アシタカせっ(くす)記

 金曜ロードショーで夏にやっていた「もののけ姫」を観て、やけに感動した。暑さとか、コロナ禍とか、そのとき置かれていた状況とか、思えばいろいろ停滞していた精神状態の折、もちろん身の入った読書なんかも出来ずにいた中で、見ごたえのある物語に感銘を受けたということかもしれない。そしてこれは僕に限ったことではなく、一緒に観たファルマンも興奮していたし、さらにいえば職場の同僚も、僕としゃべっていたわけではないが、「昨日「もののけ姫」を観て感動して、どうでもいいバラエティとかばっかり観てないで、ああいうのも観なきゃダメだなって思った」と話し相手に向かって語っていて、どうも今回の「もののけ姫」は、ずいぶんと人々の心に刺さったものらしかった。
 観たのはもちろん何度目かになるが、ジブリ映画は往々にしてそうであるように、今回も多々新しい発見があった。ひとつは、「これって実はほとんど、主人公が男で、舞台が日本の、ナウシカなんだな」ということである。タイトルでミスリードされているが、もののけ姫、すなわちサンなんて、ナウシカにおけるアスベルとまではさすがにいわないが、実はそこまで重大なキャラクターではない。この話は、なんてったってアシタカだ。「もののけ姫」とは、こんなにもアシタカがひたすらかっこいい話だったか、と思って、思ったあとに当時のドキュメンタリーのことなどを振り返ってみたら、「もののけ姫」はもともと「アシタカなんとか」がタイトルだったんじゃなかったっけ、ということを思い出し、検索したらなるほど「アシタカせっ記」というのがそれだった。ちなみに、「せっ記」ってなんだよ、とまた検索したら、「せつ」の部分は宮崎駿のなんと創作漢字だそうで、それは敏夫とかに変更されるよ、と思った。とにかく、やっぱり本質はアシタカの物語だったのだ。
 全編アシタカはかっこいいのだが、最もすごいと思ったのだが、本当に最後のほう、ジコ坊が取ったシシ神の頭を、デイダラボッチになった体に返そうとするシーンだ。ドロドロが大地を埋め尽くし、とても混沌とした状況の中、誰もが惑い、どうしていいのか分からず右往左往している中、アシタカだけが迷わない。ジコ坊を説得して、頭を入れていた桶を開けさせる。そして出てきた頭をサンとともに(別にサンなんていてもいなくてもいい)頭上に掲げ、こういう。「シシ神よ! 首をお返しする! 鎮まりたまえ!」これがすごいと思った。そもそもシシ神が伝説の存在で、その首をちょん切っちゃって、頭のないデイダラボッチが命を奪うドロドロを撒き散らして、もう首を返すしかない、という状況である。なんだその状況。この世でまだ誰も体験したことのない状況。想定問答集には絶対に載っていない状況。もしも僕だったら、無言でおずおずと差し出すしかできない。こんなときにふさわしいセリフが思い浮かばない。しかしアシタカは違う。ああそれが正答だな、みたいなことをすかさずいう。もっともアシタカが正答をいうのではない、アシタカのいったことが正答なのだ。
 エロ小説で、よく3Pだの4Pだのという状況になるわけだが、どうしてそうなるかといえば、大抵の場合は主人公に決断力がないからだ。「どっち(だれ)を選ぶの!?」と女の子たちに責められ、選べず、「一緒に、じゃ、ダメ……かな?」などとしどろもどろに述べる。そうすると女の子たちは、「もう、しょうがないわね」とため息をつきながら、3P4Pをしてくれる、というのがいつものパターンだ。
 アシタカならそんなことにはならない。「どっち(だれ)を選ぶの!?」と詰問されたらば、「どちらもだ! だれもかれもだ! みんなでしよう! みんなでしゃぶれ! みんなを抱く! ともに生きよう!」と、よく考えれば最低なことを、力強くいう。アシタカがそういったら、それが正しくなるので、女の子たちはもちろん応じるだろう。
 アシタカの揺るがなさを目にして、そんなことを思った。