おっぱいレリーズ


明けからアニメ放送が始まった「カードキャプターさくら クリアカード編」に関して、ほうぼうのブログでちょいちょいと言及している。またここでもする。
 先日、何週か前の放送回、みんなで花見に行く話を観ていたら、小狼がお菓子を作ってきたと言って取り出したのが、「桃まん」という名前の、どう見てもおっぱい饅頭で、日本酒を噴き出しそうになった。白い球体のてっぺんが突起になっていて、そこだけ桃色。それはどう考えたって桃ではなく、おっぱいなのだった。世の中に絶対なんてないと思っていたけれど、でもこれは絶対におっぱいだった。……いやでも待てよ、そもそも「桃まん」というお菓子のジャンルをこれまで寡聞にして知らなかったけれど、それは定型としてああいうデザインで統一されているものなのだろうか。それならば仕方ない。その場合でもチョイスには難があったとは言わざるを得ないが、それでも小狼の罪はいくらか軽減される。ということで「桃まん」で画像検索してみる。すると出てきたのは大抵が球の上半分くらいの広範囲が桃色のもので、あんな突起部分だけが桃色のものはひとつもなかった。さらに言えば、あんなにも著しく突起部分が突起している形状というのも見当たらず、これでいよいよ小狼へ疑惑の目を向けざるを得なくなった。だって純粋に果物としての桃のことだけを考えていたら、たぶんあんな形にはならない。果実としての自然な曲線から逸脱している。だから、あれを成形した小狼の頭には、邪念があったに違いないのである。邪念とはなにか。その謎を解く鍵は、小狼が中1の男子である、という事実にある。中学1年生の男子が、自らの恋人を含む女の子たちと花見に行くにあたり、お菓子を手作りするとなったら、どんなことを考えながらそれはなされるか。そんなのもう、火を見るより明らかで、実際にその動かぬ証拠として、だって小狼くんの作った桃まんはあんまりにもおっぱいじゃないか、ということなのである。小狼は、乳首部分の造形には特にこだわり、またその色味を理想に近づけるために、赤の着色料をとても繊細にまぶしたに違いないのである。
 なんという変態行為だろうか。そして、桃まんがおっぱいまんになってしまうという事象の原因を、「なぜなら中1の男子だから無意識にそうなってしまった」と説明したが、しかしこれこそが小狼の策略なのである。ここまでおっぱいに寄せてきている作品が無意識であるはずはなく、小狼は確信犯的におっぱいまんじゅうを少女たちに披露したと考えるべきだ。なぜか。それはもちろん反応を見るためである。少女たちだって、そのあまりのおっぱいっぷりに、(お、おっぱい……)と心の中で感じるに違いないのだ。それは仕方ない。だってそれは実際に桃ではなくおっぱいをかたどっているのだから。しかし制作者である小狼は、(ここぞとばかりに)とても精悍な顔をして、「桃まんを作ってきたんだ桃まんを」と五七五で言うのである。だからこれは桃まんなのである。それだのにおっぱいのことを連想して頬を赤らめたとしたら、その子はスケベな子なのである。だからそう思われまいと、女の子たちは「わ、わあ。おいしそうな桃まんだね!」「う、うん。桃まん! 桃まんだよねこれは!」と口々に自分に言って聞かせる。そのいかにも思春期的な、おぼこい取りつくろいこそが、小狼の好物。そこまでが狙い。変態親父じゃねえか。
 しかし桃まん。桃は、果物としてのそれ自体が、お尻に似ているとされがちなのに、それをおっぱい風に仕立てて、しかも名前に「まん」がつく。プライベートゾーンのコンプリート。そんな隙のない食べものがこの世にあったのか。世界はまだまだ知らないことだらけだ。
 桃まんをきっかけに、アニメの内容について、久しぶりに人と語り合いたくなった。職場の同僚の、カードキャプターさくらが好きな例の20代半ば女子に、この内容を語ったら、たぶん働きづらくなるんだろうなあと思う。よします。

いいんだよ


然とした態度で書きたい。
 時代の趨勢に反しているが、正しいという理念の下、主張をしたい。
 我々は、女子高生に欲情してもよい。
 待ってほしい。通報は待ってほしい。話を聞いてほしい。
 欲情という言葉のイメージがよくないと思う。こう言うと、衝動を抑えられず電車内で痴漢だとか、あるいは金銭を支払って肉体を買うとか、なんか一気にそういう情景が浮かんでしまう。僕は別にそれを許せと言っているのではない。そういうのは卑劣だと思います。許せないと思います。「痴漢モノ」「援助交際モノ」なら話は別ですけど、現実世界でやるのはもちろん駄目。犯罪。完全アウト。
 そういうんじゃなくて、じゃあ逆に、女子高生の太ももとかブラウスとか、そういうものを目の当たりにして、僕たちは心拍を上げたらいけないんですか、心拍が上がらないのが正常だって言うんですか、という話なのである。そんなはずはないのだ。あだち充を読んでいたら、主人公とヒロインの、高校生同士の恋愛および性欲は描かれるのが当り前だとして、その主人公の父親とかも普通に、女子高生のスカートの中や裸を熱心に見たがるのだった。その様を眺めていて、そうだよな、これが普通なんだよな、としみじみと思ったのだ。思えば近ごろはそのことを忘れていた。なにか下手をやらかすとすぐに匿名の批判もとい誹謗中傷が殺到する昨今、外に向けての表現がおとなしくなるのは仕方ないことだが、知らず知らずのうちに自分の思考さえもが縮こまっていた。これは危険なことだと思う。自分の頭の中は自分だけのもので、どんなことを考えたって妄想したって自由であるはずなのに、それを封じ込めようとしていた。危ない! 思考はありとあらゆる外的な制約を超克しなければならない、そうでなければその人が生きている意味はないというのに!
 ちょっと熱くなった。議題は、女子高生に欲情してもいいのか、である。もちろんいい。痴漢や援助交際が駄目で、あだち充の漫画でヒロインのスカートがめくれたのを見ておじさんが喜んだりするのがなぜいいのか。やっていることは同じではないのか。そうではない。あだち充の漫画に出てくるおじさんは、自分の手で女子高生の身体をどうこうしようとはしない。じゃあ同意の上か、と言えばそういうことでもなく、突風が吹いたり、チアリーダーが応援で脚を振り上げたりという、そういう現象に際して女子高生のショーツを目にし喜ぶという、そういう仕組みになっている。つまりそのエロハプニングの発生に自己の差配は介在せず、純然たる授かりものとしてのみ享受している。そこが紳士的と言うか、理知的だと思う。「エロい→触る」ではなく、言わば「エロい→祈る」なのである。男として生まれた瞬間から、人生をかけて熱心にエロいことを頭の中で考え続け、そうやって日々の鍛錬でレベルを上げていたからこそ、神様がときどきもたらしてくださるエロを、余さず味わうことができる。そしてそのエロが斯様に、「男と女」というよりは「男と神」という構造で成り立つものであるがゆえに、その対象は往々にして女子高生になるのだと思う。ここに少し論理の飛躍があったように感じられるので、慎重に言葉を選びつつ説明をしたいが、女子高生っていうのはほら、身体としてはほぼ女性性として完成していて、それでいてまだ俗世間の汚い部分に染まっていない存在じゃないですか。「人間社会の女」ではなく、「きれいな世界の住人(それでいて性的には成熟している)」とでも言おうか。そこがいい。そこがいいんだ。
 だから別に、手を出してどうこうっていうんじゃない。審美眼的な視点で眺めて尊んでいるだけだから、本当に害はない。たとえば夕暮れ時に、雲が後ろから橙色の光線に照らされて縁が透けるようになって、暮れなずむ空の色と混ざり、信じられないほど美しい風景が現れる、そんなときがあるだろう。女子高生のエロスって、そういうものなんじゃないかと思う。それを目の当たりにしたとき、人はどう思うか。この世界に生きている幸福を再認識し、生きているだけで丸儲け、こんなに素晴らしいことはない、と思うのである。
 それをあだち充のおじさんたちは、「ムフ」の一言で表現する。この「ムフ」がいい。たぶん漢字に直すと、「無風」だと思う。「風」という漢字には「さかりがつく」という意味が実はある。だけど突風でめくれたスカートの中を見たおじさんの心は無風だよ、とてもフラットな気持ちで、この世界そのものを肯定して、そして君に欲情しているところだよ、という意味になる。素敵だ。SNSも、「いいね」ボタンなんかじゃなく、「ムフ」ボタンがあればいいと思う。そうしたらインスタグラムとかでたくさん押してやるのに。

「ラフ」と「H2」とビキニ


キニは好きだけど、マイクロビキニには逆に萎えたりする。なぜならマイクロビキニは、女の子が積極的にエロくあろうとしているからだ。それがいただけなくて萎える。女の子がどうして好きかと言えばエロいからなのだけど、女の子自身は自身のエロさを否定していてほしい。
 最近またハマって精力的に読んでいるあだち充の、「ラフ」だったか「H2」だったか忘れたが、登場人物のひとりが「女の子の水着は年々面積が小さくなるから長生きしたい」みたいなことを言っていた。いい台詞だし、そしていい時代だと思った。描かれたのはどちらにせよ1990年前後のことで、当時の水着事情は、まだ性に目覚めていなかったのでよく知らないけれど、水着以外のファッションや工業製品がそうであったように、どんどんと野暮ったさが剥がれ落ちていった時代なのだろう。自分が子どものときの写真を見ると、写っている自動車が角ばっていてびっくりしたりする。それがみるみる洗練されていった。水着も、変なけばけばしいものから、ナチュラルに、こじんまりと、女の子の肉体のかわいさが際立つように、研磨されていったのだと思う。すてきな時代。経済的にはバブルが崩壊し、失われた20年とか言われるようになるわけだけど、でも女の子の水着がかわいくなっていったのだから、やっぱりいい時代だと思う。
 その水着がこの2年くらいは変で、トップとボトムをあえてまるで別物のようにしたものや、ボトムが腰の上まであるハイウエストのものなど、おかしなことになっている。水着がこんなことになるようじゃ、ぜんぜんこの世界で長生きしようという希望が持てない。いい時代じゃない。改めるべきだ。ハイウエストボトムで脚長効果とか、バカなことを言うな。得られる効果に対してリスクが高すぎるだろう。笑うと皺ができるから一生笑わない、と言っているようなものだ。生きてて愉しいか。
 文頭でも言ったが、僕は別に水着の面積はもっと小さくなるべきだ、みんなマイクロビキニのようになるべきだ、と言っているわけではない。ある程度の三角トップ、ある程度のローライズボトムならそれでいい。面積はそこでストップでいい。将棋が、かつてはもっと盤が広く駒が多かったのが、時代を経て今の形に定着したように、野球が、かつては100点を先取したほうのチームの勝利であったのが、現代の9回制になったように、ここで停止していい。ビキニからこれ以上の面積を奪うと、品がなくなる。敬遠が申告制になるみたいなもので、情趣に欠けることになる(僕自身は野球にそれほどの熱情はないので、実際には別に大した問題だと思っていない)。
 それではビキニの面積をもう削れなくなってしまったこの時代に、我々はいかにして、かつての男たちがそうであったように、長生きをすればするほど得だなあという気持ちになれるのだろうか。今年の夏は去年の夏よりもずっといい夏だと思える要素を、どうやって毎年ビキニに盛り込むか。
 僕はそれは、紐だと思うんですね。ビキニの神髄って、生地部分ではなくて、紐にあるんだと思う。これもあだち充を読んでいて悟った。「おっぱいが膨らんだからもう海でビキニの上を失くしはしない」という短歌をつい昨日に詠んだけれど、このエピソードは「ラフ」にも「H2」にも登場した。亜美も春華も、成長途上の薄い胸に無理なビキニを纏い、海で流されたという。本当か。本当にそういうものなのか。膨らみという引っ掛かりがないと、そんなに「ビキニの上」の紐はほどけてしまうものなのか。ものなのだと思う。だって紐はほどけるものだから。ほどけない紐はないから。そしてほどけたらもう水着の面積なんて関係なくて、おっぱいやバンズといったプライベートゾーンがさらけ出される。そこに夢と希望がある。とにかく生きていこうと活力が湧き出る。
 だからもうビキニは、自分の好きな配色の1着を購入したら、それを何年も着ていい。どうせ夏にせいぜい3、4回着るくらいなのだから、普通に考えて何年も持つだろう。それじゃあトレンドに乗り遅れる、だなんて思わなくていい。ましてやそれがハイウエストのごときトレンドなら、放り投げてしまえばいい。その代わり、紐の結び方に凝ればいい。リボン結びのスリルもいいし、本結びの頑丈さもいい。逆に男結びを選んでみる無邪気さにだって惹かれる。ぶきっちょで結ぶのが苦手な子は、簡単にほどけて流されることもあるだろう。そういうとき、紐を強く上手に結んでやれる男になりたい。毎年だんだん、トレンドの紐の結び方は、難解かつほどけやすくなっていけばいい。もう前提として男の力を借りなければ結べないような紐の結び方が流行ればいい。哀しい来歴のビキニだからこそ、ビキニのために、武器を捨て、その研究ばかりが公費で推し進められればいいって思うんだ。