不入

 射精をするとそこで終わってしまって寂しいから、いつまでも勃起して愉しい状態を保つための心得として、「不出」というのがある。ださず、である。女の子とエロいことはするけれど、女の子のほうだけイカせて、自分はいつまでも射精しない、女の子を、エロ愉しさを増幅させるための装置として利用する考え方である。
 これはたしかに理屈で、本当なら射精なんてしないほうがいいに決まっているのだ。いちどの射精で、200メートル全力疾走分の体力を消費、なんてことがまことしやかにいわれるし、そもそも射精したあとの寂しさ、もの哀しさといったらない。いわゆる賢者タイムのなにがいちばん哀しいって、射精する前の愉しかった自分を、否定する思考になってしまうことだと思う。自分はなんてくだらないことに時間と情熱をつぎ込んでしまっていたのか、などと感じてしまう。それは不幸なことだ。
 だから「不出」は守れれば守るに越したことはないのだけど、でも実際問題として、挿入しておいて射精しないってどういうこと? という話だ。自分自身の消化不良感はもちろんのこと、なにより相手の女の子の気持ちになって考えたとき、挿入をされたことがないので推測にはなるが、挿入をされながら相手が射精に至らなかったら、きっとムッとすると思う。普通に考えて中折れを疑う。そんなに気持ちよくなかったか、と憤りたくなることだろう。それを「俺、不出信奉者やねん」で納得させるのは難しいはずだ。
 じゃあどうするかということを考えて、「挿入」と「不出」が両立しないのならば、そのどちらかのチェックを外すほかないという結論に至った。それで多くのパターンでは「不出」のチェックが外され、男たちはもの哀しき賢者となってきた。では逆に、「挿入」のチェックを外したらどうか。つまり「不入」である。いれず。
 実はこの心得については、前々から構想していた。例えばエロ画像を、漫然と見たりしていて思うことは、挿入って、してしまうともうつまんねえな、ということだ。根元までずっぽり嵌まっている状態って、当人たちにとってはそりゃあ気持ちいいのだろうが、見ていてぜんぜんおもしろくない。だって古事記でいうところの、成り成りて成り余れる処と、成り合はざる処の、双方がピタッと組んでしまっているから、完璧な状態になってしまい、見た目的には無なのだ。ざっくばらんにいえば、ちんこもまんこもない、互いの脚の間をくっつけているだけ世界がそこにはできあがり、見ていてなにも愉しくない。興奮しない。ちなみにこの問題を解決するための方策として、二次元イラストにおいては、断面図という手法がある。膣内にペニスが入り込んでいる様を、アントクアリウムのように断面で見せてくれる。なるほどな、とは思うが、正直いってあまり興奮にはつながらない。膣内の様子は、もうそこはエロの領土ではないような気がするからだ。だからもういっそのこと、入れなければいい。入れたらもう、あとは射精まで待ったなしになってしまう。それは祭りに似ている。始まってしまえば、すぐに終わりを意識してもの哀しくなってしまう。始まる前の、準備している期間がいちばん愉しい。セックスもそうだ。だから入れる直前の、互いに欲情して、男はよく勃起し、女の子はよくほぐれているという状態が、実はいちばん多幸感があるし、だからいつまでも続けばいいと思う。
 そしてこの、挿入には至らないけれど永く欲情している状態、これとはすなわち、童貞の所業である。童貞は、挿入に焦がれ、挿入への思いを募らせ、しかしそれがままならず、夢想し、煩悶する。それが実は、セックスの奥義のひとつである「不入」の体現であったのだ。セックスの修行者が「不入」の階梯へと進んだとき、自分はかつて完璧なる「不入」の体現者であったことを喝破する。武道の動きや呼吸法などで、赤ん坊が自然とやっているようにやる、というのが意外と奥義であったりするように、セックスの神髄というのもまた、性に目覚めたばかりの、性という世界における赤ん坊のような、入り口に立ったばかりの存在としての童貞にこそあるのかもしれない。その入り口は、どこまでも続く長い道程の入り口のようで、実は女性器とは、入り口であり出口でもあるので、スタートがゴールでもある(もといそのどちらでもない)。つまりセックスとは、セックスをしないこと、ともいえる。あるいは、セックスをしないセックスをするのだ、ともいえる。これを「不入」といい、われらが流派における珍宝とされております。