水着グラビアへの回帰 1

 最近グラビアに開眼した。何度目の開眼だろう。
 グラビアというのは、水着グラビア、それもピンポイントでいうとビキニ姿のもののことをいっている。それを近頃はせっせと眺めている。まるで中学生のようだ。もっともいまどきの中学生は、スマホでいくらでもエロ画像を眺めるのだろうから、あの当時の中学生のようだ。
 とてもエロいエロ画像がいくらでも見られる時代に、水着グラビアになんの価値があるのか。鉄砲や大砲で戦う時代に、剣がなんの役に立つのか。たしかに水着は、裸に対して、局部を覆い隠しているという点で、下位のように思えるかもしれない。水着姿を見せてくれるのはいいけど、本当はもっと中身をさらけ出してくれたほうがいいんだよなあ、と思い、その願望を叶えてくれるのがエロ画像であると。つまり水着グラビアのその先にエロ画像はあるのだと。そう思いがちだと思う。僕もそう思う時期もある。大人の僕も傷ついて眠れない夜はある。苦くて甘い今を生きている。
 しかし水着グラビアに何度目か知れない到達をした今の僕には、これは水着グラビアという始発駅から、エロ画像という終点まで続くただの路線ではなく、実はこれは環状線になっていて、水着グラビアの先にはエロ画像があるけれど、しかしエロ画像の先にもまた、水着グラビアがあるのだと、そういう風景が見えている。覆い隠すからこそ見えてくるものがあるのだと、なんかしらの武道における、かなりの境地に達した感がある。
 昔と今ということでいうなら、エロ画像の手に入りやすさのほかに、登場する女の子のクオリティ(このあたりの表現は現代ではとても厳しくなり、岡村隆史のことも脳裏によぎる)に関しても、かつては厳然たる事実として、露出度と顔の美醜は比例関係にあり、かわいい子は脱がず、そこまでかわいくない子は脱ぐというシステムになっていたが、現在はそんなこともなく、すごくかわいいのにあられもない姿でとんでもないことをする子もいるし、その一方でなぜ脱がずに成立するのか疑問を抱かざるを得ない子もいる。そういう意味でも、水着グラビアとエロ画像のあわいは曖昧になっていて、単純ではない。
 しかしこうして論めいたことをつらつらと述べるよりも、僕自身が、エロ画像ではなく水着グラビアを見る理由、なにを求めて水着グラビアをまた眺めるようになったのかという、自身の心情について語るのが手っ取り早いだろう。
 水着グラビアは、エロ画像に較べて、どこがいいのか。
 脱がないのに、チンポを咥えないのに、なにがいいのか。それは。
 脱がないし、チンポを咥えないところだ。そこがいいのだ。
 つづく。