顔パンツを巡る冒険 6

 顔をプライベートゾーンと捉え、「プライベートゾーンなのにビキニで隠している場所よりもはるかに高い確率で晒しているところを見ることができる」ということに喜びが感じられるようになったら、その次に「プライベートゾーンを隠す布を尊ぶ」階梯へと進んでいくのは自然なことだろう。それはすなわちグラビアに対する尊びである。局部だけを隠す、水着なり、下着なりの、表面積の小さな、少しでもずらしたらすぐに性器が露見してしまうような布片のみを纏った姿の女の子を見て、われわれはとても満ち足りた気持ちになる。あのグラビアの心の作用を、当世みなが着けているマスクで得られれば、これほど効率のいいことはない。
 グラビアアイドルの水着は、少しでもずらせばすぐに性器が露見してしまうほどに小さく、ずれればいいなあと常に希いながら、われわれはその姿を眺めるが、しかし実際にはずれない。撮影現場ではもしかしたらずれているのかもしれないが、その姿は撮影されないし、ましてやわれわれの目に届いたりしない(届いたとしたらそれは流出であり、大問題になる)。でもそれでいい。グラビアというジャンルのある一方で、ヌードだったり、あるいはさらに進んだ、それこそ性行為中の姿を写したものもある。それらは直截的なエロさではグラビアよりもたしかに威力があるし、なにより忘れてはいけないのは、プライベートゾーンまでも隠さず晒してくれた女の子に感謝をしなければならないということだが、しかしながら残念なことに、そうやって大事な部分までをも公開した結果、隠しているグラビアよりもすべての要素で上をいっているかといえば、決してそんなことはない。乳首や性器には個性があり、それに対してわれわれの好みもまた、さまざまに分化している。だから、もちろんみんな誰かの愛しい女ではあるけれど、出さないほうがよかった、見せてくれないほうがむしろよかった、なんて残酷な感想もどうしたって出てくる。また、寄せて上げるとかの矯正下着というわけでなくても、本当に小さな、乳輪よりもひと回りだけしか大きくないような三角ビキニであっても、乳房の中心である乳首をその布が支え、そこから伸びた紐が背中で結ばれることによって、乳房全体を持ち上げる効果が生まれ、その結果として、おっぱいは裸のおっぱいよりも、ビキニのおっぱいのほうが、往々にして形がよく見える。そしてビキニのおっぱいは形がいいものだから、われわれはその下が見たいと希う。しかしその願いは叶わない。そして叶わないから無意味かといえば、上記の理由によりそんなことはない。叶わないからいい、という面もある。その下にプライベートゾーンを抱く布片は、忌々しい存在であると同時に、しかしそれがあるからわれわれは希望を抱いて今日もこの世を生きていけるという、感謝の対象でもある。下着や水着がなければ、われわれは女の子の体に希望を抱けない。それが隠し、支えてくれているから、われわれは甘美な気持ちになることができる。女の子が身に着けていなければ本当にただの布でしかないものが、着けた瞬間に価値を持つ。これは宗教にも似ている。本当に大事なのは実体のない教義そのものであるはずなのに、それではピンと来ないから、像を作ってそれを崇拝の対象にしてしまう。すなわち下着や水着を尊ぶことは、偶像崇拝なのだともいえる。
 翻って、マスクである。顔の下半分、鼻の穴や咥内が局部であり、それをマスクが覆うのだとすれば、マスクは下着としての条件を十分に満たしている。それでは女の子のショーツを尊ぶように、われわれはマスクのことも尊ぶべきだ。
 そして僕は今からとんでもないことを言う。心を落ち着けてから聞いてほしい。
 マスクは。
 マスクは顔パンツと称され、今や下着とまったく同じ役割を持っているのに、出ている。さらけ出されている。パンチラ、ブラチラと、一瞬垣間見えただけでわれわれを喜ばせる力を持っている下着が、当たり前のように公開されているのだ。
 いまコロナ禍において、そんなとてつもないことが起っているのだ。
 つづく。

顔パンツを巡る冒険 5

 水着にならないグラビア、というのがたまにあるだろう。堀北真希とかがやるやつ。ここで持ち出すのが堀北真希というのが、我ながらなんともいえないと思う。結局、それ以降の時代、そこまでグラビアそのものに強い関心を持っていなかったため(最近また再燃している気配もあるけれど)、時代がそこで止まってしまったのだ。そんなホマキを代表とする脱がないグラビア、キャミソールにショートパンツ、あるいはノースリーブのワンピースくらいの薄着で微笑んでいるだけの、そういうグラビアを目にして思うのは、こんな股間への刺激のないものに割かれた誌面がもったいない(他にいくらでもビキニになってくれる女の子がいただろうが)、ということと、それと同時に、これでビキニグラビアと同じレベルに欲情することができたら最強だろうな、ということだ。なにしろビキニの女の子は、プライベートゾーンを隠しているという意味では、普通の服と同じくらい健全であるはずなのに、実際は滅多にいない。普通のプールにはあんな小さい水着の女子はいないのだ。真夏の、ナイトプールとか、湘南の海とか、本当に限られた場所にだけいる(とされている)。それに対して、ホマキ程度の薄着の女の子は、世の中に普通にいる。だからそれで欲情することができれば、その人の世界はとてもハッピーなものになるに違いない。
 顔パンツにも、その可能性を感じる。顔は、これまで当たり前に晒すものとされてきたし、今後も、コロナの感染状況に関わらず、完全に秘匿するものとはならない。普通に考えて、女の子がそれを外したとき、すかさず欲情できるほどには、確固たるプライベートゾーンにはなり得ない。しかし前回の記事でもいったように、確固たるプライベートゾーンではないけれど、淡いプライベートゾーンに、顔は、この2年でなった。この淡さは、普段まとめ髪にしている女子が、プールの授業のあと髪を下ろしている姿であったり、あるいは夏休みにばったり会った女子が近所の気楽さからキャミソールにショートパンツという薄着姿であったりという、そういう淡さであると思う。
 つまりホマキの薄着グラビアで発情できる人間は、顔で発情することができる。顔で発情できるってすごくないか。だって芸能人はみんな顔を出している。その昔、マスク(とサングラス)は芸能人の象徴だったが、今はそれがすっかり逆転した。一般人がマスクを着け、芸能人はマスクを着けない(テレビに出ている間は)。じゃあ、それに発情することができたら最強だろうと思う。その人にとって、テレビはいつだってイメージビデオだ。バランスボールに乗ったり、なんか棒状の食べ物をいやらしく食むやつだ。夢のようだな。

顔パンツを巡る冒険 4

 水着は下着とまったく同じ面積しか覆わないのに、「水着だから」という理由でやり過ごされている、という話のテーマがある。もうそろそろ20年くらい、僕はこの手の話をしている。これに関して、「このことについてあまり言及すると、女の子にかかっている催眠術が解けてしまうから控えねばならない」という自戒があった。自戒があったわりに、さんざん言及してきたけれど。しかし最近になって、女の子だって水着の布の面積が頭おかしいことは分かっているけど、でも分かった上で、あえてあの恰好をしているのだ、女の子にもそういう欲求や願望があるのだ、と思うようになった。
 顔パンツについて考えようとしているとき、パンツ、すなわち下着ではなく、水着にまで話を広げると、論点がぼやけ、収拾がつかなくなるのではないかとも思ったが、やはりここは水着も含めて複合的に、プライベートゾーンの取り扱いについて考えていくべきだろう。そうなのだ、これは要するに、プライベートゾーンの話なのだ。これまで顔はプライベートゾーンではないとされてきたのが、新型コロナウイルスの流行によってマスクが一般化し、覆われるのが常態化したため、結果としてプライベートゾーンの雰囲気を帯び始めた。これによって下の口と上の口の近似性が再認識されることとなり、われわれはマスクを顔パンツとして捉えるに至った。
 そもそも顔パンツという言葉がどこで誕生し、生み出した本人がどういう意味合いでそう言ったのかは知らない。ともすれば「マスクは顔のパンツだから、社会生活では必ず着けましょうね」みたいな健全なメッセージだったのかもしれない。しかしパンツと呼んだ瞬間に、どうしたって脱ぐことについて思いを馳せずにはおれなくなる。だってパンツは、脱ぐものだから。脱いでもらえぬものかと、切に願うものだから。
 そしてここが顔パンツについて考えるときに最も重要な部分だと思うのだが、パンツは、ショーツは、水着は、脱いでもらえぬものかと切に願っても、大抵の場面では脱いでもらない。なぜならその下にあるのは、ガチガチのプライベートゾーンだからだ。プライベートゾーン中のプライベートゾーンとして、確固たる位置に君臨している。そのためその下を見せてくれるのは、特殊な職業の人か、あるいは自分と特殊な関係にある人だけだ。これは人口比で考えると、とてつもなく少ない。もっとも人口比で考えると、その下を見たいなんて思いをぜんぜん抱かない種類の人が、逆にとてつもなく多いので、「その下を見たいと思う人比」で考えたほうがいい。そして、それでもやはり、実際にその下を見せてくれる人は、とてつもなく少ないのだ(俺に透視能力があればなあ……)。それに対して顔パンツである。顔パンツは、その隠す部分がまだ、プライベートゾーン部に体験入部でやってきたくらいのレベルなので、とても気軽に脱着される。プライベートゾーンに片足を突っ込んでいるのに、もう片足の足ぐりはすでにショーツを脱いでいるのだといってもいい。もはやショーツは片方の腿にかろうじて引っ掛かっているだけで、ほとんど用を成していない。ここに我々の勝機がある。我々とは誰なのか。勝機とはなんの戦いの勝ち負けなのか。
  顔パンツを巡る冒険はまだまだつづく。