(ちん)この世の中


んこに関する本を読んでいて、矢じりのような、雁首のあの形は、他のオスの精子を掻き出すためのものであるという記述が出てきて、それはもちろん読む前から知識として知っていたのだけど、今回その情報に接して、じゃあやっぱりちんこは大きいほうがいいんじゃないか、ということを思った。
 たとえば12センチのちんこと、15センチのちんこがあったとして、どちらも膣内射精をしたとして、精子そのものは発射のときの飛距離もあるから、ちんこの物理的な3センチの差はそれほど問題にならない。またたとえ思うように飛ばなくても、精子は自分で進むし、膣には精子を汲み上げる仕組みがあるので、よくある悩み相談の答え風に言うなら、「短小でも問題ない」のである。たしかにそこに12センチと15センチの差はあまりない。しかし精子同士の取っ組み合いの喧嘩になる以前に、子どもの喧嘩に親が出るみたいなもので、精子の母艦であるちんこの雁首が、敵の精子を掻き出してしまうシステムがあるのだとすれば、それはやっぱり12センチよりも15センチのほうがはるかに有利だということになるではないか。だって12センチのちんこから発射された精子を15センチのちんこは掻き出せるけれど、逆はできない。これはものすごいハンデだと思う。精子戦争という言葉があるが、軍事力の差は精子以前、ちんこの段階から歴然として存在するのだ。
 だからやっぱり、ちんこは大きいほうがいい。これはもうどうしたってそうなんじゃないか。女性はよく、男ってなんでそんなに大きさにこだわるのかしら、なんてことを言うけれど、大きければ大きいほど他の男の精子を掻き出せるのだから、ちんこが大きくあってほしいと願うのは、男性の本能的な欲求なのだ。でもだとしたら、女性にとってもまた、大きいちんこは魅力的でなければ理屈にならない気もする。なぜなら大きいちんこの男の遺伝子は、大きいちんこの息子を生む可能性が高く、そして大きいちんこの息子はやがて、他の男たちの精子を掻き出し、多くの遺伝子を残す確率が高いからだ。それだのに、現実には女の子はそんなことを言わない。大きさにこだわる男たちを嘲笑し、「大事なのは硬さ」などと言う。ここだ。ここに、世の中の男女の問題をあらかた解くヒントが隠されているのではないか。
 男は本能的に大きいちんこを追い求め、女の子も本能的にはそうであるべきなのだとしたら、男のちんこはランナウェイ説で考えて、代を経るごとにどんどん拡張していなければおかしい。大きいちんこ合戦を繰り返した結果、未来人のちんこは、脚の長さを超えて、ちんこを杖のようにして歩くようになっているべきだ。未来人とは誰か。古代人にとっての我々である。しかし我々のちんこはそんなことにはなっていない。古代人と較べてどうなのかは知らない。古代人はそもそも栄養事情の悪さから体格が現代人よりも小さかったろうし、なによりここまで何度も唱えている「ちんこの大きさ」とは、もちろん勃起した状態のそれのことであり、現代人のそれの平均も出せないのに、古代人のそれの数値が出せるはずもない(文明以降は絵画や立体造形で表現されているが、創作の中で描かれるそれのサイズが往々にして実体に忠実でないことは言うまでもない)。どちらにせよ、ヒトの男のちんこが歯止めなく大きくなる方向へ進化しているという話は聞いたことがないし、ちんこを杖のようにして歩いている人も見たことがない。
 この理由は、ちんこはちんこだけで成立するものではなく、女の子の膣に入れて使うものだからであり、こういう話題になるとすぐに道鏡が思い浮かぶけれど、ちんこがあんまりにも大きいと、それを受け入れられる膣がない、という困った事態になる。あと先日「夫のちんぽが入らない」を読んだけれど、あれは、夫は巨根だという描写があったものの、互いに別の相手とはセックスができているので、原因はなんだか精神的なもののように思えた。よく知らないけれど。
 それでここからが僕の提唱する仮設なのだけど、女の子側もまた、ちんこの大きい息子を産むために、子作りのパートナーにちんこの大きい相手を選んでいたら、途端にランナウェイが始まってしまい、そうなると女性も膣の形を変えていかねばならず、いろいろ問題が出てくる。そこでその流れを抑制させるために、女の子は男よりもよりエロくできていて、だから男が本能に対して従順(アホ)に大きさを求めるのに対して、女の子は「それよりも大事なのは硬さ」なんてことを言うのではないだろうか。だって硬さは生物の本能とはぜんぜん関係ない。快楽方面にしか作用しない。でもそっちのほうが大事だと女の子は言う。エロエロではないか。頭の中が真っピンクではないか。知っていたけど。女の子って本当に助平なのだ。でもその女の子の助平のおかげで、当世の我々は、ちんこを第三の脚にせずに済んでいる。この世の中は、そんな世の中なのではないかと思う。

35歳まで


日35歳の誕生日を迎えて、その前後2日間くらいの、「俺の誕生日祝い期間中」にはぜんぜん思い出さなかったのだけど、そう言えば35歳と言ったらあれじゃないか。
 ちんこは35歳まで大きくなり続ける。
 いつどこで誰から聞いたのか、もうほとんど忘れてしまったが、たぶん一生にいちどしか誰かがそう言っているのを聞いたことがないその情報は、僕という人間の、心の床の間の掛け軸に達筆で記され、ずっと飾られ続けていたのだった。35歳とは、実は僕にとってそんなにも大事な年齢だったのだ。
 もちろん信憑性なんかない。根拠もない。出典も不明だ。ここまで書いて、念のためネットで検索をしてみた。「男性器 成長 何歳まで」で検索をかけて、出てきたそれらしいタイトルのページを開いたら、結局は「ペニスはいつからでも大きくできる! このサプリメントさえあれば」みたいな広告のブログで、これはしばらく僕のパソコンのネットの広告欄が荒ぶりそうだな、と思った。
 そんな広告ブログの、広告に行きつくまでの部分の情報によれば(これまたずいぶん信憑性がない)、「20歳くらいまで」というのが一般的な捉え方らしい(「でもこのサプリメントを飲めば!」と続くわけだけど)。個人差はあるが、二次性徴とか、身長の伸びとか、ペニスももちろんそういうのと連動するので、それらが止まればペニスの成長も止まるのは自明の理、ということらしい。そう言われるとたしかにそうだ。体の発育が止まっているのに、そのあともちんこだけ成長していくはずがない。どんな理屈だ、という話だ(サプリメントを飲むとかは別として)。
 だけど僕はたしかに聞いたんだ。誰かの口から。「ちんこは35歳まで」って。それこそ二次性徴の乍中くらい、高校生くらいのときに。そして高校時代に聞いたということは、この言葉を僕に伝えた相手は、偏差値のとても低い男子校の同級生である可能性が高くなり、その可能性が高くなると同時に、反比例で話の信憑性はどんどん低下してゆくのだった。
 でも考えてみたらおかしな話ではないか。二次性徴のすっかり終わった20代後半くらいでこの話をしたというのなら、35歳までというその年齢に希望が湧いて、この話は「前向きな気持ちになれる話」というカテゴリに入れることができるが、16歳くらいでこの話をされた場合、果たしてどのような気持ちになるのが正しかったのか。16歳にとって35歳はあまりに遠く、そこまでちんこが大きくなり続けると言われても、想像が追いつかなかったろうと思う。その結果、僕のように、これまで特に感情を刺激されることもなく、ただ来たるべきいつかの日のために、書にして、表装をして、心の床の間に掲げ続ける以外にやりようがなかった。こうして考えると、人生の半分以上の年月、僕はこの偏差値の低い、信憑性のない話を、とても大事に守り続けてきたのだな、と感慨が湧く。
 とにもかくにも、かくして僕はとうとう、くだんの35歳になったのである。僕の世界では、このときまで、ちんこは日々、二次性徴以降も大きくなり続けていたということになる。
 実際どうか。
 35歳になったので、いよいよ満を持して、その掛け軸の内容の真偽を質すことができる。
 どうなのか。
 どうだと言うのか。
 そんなの分かるはずないのである。
 だって16歳のときのちんこ、20歳のときのちんこ、25歳のときのちんこ、25歳のときのちんこを、記録もしていなければ記憶もしていない。較べようがないのである。タイムマシンに乗って、それぞれの年代の僕を一堂に会して勃起をさせてみせたら一目瞭然なのだが、でもそんなイレギュラーな状況だと、「純然たる平常な勃起」から逸脱してしまって、やっぱり問題が出てくる。「男性のペニスの平均サイズ」は算出できないというのと一緒で、ちんこの大きさというのは、いつだってスルスルと我々の手をすり抜けていき、実体を掴ませない。だからおもしろい、とも言える。記録を取っておけばよかった、1年に1回、ちん拓でもしていればよかった、とも思うが、そんな風に過去の自分たちのちんこの姿を並べてしまうのなんて、野暮かもしれない。16歳のときには16歳のちんこが、25歳のときには25歳のちんこが、そして35歳のときには35歳のちんこが、いつだっていちばん大きく、愛しく、誇らしい。それでいいんじゃないかと思う。
 35歳までちんこが大きくなり続けるのかどうかは藪の中だが、ちんこに対しての器は、なるほど今がいちばん大きいんじゃないかと思う。大器晩成。高校時代からの長い長い前フリを経て、これはこうまとまる話だったのか。壮大だな。

パンツ!


たずら電話のベタなやつで、「パンツ何色?」という問いかけがあるけれど、この年になって、これはなかなかに含蓄のある言葉なのではないかと思うようになった。
 たとえば性欲がどうしようもなく溜まっていて、女性に対してなんかしらのアクションを起したい、女性からどうにかして「女性性」を享受したい、あわよくばその女性性をおかずにして自慰へと突き進みたい、そのように考え、ランダムでかけた番号の電話先に、めでたく妙齢の声質の女性が出たとする。このとき、じゃあ逆に、「パンツ何色?」以外のどんな質問が考えられるというのか。
 僕はいま必死に頭を働かせて考えたけれど、なにもいいものが浮かばない。

 「セックスは好きですか?」
 「経験人数は何人ですか?」
 「いちばんの性感帯はどこですか?」
 「初めてのセックスはいつ? どこでですか?」
 「最近セックスをしたのはいつですか?」
 「好きな体位はなんですか?」
 「ちんこについてどう思いますか?」
 「男性のどこにグッと来ますか?」
 「Sですか? Mですか?」
 「何カップですか?」
 「恋人はいるんですか?」

 また僕が特に、女性を巧みに口説くような、合コン的レトリックを持ち合わせていないということもあり、本当にさっぱりだ。最後のほうなんてただのバスガイドに発情する男子校生である。経験豊富で軽妙にいなしてくれるガイドさんならいいが、まだ日が浅くて本当にムッとしたりする子だと、バスの中の空気が悪くなって、そのあと教師からこっぴどく怒られたりする。そのレベルである。
 それらに較べて、「パンツ何色?」の切れ味と来たらどうだ。電話という、ビジュアル抜きのツールであればこそ、「パンツ何色?」の効果は増大する。だって顔も見えない女の裸なんて、結局どれも似たり寄ったりだ。おっぱいがあって、おっぱいの中心には乳首があって、足の付け根の中央には陰毛が生えていて、その奥には女性器がある。同じなのである。細かい差異は、実際に目にしない限り伝わらない。だからそこを追求したところで、電話の向こうにいる女の生々しさはぜんぜん立ち上って来ないのだ。それに対して「パンツ何色?」は、一気に立ち上ってくる。

 「白地に青のギンガムチェック」
 「ピンク地にライトグリーンのドット」
 「レモンイエロー地に薄むらさきの細いストライプ」
 「穿いてません」
 「淡い橙色を基調にした花柄」
 「水色に白の縁レース」
 「グレーにマイメロディのバックプリント」
 「穿いてません」
 「紺色地に白と赤の小花柄」
 「黒」
 「穿いてません」
 「白地に細かい黒ドットで、中央に赤いリボン」
 「穿いてません」
 「穿いてません」

 この調査を通してとても意外だったのは、女の子はけっこう自宅ではパンツを穿かずに過しているという事実である。あとみんなすごくちゃんと答えてくれることだ。

ちんこ色想い


局のところ、ちんこなんだよな、と思う。
 先日読んだ願望小説では、少女たちがちんこに群がって思い思いに舐めしゃぶり、それだけで気持ちよくなった挙句、最終的には全員が放尿していた。
 読んでいて、まさかちんこにそこまでの力はないだろう、と笑い飛ばす気持ちと、いやしかしちんこならあるいは、と思う気持ちが心の中でせめぎ合った。結論は出ていない。30代半ばの既婚者がなにを言っているのかと思われるかもしれないが、快楽もまた脳の伝達なのだとすれば、ちんこのそのもののポテンシャルと言うより、女の子がちんこのことを極限まで愛することで、その状態は発生しうるのではないかと思うのである。そしてそこまで愛される素質があるという点において、やはりちんこは尊いのだと思う。
 ちんこに関して、精子が熱に弱いため男性器はあのように体外に飛び出ている、という説明がなされる。冷静に考えてみたら、本当だろうか、と思う。精子が熱に弱い設定、本当に要る? という話だ。精子はその役割として、精巣から飛び出たあとは子宮の中に突入し、過酷なレースを行なわなければならないのだから、そんじょそこらの熱ではびくともしない強い精子を作るほうに情熱を傾けるべきではなかったのか。
 ところがそんな進化を我々は選ばなかった。精子が熱に弱いからという大義名分の下、男性器をむんずと体外に曝け出した。そこに成功があったし、そして性交があった。藤子不二雄が、「しずかちゃんはお風呂好き」という、本当に何の捻りもない理由付けで漫画のヒロインの裸シーンを多産したのに較べて、これは作戦として一枚も二枚も上手だと思う。「だってほら、俺、熱に弱えから……」と男が弱点をアピールすることで、女の子は許してあげたくなってしまう。弱点とちんこをさらけ出す男子に、女子はとかく弱い。母性本能が刺激されて、大きな愛で包んでやりたくなる。そしてお誂え向きに、女の子はちんこを包むのにちょうどいいものを持っているのだ。ここに神の巧妙さがある。有性生殖の仕組みを作った時点で神はエロい。
 そんな神に愛されたちんこに関して、先日とてもショッキングな記事を読んだ。デザイナーズちんこの技術がそろそろできあがりそう、という記事である。なんかその、そういうサイトに行くとよく広告で出てくる、この薬を飲めばちんこがぐんぐん伸びるとか、そういうんじゃなくて、もうサイボーグ的なアタッチメント的な感じで、既存のちんこを、人工的にデザインされた「すごくいいちんこ」に着け換える、というのである。そういうことが近い将来、可能になりそうだ、というのである。
 それはダメだ、と思った。ピアスだっていい。タトゥーだっていい。僕は自然に反することを即拒否しているわけではない。さらに言えば豊胸手術だって別にやったらいい。でもちんこはいけない。それはあまりにも神を冒涜している。もしも本当に実用化したら、バベルの塔とか、ノアの箱舟とか、たぶんそれぐらいぶりに、神が本気で怒り出すと思う。人類、調子に乗り過ぎだ! と人類はこっぴどく叱られると思う。僕が神ならばやる。そこだけは許せない。頭の左右を刈り上げる髪型とか、重低音を響かせるカーオーディオとか、他にも許したくないことはいくらでもあるが、理想のちんこアタッチメントに較べたらかわいいものだ。これはそれくらい重い罪なのだ。
 だってちんこが自由自在になったら、それは世界が自由自在ということになり、あらゆることのパワーバランスが崩れてしまう。「いいちんこアタッチメント」改造手術が高額なのだとしたら、一部の人間にしかできないことになり、そして一部の人間ばかりがいいちんこになったら、一部の人間ばかりが子孫を残せるということになる。そんなのおかしい。ちんこってもっと、自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。ちんこには無限の可能性がなくちゃいけない。だからいいちんこ手術にだけは手を出してはいけない。いけないんだ……。
 いいちんこ手術の技術を生み出した博士は、そう言って息を引き取った。

くなんかない


ァルマンがこの2ヶ月ほどどハマりしていたドラマ、「おっさんずラブ」が終わった。放送中はファルマンと話すすべての話題が「おっさんずラブ」に繋がり、実にウザったかったが、終わったら終わったで、ロスだの幻の8話だの、そういうことは言わないので、そういう意味では潔いと思う。
 さて「おっさんずラブ」である。タイトル通り、おっさんたちの恋愛模様を描いたドラマであり、観ていて普通におもしろく、そして時代の変遷を思った。話の中でも、男性同士が恋愛関係になることについて、周囲の人間はけっこう「あ、そうなんだ」くらいの感じで受け止めていて、その反応を観たこちら側も、それをそんなに非現実的だとは思わず、まあ現代ってそういう感じかもな、と捉えることができたので、かくして2018年にこのドラマは制作され、成功を収めたのだなと思った。
 そんなことを思うし、ゲイだのバイだのという性的嗜好の人に対して特に嫌悪感みたいなものは持っていないつもりだし、繰り返しになるがドラマそのものはおもしろかったのだが、でもやっぱり僕自身はこう思う。
 ちんこはまんことくっついてほしい。
 ゴールがそこじゃない恋愛および性愛というのが、どうしても理解できない。ラブストーリーは往々にして、男は男性側に、女は女性側に感情移入や自己投影をして、そしてセックスという成就を願うものだろう。違うのか。父さんの考え方は古いのか。
 ファルマンにこの点について訊ねたら、「若いときはそうだったかもしれないけど、もうこの年になると、自分がそんなにモテるはずがないってことは解ってしまっているから、そういうベタな恋愛ドラマのヒロインに感情移入なんかできなくて、だったらもういっそのこと女なんか抜きで男の人たちだけでそういうキャッキャしているのを眺めているほうが幸せなのだ」みたいな答えが返ってきて、なるほどなあと思った。
 翻って思い出されるのは、二次元ドリーム文庫や美少女文庫などの願望小説レーベルのことで、あれも最近やけにレズ物が増えてきていると感じていた。その原因も、ファルマンの唱えた理屈によるものなのではないだろうか。なにしろこれは前々から怪しいと思っていたのだが、『バイク乗りの平均年齢は10年前に較べて10歳上がった』というジョークと一緒で、あの願望小説レーベルもまた、僕みたいに、10年前から読んでいる人が10年後もやっぱり読んでいて、新たな若い読者なんてほとんど増えていない気がするのである。いまどきの若い子は、あんな小説をあんな形では読まないんじゃないかと思う。だから、ある日を境にやけにモテるようになる平凡な男子高校生に感情移入する行為に脱落した読者が、レズ物を求めるようになった。そういうことなのではないか。
 だとしたら哀しい話だと思う。僕はレズ物には本当に興味が湧かない。ペニスバンドとか使ってもぜんぜん意味がない。生身のちんこを、生身のまんこに入れて、抽送して、射精するからいいんじゃないか。あれは、手を変え品を変えしつつ、結局それだけを紡ぐ物語だろう。そしてある日を境に急にモテ始めて、1本しかない自分のちんこに対してまんこが多すぎて往生する主人公に、我々はなんの躊躇いもなく感情移入するべきなのだ。モテるはずがな、くなんかない。ひと晩に3回も4回も5回もなんてとても射精できな、くなんかない。現実の加齢による様々な面での減退なんか気にするな。目を瞑れ。なんの抵抗感もなく主人公に自己投影をし、なんの気兼ねもなくベッドヤクザになればいいのだ。ここはなんの憂いもない桃源郷なのだから。
 返す返すも、決して同性愛のことを不健全だと排斥する意図があるわけではない。

エネゴリくん


谷翔平の調子について、所属するチームの監督が「フルゴリラ」という表現を使い、それがちょっと話題になった。フルゴリラとは、準備万端というか、臨戦態勢が整うというか、ばっち来いというか、なんかそういう状態を指す言い回しらしい。
 わかりやすい! 他言語の表現とは思えないくらい、すさまじくスッと入ってくる表現。外国語の表現って、なんでこれでこういう意味になるの、というものも数多くある中で、これは出色のわかりやすさだ。こんなの、日常ですぐ使える。そしてきっと、大谷の報道を見なかった相手にだってすんなりと伝わる。すごい。もしかしてエスペラント語じゃないの。
 言わずもがなの分析をするならば、やっぱりゴリラがいいんだと思う。ゴリラが物事を痛快にしている。ゴリラにはそういう効果がある。これを言っている僕の頭には、もちろん小川菜摘による「意気消沈ゴリラ」がある。あれもすごくよかった。そう考えると、ゴリラには限りない可能性があるのかもしれない。ゴリラこそが未来の、枯渇することがない究極の資源なのかもしれない。そうだ、フルゴリラをもらってばかりだとアメリカさんに悪いから、こちらからは「デスポンデンスゴリラ」をお返ししようか。なんかアフリカ沖にある島とかに、実際に棲息してそうな感じがある。そしてみんな落ち込んでいる。
 ところでここからが本題なのだけど、準備万端という意味でフルゴリラと言うと、なんとなく勃起的な連想が起りがちだと思う。そもそもこれまでも、最大限度の勃起を示す言葉として「フル勃起」という言い方があったから、余計にフルゴリラでちんこのことを追想しやすいのだと思う。しかしながら実はゴリラという生きものは、ちんこに関してはぜんぜん大きくないのだった。検索したら、3センチくらいと書いてあった。なぜならゴリラはハーレムを形成するタイプの生きものなので、ちんこが大きい必要がないのである。だから女の子に対し、ちんこが勃起したことをアピールする際、「もう俺の、フルゴリラだよ……」と言ったら、それは逆効果ということになる。くれぐれも注意されたし。
 しかしハーレムを形成するタイプの生きものだとちんこが大きくなくなる、というのはとても示唆に富んだ話であると思う。その話に触れたとき僕の頭には、やっぱり甘やかすのはよくないんだな、とか、温室育ちは弱いってことだな、などという感想が浮かぶのだけど、それはちんこが大きいほうがよいという思想が根幹に(どうしても)あるからで、そんな下賤な観念に冒されていない人は、争いがなくなれば武器はなくてもよくなるのだな、という風に思うのかもしれない。高尚ですこと。インポなんじゃねーの。
 ちんこの大きさと言えば、ずっと男子の頭を悩ませ続ける、成人男性のちんこの平均サイズ、というのがある。しかし勃起状態はひとりの人間の中でも状況によって変わるし、そもそも正式な測定方法というのも確立していないため、そのテーマで示される数字には、実はなんの信憑性もないとされる。それにアンケートで勃起時のサイズを書く欄があるのだとすれば、男は絶対に自分のちんこを贔屓して、下腹部をへこますなどして、2センチくらい水増しするに決まっているのである。しかしこの水増し行為は、よく考えてみると、やってもなんの得もない。むしろ損である。そんな無記名のアンケートで見栄を張ったところで実利はひとつもないのに対して、そうやって水増しされた回答ばかりが集積されたアンケート結果は、形而下の日本人成人男性のちんこよりも、全体的に水増しされたスケールの、形而上のちんこになってしまうからだ。そしてその数字を見てデスポンデンスゴリラになるのは自分自身なのである。だから、今後もしも勃起時のちんこのサイズを問うアンケートに答えることがあれば、そのときはこれまでとは逆に、サイズを間引きして書くべきだ。その行為による恩恵は、巡り巡って自分に返ってくる。全体的に小さめの結果となったアンケート結果を見て、自信を得ることができるようになるからだ。もういっそ、間引き程度ではなく、全体の平均値を思いきり下げてやるつもりで、「3センチ」と書いたっていい。どうやら今回のアンケートの回答者に、フルゴリラが1頭紛れ込んでいたらしい。ウホウホ。

傷つく人もいるんです


クハラの二次被害、というのを最近のテレビで知って、驚嘆している。
 セクハラを受けたと主張する相手が、そのことを相談してきたとき、その会話中でまたセクハラ事案が発生してしまうという、それがセクハラの二次被害だという。テレビでは「部長がセクハラしてくるんです……」的な相談を、女性社員が他の男性社員にしていて、それに対して男性社員が「そ、そうか……。まあそれだけ○○さんが魅力的ってことだよね、はは」と答えたら、それはもうアウトということだった。マジかよ、と思った。その場面で、それ以外にどう言えばいいというのか。
 正解は、完全にシステマティックに、当時の状況や、言われたこと、されたことの詳細を聞き出し、記録する、というものらしいのだけど、どうも無理がある気がする。
 話をしやすくするために、セクハラを受けた女性をA、セクハラしたとされる部長をB、その相談を受けた社員をCとする。もっとも、性的な話をしている際に、AとかBとかCとか、それだけでなんとなく卑猥な感じがする。俺がCさんだとしたら、じゃあ俺はセックスさんということになるね、はは、とAさんに言ったら、それはやっぱりセクハラになるのに違いない。まあセクハラなんだけど。
 でもセクハラってそもそもなによ、という話で、それは行為によるたしかな線引きがあるわけじゃなく、有名な例として、頭ぽんぽんというのがあるじゃないか。あれをされると女子はめっぽう嬉しいとされるが、ただしもちろんイケメンに限る、というあれである。じゃあここにイケメン社員としてDも参上させて、Aは、Dからの頭ぽんぽんは許す(どころか悦び、ショーツを濡らす)けれど、Bからのそれは「セクハラを受けました!」となるわけである。それが本当に厄介な部分だ。だってBは、自分のことがBだなんて思ってないんだから。Dだと思っているんだから。だから自分が頭ぽんぽんしてやると、Aは悦んでショーツを濡らすと思っている。だからやる。でも現実ではBはDじゃないので、Aはセクハラ事案だとCに相談することになる。一方DはDで、自分のことをDだと自覚しており、Aを悦ばせてショーツを濡らさしてやろうという信念のもと、頭ぽんぽんする。そうするとAはまんまと悦び、ショーツを濡らす。そしてAはCに向かって、またそれを話す。ただしそれはセクハラ相談ではなく、ノロケ話となる。ひどい話じゃないか。なにがひどいって、だって本当はCはAのことが好きなのだ。それだのにAはCのことを完全に性愛の対象から外している。だからセクハラの相談もするし、ショーツを濡らした話もする。その程度はもはや、嫌悪感という形で攻撃の矛先となるBよりも、さらに遠いのかもしれない。本当は、俺がいちばんお前のショーツを濡らしたいと思っているのに……。
 話が脇道に逸れた。脇道と言うか、パラレルワールドかもしれない。これは社内におけるセクハラの二次被害の話だった。いやだから、セクハラの相談を、信頼しているのかなんなのか知らないが、異性の社員ひとりを相手にこっそり行なう、というのがそもそも間違いと言うか、怪しいと思う。本当に困っていて救われたいと思っているのなら、そんなことはしないんじゃないか。もっとしかるべき行動に出るのではないか。それなのにこうしてふたりきりの状況でセクシャルなハラスメントの相談をしてくるということは、それっていうのはつまり、要するにそういうことなんじゃないか、Bによって傷つけられたデリケートな心の襞を、俺のフェザータッチで癒してほしいんじゃないの? そういうことだろ、という、どぶろっく的な発想が生まれてくる。と言うか、それしか生まれてこない。だとすればここにセクハラの二次被害の懸念は全くない。むしろセクハラという雨が降ったことで固まる地だけがある。固まるのは地だけではないだろう。固まればあとはこっちのもんだ。思いが通じ合ったAとCの間に、障害はなにもない。赴くままに心を通わせるふたりの姿を、遠くからBが眺めていた。「まったく、世話が焼けるふたりだぜ……」。ぶ、部長かっけぇ!
 話がどうしてもすぐにパラレルワールドに飛ぶ。僕の頭が作り出すそのパラレルワールドには、本当のセクハラというのはなくて、セクハピだけがあるんだと思う。こんな無邪気な僕にこの問題を語る資格はない。退散する。

いつも携えてくれてありがとうね


的なことについて語るとき、ついおっぱいのことを軽んじてしまう。水着とか、体位とか、なんかそういう付加価値的な要素にばかりかまけて、気がつけばおっぱいそのものを放っぽってしまっていたりする。よくないと思う。たぶん、おっぱいはあまりにも前提的であるために、わざわざ尊ぼうという気が起きないのだと思う。物心ついたときからいつもそばにいた幼なじみの魅力に気づかないのと同じ。そんなことだと、いつか痛い目に遭う。幼なじみがテニス部のキャプテンと付き合いはじめてから、ようやく狂おしい気持ちになるのである。なってからでは遅い。テニス部のキャプテンの手の早さといったら相当なもので、お前が幼なじみとキャプテンとの交際を知ったときには、もう既に幼なじみのおっぱいはキャプテンに死ぬほど蹂躙されている。阿呆かってくらいに揉みしだかれている。もはや触れられていないときでもいつもキャプテンの手の感覚が残っていて、そのことを意識すると体の奥のほうが熱くなってくるくらいの感じになっている。
 だからそうならないために、常におっぱいへの感謝の気持ちを持って生きなければならない。生きねば。「あって当然」という発想ではいけないのである。おっぱいなんてただの脂肪の塊、という言い方があるけれど、物理的な組成なんかどうだっていいのだ。と言うより、ただの脂肪の塊では不十分だと言うのなら、その人は一体おっぱいがなにでできていたらいいと言うのか。大事なのは、おっぱいというものを、女の子がいつも携えているという、その点だと思う。なんかね、女の子っていうのはね、胸部に脂肪の塊をふたつ作ってね、衣服を膨らませてね、暮しているんですよ。そこが本当に素敵なことだと僕は思うんですよ。いつも携えているという点では、脚の間に海綿体とかをいつもぶら提げている男も同じで、だからそれももちろん尊い。尾羽の長いニワトリとか、角の巨大なシカとか、生存競争に直接の効果をもたらさない余分な部位を持つ生きものは、それが大きければ大きいほど、そんなものに余計な力を注げるほどに自分はパワフルな生命体であるとアピールしていると言われるが、我々人類のおっぱいやちんこもその類でありつつ、さすがは文化を持つ理性的な生きものであるために、判りやすいサイズにだけ囚われるのではなく、ただもう、「あることに感謝」という、高次な捉え方をすることができる。優良な遺伝子がどうだとか、フェロモンがどうだとか、そういう下賤な獣的な発想じゃなくてね、女の子におっぱいがあって、男にちんこがあるという、ただもうそれが素晴らしいじゃないかと。
 だから僕の教団では、男性信者は女性信者の胸元に「ありがとう」と挨拶をするし、女性信者は男性信者の股間に「ありがとう」と挨拶をする。その心なんですね。

ホットパンツの精


村亜美が中学生の野球大会で始球式を行なった際、選手である中学生男子たちはグラウンド内でその様を眺める形になっていたようで(これがいけなかった)、はじめはマウンドを取り囲むようにして自制していたものが、じりじりと距離を詰め、最終的には何百人もの体育会系中学生男子がひとりの(当たり前なのだけど)稲村亜美に殺到し、もみくちゃになる、という出来事があった。映像を見たけれど、なかなかの恐怖映像で、いろいろと思うところがあった。
 世間は集団痴漢として憤っていて、それはまったくだと思う。集団心理の怖さ。稲村亜美を囲んで、稲村亜美の向こう側にライバルチームがいたので、そのライバルチームよりも稲村亜美の近くに行かなければならないと競うような気持ちも、もしかしたらあったのかもしれない。大勢でひとりの女性を襲う悪辣さ、ということが嘆かれるわけだけど、そもそもが未成年の少年たちとは言え、特定の犯人というものは取り沙汰されないわけで、だとしたらなんかもう、少年たちが本当に悪いのかどうなのか判らなくなってくる。中には既にしてひどい奴もいるんだろうが(チームのエースとかで)、おそらく大抵はウブな少年だったりするわけで、彼らは普段、女の子を襲ったりなんかはしないのだ。それが今回の状況では犯行集団の一員にならざるを得なかった。グラウンドに立っていた少年たちは不可避でそのレッテルを貼られてしまった。それは不幸なことだと思う。もちろん現場においてもいろんなスタンスの少年がいただろう。稲村亜美に飛びかかった少年、稲村亜美に飛びかかる少年を制止しようとした少年、その騒ぎにまったく参加しなかった少年。でも世間は3月10日の神宮球場のリトルシニア硬式野球大会の開幕式に出席していた少年を、一緒くたに責める。であれば逆説的にやっぱり個人個人は悪くないということになるし、少年たちの中でいちばん得をしたのは、いちばん最初に稲村亜美のもとに到着して、ホットパンツから伸びる太ももを触った少年だということになる。なんだ、だったらやっぱり触りに行くのが正解だったわけか。そういうことになってしまう。
 結局ふつうの話になってしまうが、いちばん悪いのは運営だ。中学生野球大会の始球式にホットパンツ姿の稲村亜美を召喚するという発想が最悪だ。神スイングと呼ばれる稲村亜美の野球のテクニックのすごさ、みたいなことは知らない。知らないし関係ない。問題は、ホットパンツ姿のグラビアアイドルを中学生野球大会の始球式に呼ぶことである。もうそんなのあれじゃん。大学の実行委員が自分の好きなタレントを学園祭に呼ぶのとまったく同じ発想じゃん。楽屋で特別に写真を撮ったりサインをもらったりするんじゃん。魂胆が見え見えじゃん。
 だから今回の出来事は、実際に稲村亜美をもみくちゃにした中学生男子たちよりも、稲村亜美をもみくちゃにさせた大人たちのほうがよっぽど悪い。むしろ稲村亜美をもみくちゃにしたのは、中学生男子たちではなく、その大人たちと言ってしまってもいいかもしれない。大人たちのゲスな魂胆が、怨念として神宮球場全体に広がり、それに酔わされた無垢な少年たち(若く青い性欲は罪ではない!)があのような行動に走ることになった、と考えるべきだ。運営の役員は検討が不十分だったとして詫びたと言うが、同時にチームを通じて少年たちに猛省を促したという。ほぼ間違いなく、「少年たちへの猛省」のほうが比重が大きいのだろうな、と思う。体育会系の、上の立場の不条理なまでの強権は、道理なんていともたやすく吹き飛ばすのである。
 中学生男子の肩を持ちすぎかもしれないが、インターネットの発達により、エロへの幻想を抱きにくくなり、悶々とした葛藤が薄れたと言われる現代において、目の前に降臨したホットパンツ姿の稲村亜美に、「触りたい」「揉みたい」という衝動が少年たちに湧き上がったことは、とても正しいことで、そこに健全性を感じる。もちろんわかってる。わかってるよ。集団痴漢。卑劣。いけません。稲村亜美の恐怖はいかほどだったか。十分わかっている。でも、ホットパンツ姿の稲村亜美だぜ? もちろんわかってる。わかった上で言っているのだ。たとえば電車で女子高生に痴漢した男が「痴漢されたくねえんならそんな短いスカート穿くんじゃねえ」と言ったとする。これはいけない。ぜんぜん理屈になっていない。その一方で、グラビアアイドルは男子が興奮してくれるから成立する商売だ。じゃあ始球式にホットパンツで現れた稲村亜美はどっちだ、という話なのだ。話がとてもデリケートで、今すぐにでも誰かから怒られそうで、ひやひやしながらこれを書いている。薄氷を踏むような気持ちだ。僕のこの気持ちを、張本勲が代弁して、「少年たちに「あっぱれ」ですよ」とか言って、吉原くらい盛大に炎上してくれないだろうか。
 あとこれは蛇足になるが、今回の出来事の性別が逆であったらどうだろうとも思った。ひとりの男性に殺到する何百人もの女子中学生。この場合、競争して獲得しようとするものが、稲村亜美の場合は太ももを撫ぜるとかだったが、男の場合はビーチフラッグのごとく分かりやすい。そして僕はそういう類の小説をいくらでも読んできたので、現実にそれが起ったとしてもそんなに驚かないのではないかと思う。

おっぱいレリーズ


明けからアニメ放送が始まった「カードキャプターさくら クリアカード編」に関して、ほうぼうのブログでちょいちょいと言及している。またここでもする。
 先日、何週か前の放送回、みんなで花見に行く話を観ていたら、小狼がお菓子を作ってきたと言って取り出したのが、「桃まん」という名前の、どう見てもおっぱい饅頭で、日本酒を噴き出しそうになった。白い球体のてっぺんが突起になっていて、そこだけ桃色。それはどう考えたって桃ではなく、おっぱいなのだった。世の中に絶対なんてないと思っていたけれど、でもこれは絶対におっぱいだった。……いやでも待てよ、そもそも「桃まん」というお菓子のジャンルをこれまで寡聞にして知らなかったけれど、それは定型としてああいうデザインで統一されているものなのだろうか。それならば仕方ない。その場合でもチョイスには難があったとは言わざるを得ないが、それでも小狼の罪はいくらか軽減される。ということで「桃まん」で画像検索してみる。すると出てきたのは大抵が球の上半分くらいの広範囲が桃色のもので、あんな突起部分だけが桃色のものはひとつもなかった。さらに言えば、あんなにも著しく突起部分が突起している形状というのも見当たらず、これでいよいよ小狼へ疑惑の目を向けざるを得なくなった。だって純粋に果物としての桃のことだけを考えていたら、たぶんあんな形にはならない。果実としての自然な曲線から逸脱している。だから、あれを成形した小狼の頭には、邪念があったに違いないのである。邪念とはなにか。その謎を解く鍵は、小狼が中1の男子である、という事実にある。中学1年生の男子が、自らの恋人を含む女の子たちと花見に行くにあたり、お菓子を手作りするとなったら、どんなことを考えながらそれはなされるか。そんなのもう、火を見るより明らかで、実際にその動かぬ証拠として、だって小狼くんの作った桃まんはあんまりにもおっぱいじゃないか、ということなのである。小狼は、乳首部分の造形には特にこだわり、またその色味を理想に近づけるために、赤の着色料をとても繊細にまぶしたに違いないのである。
 なんという変態行為だろうか。そして、桃まんがおっぱいまんになってしまうという事象の原因を、「なぜなら中1の男子だから無意識にそうなってしまった」と説明したが、しかしこれこそが小狼の策略なのである。ここまでおっぱいに寄せてきている作品が無意識であるはずはなく、小狼は確信犯的におっぱいまんじゅうを少女たちに披露したと考えるべきだ。なぜか。それはもちろん反応を見るためである。少女たちだって、そのあまりのおっぱいっぷりに、(お、おっぱい……)と心の中で感じるに違いないのだ。それは仕方ない。だってそれは実際に桃ではなくおっぱいをかたどっているのだから。しかし制作者である小狼は、(ここぞとばかりに)とても精悍な顔をして、「桃まんを作ってきたんだ桃まんを」と五七五で言うのである。だからこれは桃まんなのである。それだのにおっぱいのことを連想して頬を赤らめたとしたら、その子はスケベな子なのである。だからそう思われまいと、女の子たちは「わ、わあ。おいしそうな桃まんだね!」「う、うん。桃まん! 桃まんだよねこれは!」と口々に自分に言って聞かせる。そのいかにも思春期的な、おぼこい取りつくろいこそが、小狼の好物。そこまでが狙い。変態親父じゃねえか。
 しかし桃まん。桃は、果物としてのそれ自体が、お尻に似ているとされがちなのに、それをおっぱい風に仕立てて、しかも名前に「まん」がつく。プライベートゾーンのコンプリート。そんな隙のない食べものがこの世にあったのか。世界はまだまだ知らないことだらけだ。
 桃まんをきっかけに、アニメの内容について、久しぶりに人と語り合いたくなった。職場の同僚の、カードキャプターさくらが好きな例の20代半ば女子に、この内容を語ったら、たぶん働きづらくなるんだろうなあと思う。よします。

いいんだよ


然とした態度で書きたい。
 時代の趨勢に反しているが、正しいという理念の下、主張をしたい。
 我々は、女子高生に欲情してもよい。
 待ってほしい。通報は待ってほしい。話を聞いてほしい。
 欲情という言葉のイメージがよくないと思う。こう言うと、衝動を抑えられず電車内で痴漢だとか、あるいは金銭を支払って肉体を買うとか、なんか一気にそういう情景が浮かんでしまう。僕は別にそれを許せと言っているのではない。そういうのは卑劣だと思います。許せないと思います。「痴漢モノ」「援助交際モノ」なら話は別ですけど、現実世界でやるのはもちろん駄目。犯罪。完全アウト。
 そういうんじゃなくて、じゃあ逆に、女子高生の太ももとかブラウスとか、そういうものを目の当たりにして、僕たちは心拍を上げたらいけないんですか、心拍が上がらないのが正常だって言うんですか、という話なのである。そんなはずはないのだ。あだち充を読んでいたら、主人公とヒロインの、高校生同士の恋愛および性欲は描かれるのが当り前だとして、その主人公の父親とかも普通に、女子高生のスカートの中や裸を熱心に見たがるのだった。その様を眺めていて、そうだよな、これが普通なんだよな、としみじみと思ったのだ。思えば近ごろはそのことを忘れていた。なにか下手をやらかすとすぐに匿名の批判もとい誹謗中傷が殺到する昨今、外に向けての表現がおとなしくなるのは仕方ないことだが、知らず知らずのうちに自分の思考さえもが縮こまっていた。これは危険なことだと思う。自分の頭の中は自分だけのもので、どんなことを考えたって妄想したって自由であるはずなのに、それを封じ込めようとしていた。危ない! 思考はありとあらゆる外的な制約を超克しなければならない、そうでなければその人が生きている意味はないというのに!
 ちょっと熱くなった。議題は、女子高生に欲情してもいいのか、である。もちろんいい。痴漢や援助交際が駄目で、あだち充の漫画でヒロインのスカートがめくれたのを見ておじさんが喜んだりするのがなぜいいのか。やっていることは同じではないのか。そうではない。あだち充の漫画に出てくるおじさんは、自分の手で女子高生の身体をどうこうしようとはしない。じゃあ同意の上か、と言えばそういうことでもなく、突風が吹いたり、チアリーダーが応援で脚を振り上げたりという、そういう現象に際して女子高生のショーツを目にし喜ぶという、そういう仕組みになっている。つまりそのエロハプニングの発生に自己の差配は介在せず、純然たる授かりものとしてのみ享受している。そこが紳士的と言うか、理知的だと思う。「エロい→触る」ではなく、言わば「エロい→祈る」なのである。男として生まれた瞬間から、人生をかけて熱心にエロいことを頭の中で考え続け、そうやって日々の鍛錬でレベルを上げていたからこそ、神様がときどきもたらしてくださるエロを、余さず味わうことができる。そしてそのエロが斯様に、「男と女」というよりは「男と神」という構造で成り立つものであるがゆえに、その対象は往々にして女子高生になるのだと思う。ここに少し論理の飛躍があったように感じられるので、慎重に言葉を選びつつ説明をしたいが、女子高生っていうのはほら、身体としてはほぼ女性性として完成していて、それでいてまだ俗世間の汚い部分に染まっていない存在じゃないですか。「人間社会の女」ではなく、「きれいな世界の住人(それでいて性的には成熟している)」とでも言おうか。そこがいい。そこがいいんだ。
 だから別に、手を出してどうこうっていうんじゃない。審美眼的な視点で眺めて尊んでいるだけだから、本当に害はない。たとえば夕暮れ時に、雲が後ろから橙色の光線に照らされて縁が透けるようになって、暮れなずむ空の色と混ざり、信じられないほど美しい風景が現れる、そんなときがあるだろう。女子高生のエロスって、そういうものなんじゃないかと思う。それを目の当たりにしたとき、人はどう思うか。この世界に生きている幸福を再認識し、生きているだけで丸儲け、こんなに素晴らしいことはない、と思うのである。
 それをあだち充のおじさんたちは、「ムフ」の一言で表現する。この「ムフ」がいい。たぶん漢字に直すと、「無風」だと思う。「風」という漢字には「さかりがつく」という意味が実はある。だけど突風でめくれたスカートの中を見たおじさんの心は無風だよ、とてもフラットな気持ちで、この世界そのものを肯定して、そして君に欲情しているところだよ、という意味になる。素敵だ。SNSも、「いいね」ボタンなんかじゃなく、「ムフ」ボタンがあればいいと思う。そうしたらインスタグラムとかでたくさん押してやるのに。

「ラフ」と「H2」とビキニ


キニは好きだけど、マイクロビキニには逆に萎えたりする。なぜならマイクロビキニは、女の子が積極的にエロくあろうとしているからだ。それがいただけなくて萎える。女の子がどうして好きかと言えばエロいからなのだけど、女の子自身は自身のエロさを否定していてほしい。
 最近またハマって精力的に読んでいるあだち充の、「ラフ」だったか「H2」だったか忘れたが、登場人物のひとりが「女の子の水着は年々面積が小さくなるから長生きしたい」みたいなことを言っていた。いい台詞だし、そしていい時代だと思った。描かれたのはどちらにせよ1990年前後のことで、当時の水着事情は、まだ性に目覚めていなかったのでよく知らないけれど、水着以外のファッションや工業製品がそうであったように、どんどんと野暮ったさが剥がれ落ちていった時代なのだろう。自分が子どものときの写真を見ると、写っている自動車が角ばっていてびっくりしたりする。それがみるみる洗練されていった。水着も、変なけばけばしいものから、ナチュラルに、こじんまりと、女の子の肉体のかわいさが際立つように、研磨されていったのだと思う。すてきな時代。経済的にはバブルが崩壊し、失われた20年とか言われるようになるわけだけど、でも女の子の水着がかわいくなっていったのだから、やっぱりいい時代だと思う。
 その水着がこの2年くらいは変で、トップとボトムをあえてまるで別物のようにしたものや、ボトムが腰の上まであるハイウエストのものなど、おかしなことになっている。水着がこんなことになるようじゃ、ぜんぜんこの世界で長生きしようという希望が持てない。いい時代じゃない。改めるべきだ。ハイウエストボトムで脚長効果とか、バカなことを言うな。得られる効果に対してリスクが高すぎるだろう。笑うと皺ができるから一生笑わない、と言っているようなものだ。生きてて愉しいか。
 文頭でも言ったが、僕は別に水着の面積はもっと小さくなるべきだ、みんなマイクロビキニのようになるべきだ、と言っているわけではない。ある程度の三角トップ、ある程度のローライズボトムならそれでいい。面積はそこでストップでいい。将棋が、かつてはもっと盤が広く駒が多かったのが、時代を経て今の形に定着したように、野球が、かつては100点を先取したほうのチームの勝利であったのが、現代の9回制になったように、ここで停止していい。ビキニからこれ以上の面積を奪うと、品がなくなる。敬遠が申告制になるみたいなもので、情趣に欠けることになる(僕自身は野球にそれほどの熱情はないので、実際には別に大した問題だと思っていない)。
 それではビキニの面積をもう削れなくなってしまったこの時代に、我々はいかにして、かつての男たちがそうであったように、長生きをすればするほど得だなあという気持ちになれるのだろうか。今年の夏は去年の夏よりもずっといい夏だと思える要素を、どうやって毎年ビキニに盛り込むか。
 僕はそれは、紐だと思うんですね。ビキニの神髄って、生地部分ではなくて、紐にあるんだと思う。これもあだち充を読んでいて悟った。「おっぱいが膨らんだからもう海でビキニの上を失くしはしない」という短歌をつい昨日に詠んだけれど、このエピソードは「ラフ」にも「H2」にも登場した。亜美も春華も、成長途上の薄い胸に無理なビキニを纏い、海で流されたという。本当か。本当にそういうものなのか。膨らみという引っ掛かりがないと、そんなに「ビキニの上」の紐はほどけてしまうものなのか。ものなのだと思う。だって紐はほどけるものだから。ほどけない紐はないから。そしてほどけたらもう水着の面積なんて関係なくて、おっぱいやバンズといったプライベートゾーンがさらけ出される。そこに夢と希望がある。とにかく生きていこうと活力が湧き出る。
 だからもうビキニは、自分の好きな配色の1着を購入したら、それを何年も着ていい。どうせ夏にせいぜい3、4回着るくらいなのだから、普通に考えて何年も持つだろう。それじゃあトレンドに乗り遅れる、だなんて思わなくていい。ましてやそれがハイウエストのごときトレンドなら、放り投げてしまえばいい。その代わり、紐の結び方に凝ればいい。リボン結びのスリルもいいし、本結びの頑丈さもいい。逆に男結びを選んでみる無邪気さにだって惹かれる。ぶきっちょで結ぶのが苦手な子は、簡単にほどけて流されることもあるだろう。そういうとき、紐を強く上手に結んでやれる男になりたい。毎年だんだん、トレンドの紐の結び方は、難解かつほどけやすくなっていけばいい。もう前提として男の力を借りなければ結べないような紐の結び方が流行ればいい。哀しい来歴のビキニだからこそ、ビキニのために、武器を捨て、その研究ばかりが公費で推し進められればいいって思うんだ。

襞めいたゾーン


の授業参観に出たところ、授業内容が衛生に関するもので、インフルエンザ大流行の折ということもあり、手洗いの正しいやり方などをやっていた。その授業の導入部で、児童たちに身体の部位を挙げさせて、どこに汚れが溜まりやすいか考えるというくだりがあり、「手!」とか「足!」とか「頭!」とか、あらかた言わせた末に、最後は先生が「あとここも大事な部分です」と言って、黒板に貼った全身イラストの、その脚の付け根のあたりに、『プライベートゾーン』と記されたマグネットを貼ったのだった。そこから授業は怒涛の性教育へ……、という風にはもちろんならず、「だから清潔に保ちましょうね」くらいのさらっとした扱いだったのだけど、あるひとりの保護者の心中では、「プライベートゾーン……! プライベートゾーンという言い回し……!」という興奮が渦巻いていた。
 もちろんその言葉を初めて聞いたわけではない。たぶんCMとかで、「デリケートゾーンのかゆみに!」みたいなのを、前々から聞きつけていた。でもそういうCMで使われる用語という認識しかなかったので、デリケートゾーンとは、女性の、性器の、陰唇の、それも内側という、それくらいに秘められたゾーンだと認識していた。男子には把握しづらい、入り組んだ構造の、あのあたりの襞めいたゾーンのことだと。それだのに先生は、男女の性器の構造の違い、成り成りて成り余れる処と、成り成りて成り合はざる処の違いについては一切言及せず、まるでそんな性差などないかのごとくに、脚の付け根のエリアを「プライベートゾーン」と言い切ったのだった。乱暴じゃないのか、という気もしたが、諸般の事情により、手を挙げて「先生そのプライベートゾーンという表現は乱暴なんじゃないですか。もっと具体的に表現するべきなんじゃないですか」と抗議するのはよした。
 それで帰宅してからウェブで「プライベートゾーン」を検索したところ、「水着で隠すところ」という説明が出てきて、その明解な定義に、ストンと腑に落ちる感じがあった。もっとも「水着で隠すところ」と「性器」はやっぱり違うだろうという気もする。水着だっていろいろあるわけで、ほぼ全身を覆うものもあれば、乳首や陰唇を隠すばかりの紐のようなものもあるわけで、だとすれば「性器」=「プライベートゾーン」=「水着で隠すところ」という解釈を採用する人たちの考える水着というのは、えげつないほどのエロ水着ということになりはしまいか、とも思った。あれって逆に萎えるんだよね。
 そもそも「プライベートゾーン」という表現に対して、こうも僕が忸怩たる思いを抱くのは、それがまさに僕の専攻分野だからで、これまで僕は、男女性器のどちらに関しても、さまざまな言い回しを見知り、記録し、そして自らも考案してきたのである。特に女性に対して用いる「バンズ」はその白眉で、現にこのブログのタイトルにさえなっている。おそらく娘の担任の、二十代の女性教諭は、かつてやなせたかしが女性器のことを「ワレメちゃん」と呼ぶよう提唱したことも知らないだろうと思う。そういう、先人たちの苦悩を鑑みもせず、ふわもやっとした感じで「プライベートゾーン」で話を済ませてしまおうとする、その志がいただけない。悔しい。墓前に報告できない。
 それにここはプライベートなゾーンなんかじゃないじゃないか。むしろいちばんパブリックだと僕は思う。本人の裁量や思念などは入り込めない、世界の枠組みに支配されているゾーン。ここがあるから我々は存在し、意識が発生し、世界を成立させている。卵子はどこからやってきたか。生まれたときには卵巣の中にあったのである。だとすれば母の生まれた時点で私の卵子はこの世にあり、その母の卵子は祖母の生まれた時点に既にあった。そう考えれば生命とは宇宙そのものだ。じゃあ先生、もういっそ脚の付け根のその部分のことは、コスモゾーンでいかがでしょうか。

「やらハタ」の人間と「女の子も実はエロい」という真理の関係性


分が10代の頃に知っていればどんなによかっただろうと、日常生活の中でたびたび痛感する、「女の子も実はエロい」というこの世の真理。これさえ! これさえ知っていたらば! 義務教育課程および高校(あまつさえ男子校だし)で学んだすべての知識と引き替えにしてでも、このことさえ誰かが教示してくれていたら、僕の人生はぜんぜん別のものになっていたに違いないのに、と34歳でふたりの娘の父親になった今でも、悶えたくなる夜がある。
 「やらハタ」という言葉があって、これは「やらずハタチ」の略で、セックスを経験しないまま20歳になることを表しているが、これは20歳とか21歳とか、そういう年齢でまだ童貞であることの恥ずかしさを嗤うための言い回しではなくて、じゃあ22歳になってやっと無事に卒業を果たして、20歳や21歳のときはやらハタと言われて居心地が悪かったが、遅まきながら卒業したからにはもうそんなの関係ないよね、となるかと言えば、そんなことは決してないのである。20歳を過ぎてからの卒業およびその年齢、あるいは依然として継続される非卒業なんていうのは、この烙印を押された人間にとってなんの関係もない。たとえ20歳を過ぎてわずか1週間後の童貞喪失であったとしても、その人間の後半生に、やらハタのレッテルはいつまでも付き纏う。社会的な話をしているのではない。自己の精神の話である。やらハタの人間は、そのあとの半生でどれだけセックスをしたとしても、心の中でやらハタの焔は燃え続ける。そういうものだと思う。
 そうでない人生のほうを経験していないので、実際にどちらが幸福なのかは判らない。パラダイムでさえ渦中にあるうちはそうでない状態が想像しづらいというのに、やらハタの人生とやらハタを回避した人生のどちらもを想像するなんてこと、絶対に誰にもできない。やらハタ思考の愉しさもあれば、非やらハタ思考の満足感もあることだろう。どちらにせよ、隣の芝生は青い。それゆえに僕には、非やらハタ人種に対して、壮絶なまでの憧憬と劣等感がある。なんで俺のこの人生は非やらハタじゃなかったんだよ、と自分に対してではなく、世界に向けて激しい怒りの感情を持っている。
 それで冒頭の、「女の子も実はエロい」である。このことを知っていたら、もっとうまく立ち回れた場面が、10代の頃にいくらでもあったろうと思う。高校は男子校だったが、そんなの関係ない。童貞を喪失している同級生はいくらでもいた。彼らは知っていたのだ。「女の子も実はエロい」ということを。それなのに僕には教えてくれなかった。なんて薄情な奴らだろうか。もっとも僕も疑いを持ったことはあった。世界の姿を眺め、これって女の子も実はエロいってことにならないか? という疑念は抱いていた。でもそれは決して確信にならなかった。なぜ確信にならなかったのか。その理由について考えて、こう答えを導き出した。今は「女の子も実はエロい」ということを理解しているが、やはりそれは親切な誰かが教えてくれたわけではない。ではなぜいつの間にかそれを僕は知っているのかと言えば、自分の中のエロを客観的に見られるようになり、これと同程度のものを女の子が持っているのもまた当然だ、と思えるようになったからだと思う。10代の頃はその客観視というのが壊滅的にできなかった。なにしろエロの度合が違った。女の子も本当はエロいんじゃないかと少し疑っても、いや、そんな、まさか、女の子がここまでエロいはずないだろう、こうエロいのは男ばかりだろう、こんなエロさをぶつけたら(おそらく)清純な女の子は押し潰されてしまうことだろう、と否定してしまったのである。悲劇だ。力が強すぎて、愛しい子猫を抱きしめて殺してしまう、化け物のお話のようだ。
 本当は当時から、10代後半の少年がエロエロなのと同じように、10代後半の少女はエロエロだったはずだ。知っているのだ。本当はちんこのことに興味津々だったに違いないのだ。知っているのだ。握って感触を味わったり、舐めて味を知りたかったり、女の子だって悶々としていたに決まっている。知っているのだ。こういうことを言うと、妻は否定する。勘違いだと言う。なにぶんやらハタのため、実地での根拠があるわけではなく、そういうことを言われると途端に自信が揺らぐ。かつて遠い昔10代の少女だった妻の証言は、僕の類推よりもどうしたって説得力がある。
 そういうとき、僕は文献にあたる。参考資料にあたる。そうすると、やっぱり女の子はちんこのことが大好きで、それを前にすると上の口からも下の口からも粘性の液体をダラダラ垂らすようなので、僕は安心して、この世界に感謝のお祈りをして、眠りにつく。