除夜の鐘 2023

 2023年が終わる。
 終わるにあたり、プールに行った回数とともに去年の途中から集計を取るようになった射精の回数も、1年間の合計を出した。出した結果がミラクルだった。
 108回だったのだ。
 折しも108という数字を意識しやすい年末である。煩悩の数だけ撞くと言われる除夜の鐘。僕はこの1年間で、ちょうどその回数分だけ射精をしたのだった。射精をした直後の清々しさのことを思えば、なるほど射精と除夜の鐘は同一の機能を持つのかもしれない。
 以前からプールに行った回数に関しては記述をしていたが、射精回数に関しては明確な数字を記すのを控えていた。あくまで射精の回数であり、セックスの回数ではないので、ファルマンを巻き込むことになるから自重していたということではなく、自主的な羞恥により隠してきた。そのスタンスを変えるつもりはまったく持っていなかったが、しかし今回は数字が数字だったので、こうして発表するほかなくなった。
 ちなみに発表を前に、40歳での年間108回というのが、多いのか少ないのか、いちおう確認しておくことにした。「年間射精回数」で検索したところ、もっとこう、「俺の今年の年間射精回数は〇回だったぜ」みたいな、気さくな記述がざくざく出てきてほしかったのに、そういうものにはついぞたどり着けず、日本人のセックスレス問題や、射精回数が多い人のほうが前立腺癌になりにくい、みたいなページばかりが表示され、役に立たなかった。その中でひとつだけ参考になったものとして、とある泌尿器科の医者が書いていたブログ内で、「射精の頻度を割り出す9の法則」というものが紹介されていた。それによると、年齢の十の位に9を掛け、20代ならば18、30代ならば27、40代ならば36となり、それぞれ10日に8回(年間292回)、20日に7回(同128回)、30日に6回(同73回)という計算になるらしい。なんとなくそれっぽい数字だな、と思う。とすれば、40代と言っても僕は9月までは30代であったし、なんかまあ順当なところなのかな、と思った。まあ別に回数の数字が大きければ大きいほどつええ奴、ということでもないし、そこまで拘るものでもなかろう(とは言え発表前に確認をしておく必要はどうしたってあった)。
 最終的にそんな数字になるとは夢にも思っていなかったから、意識せずに日々の射精をしていたけれど、僕は1年間を通して、除夜の鐘を鳴らしていたのだった。108回。満足のいく撞きになったときもあれば、失敗したときもあった。そのひとつひとつが煩悩との闘いであったと考えると、この1年間の自分のその行為が、丸ごと愛しいものに思えてくる。
 寺社にある、釣鐘を撞くためのあの棒は、橦木(しゅもく)と呼ぶらしい。傘も刀もピストルも、ありとあらゆるものが陰茎のメタファーであるならば、あれなんかはもはやメタファーでさえなく陰茎そのものだと言えそうだ。昔行ったかなまら祭りの風景なんかも、自ずと甦ってくる。僕はこの1年で108回、堅牢なる橦木で鐘を撞いた。
 僕の造語でシャノマトペと言われる、射精の際に放たれる擬音(擬態)語。それはこれまで「ドピュピュピュ」であるとか「ビュービュビュー」であるとか、だいたいそのような文字列であったが、これからは僕の橦木が打ち鳴らす音として、「ゴーーーン」こそがふさわしいのだと喝破した。大みそかの夜、どこからかその重厚たる音色が聴こえてきたらば、それは僕の射精の響きであると思ってほしい。そしてそれは、思うだけでいいのだ。なぜなら「ゴーーーン」は、もう過ぎ去ってしまったもの(gone)だからだ。陰嚢から放出された、失ったものではなく、その次のことにこそ思いを馳せてほしい。
 そんな見事な結末を迎えた、今年の僕の射精ライフなのだけど、プールの年間最終開館日の夜に、一緒に集計を行なったので、この数字が判明したのは12月29日なのであった。そのため話をこのままきれいに終わらせるには、今年はもう1回も射精をしてはならないということになってしまい、そもそもその時点で、前回の射精からほどほどの日数を経ていたので、なんか少しやるせない感じになった。もう1回すれば109、そこからさらにもう1回すれば110ということになり、それぞれの数字でうまいこと言えないものかとも模索したが、やはり煩悩の数に勝るものはないという結論に至った。でももう大みそかも夕方なので、それは無事に成りそうである。
 来年はきちんと40代として過す1年間になるからこそ、108という数字に拘ることなく、今年以上の数字を目指し、スタートダッシュを決めたいと思っている。
 よいお年を。

「金玉肉袋の寛ぎ」を読んで 8年H組 purope★papiro


 鼻炎薬を服むと金玉肉袋が寛ぐ。
 とかく気が滅入る体調不良の中で、その発見にどれほど魂が救われたか知れない。金玉肉袋が寛ぐと、勃起とはまた違う種類の、生きる希望が滾るのだった。
 体調が回復して、鼻炎薬の効果が切れれば、金玉肉袋はいつもの状態に戻った。体そのものは元気になったのだから、良しとするべきなのだろうが、金玉肉袋に関してだけは、幽かな喪失感を抱くこととなった。
 鼻炎薬を服むことで金玉肉袋が寛ぐのは、要するに血流であろう。血流が良くなり、体温が上がることで、免疫力が上がり、鼻炎は鎮静化し、そして金玉肉袋は寛ぐ。寛ぐというのは客観的な感想で(僕が僕の金玉肉袋に対して完全な客観性を持つことは不可能だが)、精巣擁する金玉肉袋は、突然の体温の上昇に際して、熱を逃すために表面積を増やしているのだろう。そのためピンチと言えばピンチだが、ピンチは同時にチャンスでもあり、嵐を前にして的確な指示で帆を張ってみせる航海士のように、その姿はどこか誇らしげでもある。
 であるならば、金玉肉袋を肥大化させるためにいつも鼻炎薬を服むわけにはいかないが、生活の中で血流を良くすることを心がければ、金玉肉袋というものは、これまでの暮しの頃よりも、寛いだ表情を見せてくれる場面が増えるのではないかと考えた。
 そこでインターネットで血流を良くする方法を検索したところ、ハイカカオチョコレートがいいという情報を得て、それ以来1日20gほど、カカオ分85%だというチョコレートを食べる習慣を始めた。すべては金玉肉袋を寛がせるためである。
 そしてこのたび、それを開始して10日ほどが経過したので、その結果について報告をしたい。
 ハイカカオチョコレートを摂取することで、本当に金玉肉袋は寛ぐのか否か。
 答えはYESである。
 ただし鼻炎薬ほどの強烈な現象ではない。しかしそれはそうだと思う。あれはやはり医薬品の、イレギュラーな刺激に対する反応であろう。常時あのような態勢でいたら、たぶん健康に良くない。
 それに対してハイカカオチョコレートを食べるようになってからの金玉肉袋は、健康的である。だらんと弛緩するのではなく、しかしこれまでのように萎んで固い感じとも明らかに違う。なんと言うか、ぷりぷりしている。触り、揉むと分かる。ぷりぷりしている。
 ぷりぷり! 怒っているのではない。肉体の描写にこの表現を使われ、悪い気のする人間はそうそういないと思う。おじさんが、若い女の子とかに使うと、もしかすると嫌がられるかもしれない。それこそぷりぷり怒るかもしれない。でもそんなおじさんの金玉肉袋を触ったら、若い女の子もこう言わざるを得ない。やけにぷりぷりしてる!
 滝口悠生の「死んでいない者」という小説に、幼児の男の子の性器を、金魚の心臓のよう、と喩える場面があり、その比喩はやけに心に刺さり、健やかな少年の性器というものは、なるほど金魚の心臓のような、自然の摂理というか、生命そのものというか、好もしさが漲ったものだな、ということを思ったが、ハイカカオチョコレートを摂取することでぷりぷりし出した僕の金玉肉袋は、かつては僕も実際にそうであったはずの、往時のその姿を彷彿とさせているのではないかと思った。
 血流を良くするのと同義なのかもしれないが、ハイカカオチョコレートの効能のひとつに、ポリフェノールによるアンチエイジング効果、というものがある。つまり僕はハイカカオチョコレートを食べたことにより、金玉肉袋を若返らせることに成功したのかもしれない。そして今のところ金玉肉袋にしかその効果は見出せない。これは金玉肉袋が、人体におけるカナリヤ的な、なにか異変があったときに真っ先に反応するという特性を持っているからなのか、あるいは、筋トレをするときはそのトレーニングで効果を得たい部位を意識しながらやると効果的というのと一緒で、僕が金玉肉袋のことだけを一心に考えていつもチョコレートを食べるものだから、素直にその効果がそこに注がれているのか、定かではない。どちらにせよ、求めていた結果は得られたので万々歳だ。
 願えば叶う。やればできる。不可能なんてない。僕は金玉肉袋を通して、そのことを学んだ。もうこれまでの僕とは違う。だって僕の金玉肉袋は、ぷりぷりしているのだから。

俺とツタンカーメン


 ポルガが相変わらずツタンカーメンに傾倒している。1年以上前から古代エジプト王朝への情熱はあって、それで去年あのTシャツを作ったわけだが、あれからますますその度合いは強まっているように思う。それにしてもあのTシャツは本当によく着た。同時に作ったピイガも同じくだが、たぶん365日でそれぞれ90日くらいはあのTシャツだったんじゃないかと思う。娘たちは、見たらいつもあのTシャツを着ていた。
 そんなポルガがつい先日、「ツタンカーメンのお墓から、パンツが150枚発見された」という情報を開陳してきたので、パ、パンツが150枚!? と衝撃を受けた。この衝撃は、大抵の人においては、そんなにたくさん!? というものだろうが、僕の場合は違う。おなじだ! である。パンツ150枚。最近はもうきちんとナンバリングしていないので、何枚になったのか不明瞭なのだけど、たぶんそのくらいではないかと思う。既製品を足したらもっと多くなるが、とりあえずハンドメイドショーツだけで考えれば、僕とツタンカーメンは同じくらいの数のパンツを所持していたということになる。
 なんだか一気に親近感が湧いた。
 ただしツタンカーメンが特別なインナー好きであったという証拠は残されていないようで、おそらく体の弱かった彼のために、清潔を保つ目的で数多く用意されたのだろう、という推測が立てられているらしい。本当だろうか。清潔を保つことだけが目的で、それほどの数になるだろうか。推測を立てた研究者は、まず間違いなくパンツを150枚持っていないだろう。それではパンツを150枚保持する人間の気持ちが分かるはずがない。僕は分かる。ツタンカーメンは、インナーに対して特別な偏愛があったのだ。分かる。分かるよ、トゥトアンクアメン(正確な表記)。インナーは愉しい。そしてインナーのなにが愉しいのかと言えば、インナーのすぐ下には性器があるという点だと思う(いまツタンカーメンが大きく頷いている姿が見えた)。つまりインナーっていうのは、性器のための演出道具なのですね。
 だから僕はさまざまな形、さまざまな素材、さまざまな柄でショーツを作る。それに包まれ、それからまろび出されるちんこを愉しむために。そして気付けば150枚になっていた。しかしツタンカーメンの時代には、残念ながらそういったバリエーションは望めなかったらしい。もちろん王族なので上等な生地であったそうだが、物自体は画一的であった。では、画一的ならば150枚あってもしょうがないのではないか、という気がしてくるが、ところがどっこい、ここからが約3300年の時を超え、150枚ショーツ同盟を組む同志である僕にしかできない推察である。静粛に。心して聞いてほしい。
 同じ生地、同じ形で作られた150枚のショーツ、作ったのはすべて違う女。
 どうだ。これだろ。間違いないだろ。そういうことだろ。そういうことなんだろ、トゥトアンクアメン(正確な表記)。謎は全て解けた。なぜツタンカーメンの墓には150枚ものパンツがあったか。人類最大の謎と一部で囁かれていたこのミステリは、ひとりのハンドメイドが趣味のブロガーによってこうして鮮やかに解明されたのだった。
 ついでにツタンカーメンのページをちらほらと眺めたら、ツタンカーメンは死後、冥界の神オシリスに似せようと細工をされた形跡があり、すぐに崩れてしまったので証拠は残っていないが、男性器は垂直におっ立てられていたという。オシリスは死と再生を象徴する神だというが、男性器を勃起させつつ、どうしたって日本人にとっては尻を連想せざるを得ないオシリス神の象徴などと言われても、なんかもう下ネタ過ぎるだろ、という気しか起こらない。もしかするとツタンカーメンは、僕の人生の目標である、なんかしらの性に関連する事柄の象徴となって奉られたい、という願いもまた、共有していたのかもしれない。
 そんなツタンカーメンとの縁を感じた出来事だった。ちなみにツタンカーメンの身長は167センチだったそうで、ここまで来るともうちょっと怖い。同志どころか、もしかすると僕はツタンカーメンの生まれ変わりなのだろうか。そう考えれば、実の娘が異様にツタンカーメンに耽溺するのも、なんかしらの第六感によるものかもしれないと思えてくる。

ハーレムという選択

 ハーレム的な一夫多妻生活を行なっていた男が逮捕され、ニュースになっていた。
 74歳、元占い師(という謎の肩書)。逮捕されたのは初めてではないそうだが、今回の罪状は、10代の少女にUFOの映像を見せて洗脳し、乱暴をしようとしたことだという。
 74歳。10代少女。乱暴。
 すげえな、と思う。
 すげえな、と思うと同時に、この男以外の女性には顔にモザイクがかけられた、一夫多妻生活のさまを撮った映像を目にし、普通に「気持ち悪い……」という感想も抱いた。我ながら、それは意外といえば意外だった。あれほど希うハーレムの、実際の風景だというのに、そこに羨望のような気持ちはまるで湧いてこないのだった。
 しかし思えば僕は、エロ小説などのハーレムものでも、集団において主人公ひとりがひたすらモテ、女の子がちんこの争奪戦を繰り広げる、という段階はとても好きで、物語がそのままなんの、本当になんの発展性もなくダラダラと続き、そして、「この夢のような愛欲生活は当分終わりそうにない……」みたいな、締まっているのか締まっていないのかよく判らない締めで、話が閉じられるともなく閉じられるのならば万々歳なのだけど、稀に、いやあまり稀でもなく、ハーレムに所属する女の子が、ほぼ同時にみんな妊娠する、という種類の終末が描かれることがある。もちろんそれは最高のハッピーエンドとしてだ。しかしあれが僕はとても苦手で、その結末が待っているのだと分かってしまった時点で、それまでの妊娠前のハーレム風景にも影が落ちてしまう。それはなぜかと言えば、やっぱり妊娠は、現実的な、人生的な、さまざまな問題を孕むからだ(妊娠なだけに)。もっとも僕はなにも妊娠をネガティブなことと言っているわけではない。僕との行為を経てファルマンは妊娠し、娘をふたり産んだ。これはとてもすばらしいことだ。すばらしくて、大事で、そして大きな責任を伴う出来事だ。そのことが実感としてあるがゆえに、ハーレム孕ませはもちろんのこと、純愛ものであったとて、エロ小説の最後に妊娠を持ってこられると、困る。もっと直截に言うと、萎える。そういうのは発生しない条件下での桃色遊戯だと思っていたのに、と思う。
 ここまで書いていて思ったが、もしかするとこの強い感情は、父が母以外の女性を妊娠させたことで家庭が崩壊したという来歴も影響しているのかもしれない。たぶんそんなに影響していないだろうけど、こんな自分の人生を切り売りするようなことを文章中に織り交ぜると、話の内容に深みが生まれるのではないかと思って実行した次第である。
 えっと、それでなんの話だったっけ、そうだ、現実の74歳元占い師のハーレムの話だ。記事によると、ハーレムのメンバーは妻および元妻が9人、そして子どもが男女合わせて3人だそう。思ったより子どもが少ないことをこの段階で知り、この話の根幹は揺らぎかけている。妻たちは、働いてお金を稼いでくるグループと、家のことをするグループに分かれていたそうで、どうも思ったより統制の取れた、理に適った共同体だったのかもしれないと感じ始めた。ボスである男に対してとりあえず慕う心があり、ひとりで生きるより集団で生きたほうがマシかなと思ったのなら、こういう選択もそこまで箍の外れた行為ではないのかもしれない。「独り」か「核家族」かの二択は、言われてみれば少し乱暴なところがあるし、年を取ればケアハウスや老人ホームで結果的に似たような形式の暮しをすることになる。
 ハーレムの、あっけらかんと性快楽を謳歌したいだけなのに、妊娠や共同生活によって責任が生じること、そして責任とハーレムセックスというふたつの言葉の相性の悪さから来る歪みによって気持ち悪さを覚えること、だからハーレムセックスというのは、モテモテの男子高校生あたりが学園の女子相手と好き放題にやりまくる(もちろん妊娠はしない)、というのがいちばん理想的な形だ、一緒に暮らそうとしてはいけない、ということを今回の記事では綴ろうと思っていたのだが、本当に見事なまでに揺らいだ。逮捕の理由は本当にひどく、揺らいで着地した地面がまた揺らぐのだが、そんなことさえなければ、以前の乱交パーティーと一緒で、誰に迷惑をかけたということもなく、それを求め、それに救われる人もいるのだ、という事案なのかもしれない、これは。
 どちらにせよ、もう少しじっくり考える必要がありそうだ。

ショーツの理由

 150枚くらい作っておいて何だが、ショーツ作りの動機がいまだ自分の中で定まっていない。「顔パンツ」という言葉に触発されて、布マスクを作るように真正パンツも作ってみよう、で作り始めたわけだが、その動機ならせいぜい5枚くらい作れば気が済んで話はおしまいだろう。しかし実際にはそのあともずっと作り続け、そろそろ1周年になんなんとしている。それは一体いかなるモチベーションで行なわれているのだろうか。
 しばし考えた末に、それは「ちんことの対話」なのではないかと思った。ちんこはきわめて身近な存在でありながら、その一方で高みの存在でもある。僕個人の所有物であることはたしかだが、同時にイデア界からの借り物であるような気もする。だからタイミングによって、とてもぞんざいに扱うこともあれば、奉るかのごとく丁重に扱う場面もある。つまり150枚ものショーツとは、ちんこへの貢物であり、そうやって日々献上品を納めることによって、僕はちんことより昵懇な仲になろうとしているのではないか、と思った。実際、毎日のように新しいショーツを穿き、新しい見た目、新しい着心地を与えたことによって、それまでの日々に較べて、僕とちんこの関係性は親密になったと思う。
 先ほど貢物という言葉を使ったが、日々新しく捧げられるショーツが、ちんこという男性性の象徴への貢物なのだとしたら、ショーツとはすなわち女だ、とも言える。なにぶんショーツという、一般的には女の子の下着に使われる言葉をあえて使うくらいなので、僕はショーツに、女性性を感じ取っている。製作したショーツを紹介しているインスタグラムでも、「このデザインのショーツは、こういう女の子が穿いてそう」みたいな言い回しをよくする。だから150枚のショーツは、150人の女の子のメタファーだ、ということもできる。世の中には、実在の女の子のショーツを、購ったり、あるいは盗んだりして、自分で穿いて興奮するという嗜好の男性もいる。知り合いにいるわけではないが、世に聞くに、いるに違いない。それを僕は、自作し、完成したショーツから女の子を想像し、そして創造することによって、同種の快感を得ているのではないか、という気がする。それは全てではないが、たしかにある。「女の子が穿いてそうさ」は、自作ショーツの魅力を語る上で、重要なファクターのひとつである。
 そんな自覚を持ち始めた折に、年が明けてすぐ、「クラスショーツ」という試みをした。年末から頭にあったものを、冬季休業を利用して実行に移したのである。完成品は「nw」に投稿したけれど、要するに「もしも僕が女子校の教師で、受け持ちのクラスが、クラスTシャツの代わりにクラスショーツを作ることにして、そして担任である自分の分も作られ、しかもそれをちゃんと穿いているか全員の前で脱いで確認させられたら」というストーリーの、そのショーツで、もちろん僕は実際には女子校の教師ではないのだけど、それなのにその学園の2年D組のクラスショーツはたしかに手元にあるわけで、どこかファンタジックな風味もある、特別な1枚となった。
 そしてこの体験を通して、僕はまたひとつ、ショーツ作りの動機において、新しい階梯へと進んだ。すなわち、件のクラスショーツが、教室で唯一のちんこ保持者である僕への、ティーンエイジャー少女特有の性的好奇心からの、「あげるからその代わりに穿いてるところを見せてね」という形での貢物なのだとしたら、はい出ました再びここで貢物というワード、だとしたらこれまでに作った150枚のショーツもまた、全てが実は受け持ちのクラスの生徒が僕に作って捧げてくれたものなのではないか、僕はショーツに対し、そういう受け止め方をすることもできるのではないかと思った。僕は女の子たちから、サイドの部分が2センチもない、フロントの上部から陰毛がはみ出る、それでいてちんこの膨らみはきちんと前に迫り出る、とても小さい面積のショーツを、怒涛の如く贈られている。そう考えたとき、150枚のショーツはまた一段、その淫靡な輝きを増した。

乱交パーティーで逮捕についてのオブジェクション

 乱交パーティーの主催者集団が逮捕される。切ない気持ちになる。
 そもそも乱交パーティーってどういう罪になるの、ということを検索したら、参加者は公然わいせつ、主催者は公然わいせつ幇助ということになるらしい(18歳未満の参加者がいた場合はまた別の罪になる)。どうもピンと来ないな。
 ちなみに今回の事件で逮捕された5人はそれともまた違って、売春防止法違反という名目だった。これは、男性から高額の参加料を徴収し、女性は無料どころか報酬を支払っていたようで、そこらへんが引っ掛かったものらしい。10年間での稼ぎは6億5000万円とのことで、ずいぶんうまいことやったもんだと思う。しかし罪はあくまで売春防止法違反であり、薬物など、タチの悪い罪に問われている様子はないのだから、なかなか健全なのではないかとも思う。お金をめっちゃ稼いではいるけれど、それは性欲という、無限にあふれ出る資源をうまく利用した結果であり、人を騙すとか、蹴落とすとか、そういう金の得方ではなく、「人は人が好き」ということを信じているからこそできる、とてもきれいな心で創造されたビジネスなのではないかと思った。稲村亜美に群がった小学生のときもそうだったが、僕は性欲を動機とした事件に対し、とてつもなく甘い裁定基準を持っている。性欲は、現状よりもだいぶ許されていいと思って日々を生きている。
 今回のように事業としてではない、あくまで趣味の範囲で集ったような場合でも、冒頭で述べたように公然わいせつとして罪に問われるのは、説明文を読めば読むほど、考えれば考えるほど、意味が分からない。日々読んでいる読み物と、あまりにも乖離しているせいかもしれない。たとえ閉鎖された空間であっても、不特定多数の人物が公然と性行為をしたら、それはもう罪になるという。その場にいるのが「乱交パーティーする人集まれ!」で集まった人たちだったとしてもだ。なにかここに、無から有が生まれる、奇蹟のような部分がある気がする。あまりにも「無い」ものを、「有る」と言い張ってしまうと、それまでたしかに有ったはずのものまでもが、もしかしたら無かったのかもしれない、と思えてしまう。他者に危害や損害を与えるから罪だと思っていたのに、一切そのような部分がなくても罪だと言うのなら、もう罪の基準が分からない。逆に罪に違いないと思っていたものが、ワンチャン罪ではないかもしれない。揺らぐではないか。
 実際、どこまで行けば逮捕なのか。2組のカップルが、同じ部屋のそれぞれのベッドで同時にセックスをする。そういうプレイ。これはセーフだという。じゃあそれが3組になったらどうか。4組になったらどうか。20組になったらどうか。あるいは、これはただの屁理屈めくが、その20組が全員、目隠しプレイを行なっていた場合はどうなるのか。同じ空間で性行為をしていても、互いにその姿を見ることはない。これはセーフか、アウトか。誰も答えられない。なぜ答えられないか。そもそもの罪状に根拠がないからだ。どこかにマイナスを発生させることが犯罪だと考えれば、マイナスが発生した瞬間が罪が成立した瞬間ということになるが、乱交パーティーにはどこを見渡してもマイナスがないのだ。発生していないものを捕まえるという、そもそもが無茶なことをしているから、すぐにボロが出る。まっくろくろすけを捕まえたメイのように、両掌でなにかを取り押さえたような気になっていても、開けてみたらそこにはなにもいない。見つけた気になっているだけなのだ。
 実際の乱交パーティーは、たぶん僕が夢想するような、いいものではないだろう。だから僕は参加したいとは思わない。思わないが、それが犯罪だと言われると、口を挟みたくなる。乱交パーティーは、ハーレムは、全校生徒の前で公開セックスは、罪じゃないんだ(最後のはもしかしたら罪かもしれない)。

特筆すべき嬉しかった出来事

 にわかには信じがたい話だと思う。特に男性諸兄にとっては、妬み嫉みも発生し、余計に受け入れがたいだろうと察する。でも事実である。
 先日のことである。プールに来ていた。男子更衣室で、水着に着替えるために全裸になった瞬間だった。プール遊びを終え、今から帰るところらしい小学校高学年くらいの二人組が、すぐ横の通路を歩いていった。その少年たちが、僕の脇を通り過ぎたあと、少し興奮したような口調でこんなことを言ったのである。
「すげえでかかったな!」
「うん、でかかった!」
 本当なのだ。嘘じゃない。嘘じゃないし、勘違いでもない。誰か別の人のことについて言ったということもない。他に人はいなかった。でかかったものが何か、たしかに目的語はなかった。でもタイミング的に、シチュエーション的に、それ以外ない。その場にいたから分かる。本当だ。信じてほしい。忸怩たる思いはあるだろう。大抵のあなたがたはそんな思い出を持たない。でもこれが現実なのだ。受け入れてほしい。
 こういう感じでちんこの大きさを褒めそやされるのって、人生の中でこれほどの喜びは他に存在しない、とまでは言わないけれど、だいぶ上位の、そうそうないレベルの喜びだと思う。小学生男子というのがまたいい。屈託がなくて言葉が素直だし、なにより男という種族の後輩である。彼らにとって僕は、ちんこの大きい、憧れの存在となったに違いない。プロスポーツ選手って、こんな気持ちなのか。こんなに気分がいいのか。思わず追いかけて、ジュースくらい奢ってやりたくなった。それくらいの幸福感だった。
 ふたつ前の記事(「波のり」)で、空を飛ぶ鳥にペニスはない、ペニスは空を飛ばない、空に看過される度合のペニスの人間もいるが自分は残念ながらそうではない、だからあんなにも高所が恐怖で、飛行機が嫌いなのだと合点がいった、という話をした。今回、それが外部からの反応によって改めて証明された。プールの男子更衣室で、小学生男子から羨望の眼差しを向けられるようなちんこの人間は、空を飛べない。もとい物理的に空など飛ばなくても、生物として遥か高みに位置しているのだとも言える。
 ちなみに僕はそのあと予定通りプールで泳いだわけだけど、心なしか股間部の水の抵抗が激しいような気がして、泳ぎづらさを感じた。ペンギンは鳥類だが、空は飛ばず、しかし海の中を飛ぶかのように泳ぐ。じゃあペンギンは果たしてどうなんだろうと検索したら、ペンギンもやはりペニスは退化してなくなっているらしい。であれば、これまでプールにおいて、水泳のガチ勢に対して気圧されるところがあったが、なんのことはない、あいつらというのは、水から看過される度合いのものしか持っていないがゆえに、あんなにもスムーズに泳げるのだ、それに較べて僕はどうしてもその部分において重大なハンデを負っているため、ああは泳げないのだ、と喝破した。そして精神衛生がとてもよくなった。やっぱりあの小学生たちにはジュースを奢るべきだった。ちんこの大きさを口に出して称える存在は尊い。天使的でさえある。親御さんの教育がいいんだろうな。ただし彼らの親御さんのより、僕のほうが大きいんだろうな。そこはどうしたって申し訳ないと思う。ああ気分がいい。

ちんまんだん

 我々が「男根」「巨根」と言っているとき、突き出た長い形状のものを指すはずがない「根」になぜかその意味を持たせているのは、無意識に「棍」(「棒」という字義があり、こん棒や三節棍で用いられる)と混同してしまっているからだ、という、先日「パピロウせっ記」の中で提唱した説は、エロ言語学上、とても重大な発見なのではないか、という気持ちが、その日以来ずっと頭の中でくすぶっている。このくすぶりは、僕がいつまでもかすかな酸素を与え続けることで、いつまでもくすぶり続けるのだろうと思う。ボワッと発火はいつまでもしない。なぜなら僕ひとり分の酸素しかこの界隈にはないからだ。
 同じく「パピロウせっ記」の中で、睾丸および陰嚢のことをなんと呼ぶかという議題の中で、いちど「宝玉袋」に決まりかけた場面があり、その際に「肉棒と宝玉袋、これに八咫鏡を加えたものが、古来より三種の神器と呼ばれております」という記述をした。なにぶんその記事内では玉のことについて熱心に思案していたため、宝玉と来たら八尺瓊勾玉、という連想が手近に来ていた。そして玉がそれならば、自ずと肉棒は草薙剣ということになる。「ちんぽこ」というときの「ぽこ」は矛であるという説もあるし、ペニスフェンシングという競技も(僕の生きる世界の中には)ある。ちんこと剣の相似性に誰も文句はないだろう。当該記事では「これに八咫鏡を加え……」とだけ書き、それについて深い言及はしなかったし、そもそも書いた際にはなにも頭になかったのだが、その翌々日くらいに、通勤の車の中でふと、「鏡は亀頭じゃないか!」と天啓が舞い降りた。亀頭が鏡ってなんだそれは、と思う向きがあるかもしれない。でもエロ小説を読む人間ならば知っていると思う。亀頭って鏡なんですよ。で、あるからして、草薙剣、八尺瓊勾玉、八咫鏡という三種の神器って、瓢箪から駒みたいな話ですけど、もしかしたら男性器のメタファーなのではないか、アマテラスは女性で、女性が生体として基本であり、それが男性であるニニギに授けたのは、Y染色体であり、すなわちちんこで、それこそが三種の神器ということなのではないか、と思った。思ったと言うか、悟ったし、悟った瞬間、アマテラスが、「その通りよ、パピロウ」と言ったような気がした。なんてったって島根県在住ですからね。そしてこの発見もまた、ここにこうして記したとて、他者のたくさんの酸素を浴びることはなく、いつまでもくすぶり続けるだけに違いない。もどかしい。
 そんな種々の発見を得ることとなった、「パピロウせっ記」のインスタ事前会議だが、このたび無事に会議は終わり、僕はいよいよインスタグラムを始めることにする。ああ始める。始めるさ。始める始めると言いながらいつまでも始めなさが、なだぎ武のやるディランが自転車から降りるときのようだが(古すぎて震える)、とうとう始める。ああ大丈夫、いま始めようとしているところだ。具体的に言うと、10月1日からやる予定だ。10月1日ということは、その時点で今年の残り日数が92日ということになる。だとすれば、やれるかどうか分からないけれど、その全日投稿するだけの弾はあるのだ。つまり、作ったショーツはもう92枚を超えているということだ。作ったな……。

波のり

 ものの本を読んでいたら、「鳥類(新鳥類)にペニスがないのは空を飛ぶために身体を軽くする必要があったから」という記述があり、なるほどなあと感じ入る部分があった。
 空を飛ぶことに対する憧れは、得てしてロマンチックに描かれるけれど、そんなことをのたまう男の前に、絶対的な存在が現れ、「じゃあ飛べるようにしてあげる代わりに、ちんこ没収ね」と言ったら、男はすごく悩んで、悩んで悩んで、頭の中がちんこでいっぱいになって、そしてなんかしらの結論を出すのだ。斯様に、実際はぜんぜんロマンチックじゃないのだ。脳内は、亀頭と、陰毛と、玉袋で埋め尽くされている。どれほどお前が社会で大成して、非の打ちどころのない好青年だと周囲から褒めそやされても、出自は卑しく、アル中で無職の伯父が、家族の弱みをチラつかせてすぐに金を借りに来ることを、ゆめゆめ忘れてはならない。ゴミできらめく世界が僕たちを拒んでも、夢を濡らした涙が海原へ流れても、空を飛ぼうとすれば、どうしたってちんこが足を引っ張るのだ。
 こうも言える。
 ちんこは空を飛ばない。
 君はロックなんか聴かないし、あの日見た花の名前を僕達はまだ知らないし、岸部露伴は動かないし、ちんこは空を飛ばない。ちんこは空を飛ぶようにできていないのだ。飛行機に乗ったとき、あるいは飛行機に乗るまでもなく、空を飛ぶことの疑似体験として高い所に登っただけでも、陰嚢のあたりがひゅーっとなるけれど、あれはちんこが空を飛ぶという、この世のことわりに背く行為をしているからだったのだ。今年のGWの帰省の際、僕の飛行機でのビビり方を、妻と娘たちは嘲笑していたけれど、あれはしょうがないことだったのだ。能力者が海楼石に近づくだけで体を弱らせるように、ちんこを持つ父は、空からものすごい力でちんこを苛まれていたのだ。それは元気もなくなろう。しかもそのちんこが、空的にもそのくらいのサイズのちんこならまあ許せるかな、という程度のちんこの男もこの世には多くいようが、幸か不幸か、僕の場合はそうではない。僕の飛行機の怖がり方は常軌を逸していると言われるが、そういうことだったのだ。ちんこのサイズと、空からの拒まれ度合は、比例するのだ。なるほど僕の感じる恐怖は規格外なわけだぜ。
 そしてこうも言える。
 ちんこと翼は等価交換である。
 すなわち、ちんことは翼である。
 大空にはためかせ飛んでゆくために「ください」と希われる翼だけど、実はわれわれは既にそれとまったく同価値のものを持っていたのだ。思えば伏線はあった。ディズニー映画「ダンボ」である。あれ、象が耳を使って空を飛ぶじゃないですか。象はもちろんちんこだから、あれってちんこが翼と合同であるという真相にたどり着くためのヒントだったんですよ。アメリカでの公開は1941年だそうだから、80年前から張り巡らされていたんだね。あと絶頂を迎えるときに「飛ぶ!」って叫ぶパターンがあるじゃないですか。あれも伏線ですね。さらには精子って飛ぶじゃないですか。大いに飛ぶだろうと思ったら意外と飛ばないときもあるけど、でもまあ飛んだりしますよね。あれももちろん伏線。あとからこうやって数々の周到な伏線に気づくと、作者すげえ、ってなる。今なってる。
 これまでちんこちんこと言ってきたけれど、ダンボの耳に対応し、左右対であるという特徴を踏まえれば、ここまで述べてきた「ちんこ=翼」は、「陰嚢=翼」と言っていいだろう。ならば右の金玉は右ウイング、左の金玉は左ウイングということになり、右の金玉がエムバペ、左の金玉がネイマール、そして陰茎がメッシという、MNMトリオを形成する。3人の年俸を合計すると367億円だそうだ。俺はそんなものをぶら下げて、日々を生きている。自信が湧く。空なんか飛べなくていい。幼い微熱を下げられないまま神様の影を恐れて隠したナイフが似合わない僕をおどけた歌でなぐさめなくていいんだ。

人生腹上

 腹上死は男のロマン、などと言われる。まあ解る。死ぬのは基本的に気が進まないが、どうしても死ななければならなくなって、でも死に方を選ばせてくれると言うのなら、やっぱり腹上死ということになると思う。
 腹上死のなにがいいって、腹上というくらいだから、相手の体と密着し、愛し合いながら昇天するわけで、その安心感がいい。死にゆく兵士の手を握ってあげる的な地点から、さらにナイチンゲールが踏み込んで、これはもうナイチンゲールじゃなくて、ちんこを慈しんでくれーるだね、みたいな、こんなセンス的にも倫理的にもひどいジョークも含めて許してくれるような、そんな優しい世界だと思う。
 でも腹上死には、それ以上にもっといい要素がある。
 死ぬとき勃起している、勃起しながら死ねる、という点である。
 死の恐怖を前にして、人の体に触れてもたらされるのが安心感ならば、勃起が与えてくれるのは無敵感である。どんなにつらい場面でも、体の中心に立派なフル勃起さえあれば、とりあえずは大丈夫なような気がする。錯覚である。フル勃起しててもダメなときはダメだ。ダメにもいろいろなダメがあるが、その究極が死だ。勃起してても死から逃れられるわけではない。しかし逃れられるわけではないが、その代わり、立ち向かうことができる。もちろん勝負は見えている。相手のパワーは圧倒的だ。でも勃起という聖剣があれば、立ち向かえる、もとい、勃ち向かえるのだ。
 ところが死というのは陰湿なものなので、老いとタッグを組み、われわれから勃起を奪ってから襲い掛かってくる。長生きは尊い。尊いが、それは勃起という武器を喪っていくことを意味する。年を取ればその分、勃起に代わる武器が精神内に生成されてゆくのだろうか。見当もつかない。勃起を奪われ、か弱い老人となり、猛烈な不安感とともに死に包まれるのだとしたら、これほどおそろしいことはない。
 これを回避するためには、せっかく現代は文明が発達したのだから、今わの際には、アダルトビデオを網膜に照射し、あるいは目がもう開かないのなら、脳に直接でもいい。脳に直接、映像を見せ、勃起の感覚を与え、射精の悦楽を浴びせてほしい。すなわち、VR腹上死である。これはいい。これでいい。全部で6時間くらいのそれを眺めながら、もともとの原因で死ぬんだか、度を超えた性興奮と性疲労で死ぬんだか判らないような感じで、涎をダラダラに垂らしながら、死んでゆきたい。曾孫のJKやJDに囲まれながら。