、僕は別に困らないのだけど、こうして模様替えを行なうたびに、それの詰まったミニ本棚がファルマンの目について、「ちょっとそれはもうどうなんだ」ということを言及されるのだった。家に帰るまでが遠足であるように、ファルマンにエロ小説のことで苦言を呈されるまでが、正しい模様替えなのかもしれない。
 「どうなんだ」というのは、もうどちらもレーベルとして完全にオワコンではないのか、エロ小説文庫というジャンルの役割は既に終わったのではないか、という指摘ではもちろんなく、もう10歳、二次性徴間近の娘を持つ父親として、そこまで厳重に隠すというわけでもなくこういう本を保持しているのはいかがなものか、という意味である。
 それをいわれると、若干の心苦しさはある。しかしその一方で、娘たちが妙齢になるからこそ、父親は青春の、もとい本当にくだらない当て字になるが、性春の象徴であるこれらの本を、手離してはいけないのではないかと思う。これを手離してしまった瞬間に、いまの僕と、あの頃の僕は、陸続きではなくなる。つまりこれらの本は、橋なんだと思う。橋の名は勃起橋。ただいちど渡ればもう戻れぬ、振り向けばそこから思い出橋。勃起の先に、あの頃の僕がいる。
 最近、勃起の種類ということを考える。勃起とは海綿体が膨らんで起る生理現象だが、結果として現れるそれはどれも変わらないように見えて、実は、いかにして醸成されたものかによって、その中身はぜんぜん違ってくると思う。やはり血流ということで、液体として捉えると、カッと沸かした湯はすぐに冷め、じっくり長く火を入れたお湯はなかなか冷めないように、勃起もまた、弱火でゆっくり作り上げた勃起は、堅牢で濃厚であると思う。そして勃起における弱火とはなにかといえば、それは活字なのだ。画像や映像は、瞬間湯沸かし器のごとく勃起をもたらす。しかしそれは臓腑に降ればすぐに醒めてしまう。それに対して文字によって仕立てられた勃起は、いつまでも熾火のように熱を持ち続ける。僕はエロ小説の、そこが好きだ。そこに価値があると思う。
 だからやっぱり手離すことはできない。たぶんもう増えることはないのだけれど(そこに一抹の寂しさを覚える)、かつて5倍をはるかに超える量があったところから、それこそ弱火で長い時間をかけ、凝縮された結果いまの量となったこの結晶のような数十冊を、僕はやはり常に目の届く場所に置いておきたいと思う。

セクT

 先日ショッピングセンターを歩いていたら、「DAKKO SHITE!」と大きくプリントされたTシャツを着ている幼児がいて、この手があったか! と膝を打った。
 ウケを狙ったメッセージTシャツって大抵はスベっていて、なぜ押し並べてスベるのかといえば、そのTシャツを着て街を歩くと、赤の他人(素人)が赤の他人(素人)に呼びかける形になるため、居た堪れない空気が醸成され、スベるのだと思う。なにか言ってスベるのは一時のことだが、なにしろTシャツは家に帰るまで着続けるので、その間ずっと、絶え間なくスベり続けることとなり、人はそんなに長くスベり続けると、肉体も精神もおかしくなる。実際、肉体も精神もおかしいような奴しか、そういうTシャツは着ない。
 普通に考えれば、「DAKKO SHITE!」Tシャツは、その括りである。普通の人が着ていたら、ウケ狙いどころか、セクハラでさえある。いろんな意味で、公序良俗に反しているTシャツだということになる。それが幼児であるというだけで、成立している。たぶん「かわいい」の評さえ得られることだろう。デザインそのものも垢抜けていて、内容に関係なく買ってもいいようなものだった。検索したところ、ファッションセンターしまむらで売っていたものらしい。なるほどなあ。
 最近さっぱり使っていないが、ステカのことが頭をよぎる。「DAKKO SHITE!」Tシャツは、自作しようと思えばできる。しかし上記の理由により、大人である僕が「DAKKO SHITE!」Tシャツを着るのは問題がある。大人の、それも男は、基本的に抱っこしてもらえない存在だ。それだのに「DAKKO SHITE!」と求めるからよくない。その齟齬が周囲の人々に不快な思いを与える。スベっている。抱っこは幼児のものだ。成人男性は、成人男性にふさわしいものを求めるべきだと思う。
 というわけで僕はここに、「FELLA SHITE!」Tシャツを提案したい。
 フェラチオは、綴りが「FELLATIO」なので、本当に期せずして、「DAKKO」と「FELLA」で、なんとなく子音と母音の構成が一致している。ならば「だっこ」に引っ張られて、こちらも「ふぇっら」と発声したっていい。それでいくらかでもポップさや可愛げが出て、女の子たちの抵抗感や拒否感が減ずるのならば、発音なんて如何様にでもしてくれて構わない。
 もっともここまで書いて思い出したが、僕は去年や今年の夏、ステカで作成した「BUNS SEIN!」Tシャツを着て普通に外を歩いているが、このブログのタイトルでもあるこれは、改めて言うまでもなく、まんぐりがえしを意味しているので、若干のいまさら感もある。もしかすると僕は、肉体も精神もとっくにおかしいのかもしれない。

アシタカせっ(くす)記

 金曜ロードショーで夏にやっていた「もののけ姫」を観て、やけに感動した。暑さとか、コロナ禍とか、そのとき置かれていた状況とか、思えばいろいろ停滞していた精神状態の折、もちろん身の入った読書なんかも出来ずにいた中で、見ごたえのある物語に感銘を受けたということかもしれない。そしてこれは僕に限ったことではなく、一緒に観たファルマンも興奮していたし、さらにいえば職場の同僚も、僕としゃべっていたわけではないが、「昨日「もののけ姫」を観て感動して、どうでもいいバラエティとかばっかり観てないで、ああいうのも観なきゃダメだなって思った」と話し相手に向かって語っていて、どうも今回の「もののけ姫」は、ずいぶんと人々の心に刺さったものらしかった。
 観たのはもちろん何度目かになるが、ジブリ映画は往々にしてそうであるように、今回も多々新しい発見があった。ひとつは、「これって実はほとんど、主人公が男で、舞台が日本の、ナウシカなんだな」ということである。タイトルでミスリードされているが、もののけ姫、すなわちサンなんて、ナウシカにおけるアスベルとまではさすがにいわないが、実はそこまで重大なキャラクターではない。この話は、なんてったってアシタカだ。「もののけ姫」とは、こんなにもアシタカがひたすらかっこいい話だったか、と思って、思ったあとに当時のドキュメンタリーのことなどを振り返ってみたら、「もののけ姫」はもともと「アシタカなんとか」がタイトルだったんじゃなかったっけ、ということを思い出し、検索したらなるほど「アシタカせっ記」というのがそれだった。ちなみに、「せっ記」ってなんだよ、とまた検索したら、「せつ」の部分は宮崎駿のなんと創作漢字だそうで、それは敏夫とかに変更されるよ、と思った。とにかく、やっぱり本質はアシタカの物語だったのだ。
 全編アシタカはかっこいいのだが、最もすごいと思ったのだが、本当に最後のほう、ジコ坊が取ったシシ神の頭を、デイダラボッチになった体に返そうとするシーンだ。ドロドロが大地を埋め尽くし、とても混沌とした状況の中、誰もが惑い、どうしていいのか分からず右往左往している中、アシタカだけが迷わない。ジコ坊を説得して、頭を入れていた桶を開けさせる。そして出てきた頭をサンとともに(別にサンなんていてもいなくてもいい)頭上に掲げ、こういう。「シシ神よ! 首をお返しする! 鎮まりたまえ!」これがすごいと思った。そもそもシシ神が伝説の存在で、その首をちょん切っちゃって、頭のないデイダラボッチが命を奪うドロドロを撒き散らして、もう首を返すしかない、という状況である。なんだその状況。この世でまだ誰も体験したことのない状況。想定問答集には絶対に載っていない状況。もしも僕だったら、無言でおずおずと差し出すしかできない。こんなときにふさわしいセリフが思い浮かばない。しかしアシタカは違う。ああそれが正答だな、みたいなことをすかさずいう。もっともアシタカが正答をいうのではない、アシタカのいったことが正答なのだ。
 エロ小説で、よく3Pだの4Pだのという状況になるわけだが、どうしてそうなるかといえば、大抵の場合は主人公に決断力がないからだ。「どっち(だれ)を選ぶの!?」と女の子たちに責められ、選べず、「一緒に、じゃ、ダメ……かな?」などとしどろもどろに述べる。そうすると女の子たちは、「もう、しょうがないわね」とため息をつきながら、3P4Pをしてくれる、というのがいつものパターンだ。
 アシタカならそんなことにはならない。「どっち(だれ)を選ぶの!?」と詰問されたらば、「どちらもだ! だれもかれもだ! みんなでしよう! みんなでしゃぶれ! みんなを抱く! ともに生きよう!」と、よく考えれば最低なことを、力強くいう。アシタカがそういったら、それが正しくなるので、女の子たちはもちろん応じるだろう。
 アシタカの揺るがなさを目にして、そんなことを思った。

性的

 性にまつわる本を読んだ。性にまつわる本という表現の幅は広く、固い学術書から、ラノベのようなエロ小説まで、なんだって性にまつわる本ということになり、さらには作者がそういう意図で書いていなくても、受け手が曲解して性にまつわる本として捉える場合さえあるし、そもそもこの世は性によって成立しているとするならば、本に限らずありとあらゆる事象は押し並べて性にまつわるということになるが、とりあえず今回読んだのは、思春期の性の悩みに専門家が答えるタイプの、ああいう本である。
 こういう本は、思春期に差し掛かった本人、思春期の子どもを持つ親、どちらが読んでもいいように書かれているが、僕はそのどちらにも当てはまらない20歳くらいから、純粋な興味としてこういう本を多く読んできた。僕にとっての性欲とは、「性(に関する知識)欲」だ、とかつて喝破したが、まさにその欲求から、図書館や古本屋などで見つけては、せっせと手に入れて読んできたのだった。
 そうして、それなりに長年読んできたので、時代による内容の変遷についても、思いを馳せたりする。今回読んだ本は、最近に刊行されたものだったので、LGBTなど、性の多様性についてしっかりと触れられていた。何十年も前の本だと、女は嫁に行って子供を産まなければならない、なんてことがごく普通に書かれていたりするけれど、今はもちろんそんなことない。性に関して、世の中は本当に寛容になったというか、なにも押し付けなくなった。もとい、押し付けたらいけないんだ、という周知が徹底された。それまで暗部に追いやられていた性的マイノリティという存在が、こういってはなんだけど日の目を見たことによって、ある部分に光が当たった結果、しかしその日陰もできたな、ということを感じる。あるいは強すぎる陽射しによって飛ばされ、目がくらみ、見えない部分ができたというべきか。「性は人それぞれ」という結論は、それは本当にその通りで、そうでなくてはならないのだけど、それは市井の暮しにおいては、触らぬ神に祟りなしというスタンスに帰着するほかなく、性の話はタブーということになり、しかし冒頭でもいったように、この世は性によって成立しているので、性の話がタブーの世界では、発せる言葉などなにも存在しないことになってしまう。でもそのことに息苦しさを感じることが、もう旧時代的な感性なのであって、性的マイノリティを無意識に排斥していた時代の人々が感じる息苦しさになんて、新しい時代は思いをかけてくれない。彼らは新時代の言語を持っていないだけ、ということにされてしまう。そして我々は無口になり、たまに言葉を発しては、問題発言だと糾弾される。しかし性から逸脱した、解放された話に、いったいなんの価値があるだろうか。旧世代による性的な話に呆れるのと同じくらいに、我々だって新世代の性的じゃない話に、つまらなすぎて白目をむいているのだ。こっちはダメで、そっちはいいのか。
 話が横道に逸れた。にわかに熱くなったが、実は横道の話だった。読んだ本で最も印象に残ったのは、彼女の都合を考えずにセックスをねだる彼氏に悩む女子へ向けた、『「ため込むと性欲が抑えられなくなる」というのは嘘。射精をしない日が続いたから性欲が増すなんてことはありません』という文言で、なぜなんだ、と思った。なぜ、この本の著者はそんな虚偽を平気で書くのか。ためると性欲、増すよ! 射精直後と3日後では、世界の見え方がぜんぜん違うだろう! 空腹は最高の調味料というのと一緒で、射精せずに性欲が増せば増すほど、世の中のありとあらゆるものが性的に思えてくるものじゃないか。人生ってその繰り返しだろう。そのバイオリズムで、性によって成立している世界を、瞬間瞬間どう見るかという、生きるとはそういうことだと思っていた。新しい時代は、そこまで否定するのか。言葉のみならず、世界の見え方まで否定するのか。目的はなんなのだ。貴様らの目指す先の未来には、いったいなにがあるというのか。

それってどんなりんご?

 ファルマンと、ファルマンの友達だという好色な女と、3人で遊んだ。
 夢の話である。
 ファルマンの友達に、好色な女はいない。いや、いないかどうかは知らない。少なくとも、僕の夢に出てきたあの好色な女は、実在するファルマンの友達ではないということだ。
 なにをして遊んだかといえば、「それってどんなりんご?」をしていた。
 「それってどんなりんご?」とはなにかといえば、僕もついこの間、夢の中で好色な女といちどやっただけだから、そう詳しいわけではないのだけど、たとえば僕と好色な女、実際のところファルマンはゲームには参加せず横にいるだけであり、このゲームは基本的にふたりでの対戦となるわけだが、ふたりが順番に、「それってどんなりんご?」と相手に訊ねる。訊ねられた相手は、「蜜が詰まっているよ」だとか、「種があるよ」だとか、「皮を剝くよ」だとか、「赤くて丸いよ」だとか、りんごの特徴を答えていく。しかしそれはりんごの特徴であると同時に、性器の特徴でもあるのだ。というより、りんごでカムフラージュしつつ、実はずっと性器のことをいい続けていたのだ、僕と好色な女は。
 夢の中で行なったのはそこまでで、起きてから、対戦する競技ゲームという触れ込みのくせに、いったいあれのどこが競技なのか、ただのりんごにかこつけたエロトークではないかと思って、どういうことなのかと考え、マジカルバナナが、ゲームのルール説明の際に「バナナといったら滑る、滑るといったら氷」というふうにバナナを使うから、本物のゲームの中ではバナナがぜんぜん出てこないことのほうが多いのにゲーム名はあくまでマジカルバナナ、というのと一緒で、要するに夢の中の僕と好色な女は、永井美奈子が口で説明する「バナナといったら滑る……」を、僕に実際にやってみせてくれていたのだと思った。
 つまり、ゲーム名は「それってどんなりんご?」であり、それを決め台詞として互いに訊ね合うのだけど、本当にりんごが主題になるわけではない。それぞれが頭に思い浮かべた(あるいはあらかじめカードなどに記した)なんかしらの対象について、性器の特徴と絡めながら答えていく。そして相手はその答えから、なにについていっているのか当てる。これはそういうゲームなのだ。
 たとえばこうである。
A「それってどんなりんご?」
B「やわらかかったり、固かったりするよ」
A「…………?」
B「それってどんなりんご?」
A「中にいろいろなものが入れられるよ」
B「…………?」
A「それってどんなりんご?」
B「引っ張ると伸びるよ」
A「…………?」
B「それってどんなりんご?」
A「使ってるとだんだん黒ずんできちゃうよ」
B「…………?」
 というふうに、ゲームは展開する。ちなみにA(♀)のりんごは「ペンケース」、B(♂)のりんごは「餅」である。
 しかしプレイヤーが自分でりんごの正体を考えていいとなると、上記のそれがそうであるように、どうしても性器に対して寄ってしまうというか、共通項の多いものになってしまいがちだと思う。まだ僕はこのゲームをしたことはいちどもないけど、しまいがちだと思う。これを改善するためには、第三者に20個くらい、「カメラ」とか「湖」とか「チョコレート」とか「蜂」とか、性器のことは気にせず単語を挙げてもらい、それをカードにして、プレイヤーに1枚ずつ選ばせればいいのだと思う。そうして性器とはまったく関連性のなさそうなものから、これまでまるで気づいていなかった性器との共通項、すなわち性器性を探ることこそが、このゲームの醍醐味なのだと思う。そして思い至る。夢の中のファルマンは、この役割の人だったのだと。夢の中では本当にりんごをテーマにしていたから不要だったはずなのに、それでもファルマンはあの場にいた。それはつまり、このゲームには3人が必要だということを示唆していたのではないかと思った。
 そんなわけで、みなさんもぜひ、合コンとかで「それってどんなりんご?」をやってみてほしいと思います。それってなんだかとってもいいんじゃないかと思います。