ちんしょぼ

 ひとつ前の記事を書いたあと、自分の中では、妻が少し右を向けばどんなものを見ているのかすぐにバレてしまう状況でエロサイトを眺めることに、大義名分が得られた気持ちになり、そして眺めていたのだけど、ファルマンはまだその投稿された記事を読む前だったので、少し右を向いた瞬間に僕の頭越しにエロサイトが見えて、「なに見とんねん」という話になった。それで僕は、これこれこういうことなんだよ、とブログ記事を示して弁解したのだけど、「はあ?」と一蹴された。おかしいな。確固とした大義名分を手に入れた実感があったのだが、他者には通用しない手形だったのかもしれない。あるいは、経済社会においてなんでも買えるクレジットカードを持っていても、お金の概念さえない未開の地ではなんの価値もない、みたいな感じか。とにかく通用しなかった。びっくりした。しかも、「見るにしたって、そんな、あまりにも下品な、そんなのやめてよ」といわれたのだが、そのとき開いていたサイトは、僕が見ているエロサイトの中では、だいぶ穏当な部類のものだったので、なんかもう詰んだな、と思った。
 どうやら僕はもう、のびのびとエロサイトを眺めることは、できないらしい。そして前記事にも書いたが、こうしてエロサイトを眺めることができない日々が続くと、ちんこの筋力、それはただ単にセックス能力というわけではなく、ちんこ発想で世界を明るく照らす力とでもいうべきものだが、それはどんどん衰えていって、取り戻すこともかなわず、やがて完全に枯渇してしまうことだろうと思う。
 そのとき爆誕するのがなんなのか、分かりますか。
 ちんこがただの黒ずんだ排泄器官でしかなくなった、しょぼくれた、おじさんですよ。ちんしょぼおじさんですよ。エロサイトを排斥する倫理観は、この世にちんしょぼおじさんを生み出すんですよ。いいよいいよ、ちんしょぼおじさんで溢れ返ったユートピアがお好みならば、そうやってエロサイトを邪険にしておればいい。エロサイトを邪険にするあなたがたを見て、おじさんたちは優しく微笑む。そしてそのおじさんたちのちんこは一様にしょぼくれている。世界には頻繁に勃起するちんこと、しょぼくれているちんこしかない。その選択肢において、あなたたちは後者を求めたのだ。そのちんしょぼユートピアに、いったいどんな幸福があるだらう。

凛と咲く花

 模様替えにまつわる話ばかりになるが、先日の模様替えの結果、これまで互いのパソコンの背面を突き合わせるようにして、向かい合っていた僕とファルマンの机は、やっぱり机って素直に壁に面したほうが部屋が広く使える、という何度目かわからない発見によって、北側の壁を向く僕の左後ろにファルマンの机、西側の壁を向くファルマンの右横に僕の机、みたいな配置になって(向きを東西南北で言い表すの、非常に田舎者っぽい)、そうなるとどういうことになるかというと、僕がエロサイトを漫然と眺める時間が、以前に較べて大幅に減った。コロナ禍の居酒屋の売上くらい、ガクンと減ったと思う。
 それで、こうしてブログを毎日ペースで書いたり、部屋の広くなったスペースで裁縫のことをしたり筋トレをしたりしているので、いいことづくめだ。いいことづくめである。いいことづくめなのだけど、心のどこかで常に、(エロサイトを漫然と眺めたい……)という思いがくすぶり続けている。エロサイトを漫然と眺めるのって、本当に生産性のない行為で、時間ばかりが空費されるのだけど、でもこうして禁断症状のようなものが出て、渇望感があるということは、精神的になんかしらの作用をもたらしていたのだと思う。そしてそれは、人には無駄な時間も必要なんだよ、などという、なにかいっているふうの、なにもいっていない理由なんかではなく、もっと実際的な、それこそ筋トレ的なものだったのではないだろうか。
 すなわち、ピアノだったりバレエだったりで、1日サボると取り戻すのに〇日かかる、みたいな、それくらい厳しくて高度なジャンルなんですよ、というアピールとしか思えないいい回しがあるけれど、エロというのもまた、これとまったく同じことがいえるのではないだろうか。ましてや僕は38歳である。若い頃ならば意識せずとも衰えることなどなかったが(そもそもサボろうにもサボれなかった)、ぼちぼち、うかうかしているとそっち方面が薄らいでいってもおかしくない年齢である。自然に任せて薄らぐのなら、薄らがせればいいではないかと思われるかもしれないが、やっぱりそんなわけにはいかない。性欲だと、まるでそれが清廉で正しいことかのようだが、体型で考えたらどうだろうか。代謝が落ちてきて、下腹が出たりする、中年からの体型の変化を、なすがままに任せて放るのが、潔くてかっこいいだろうか。そんなことないだろう。性欲だってそれと一緒だ。だから僕は意識を高く持って、現状の性欲を保とうと努めなければいけないのだ。エロサイトを漫然と眺めることは、つまり僕にとって筋トレみたいなものだったのだ。筋トレならぬ、いわゆるひとつの、チンのほうですけどね(哄笑)。
 であるからして、この配置になり、自由にエロサイトを眺められないことは、大いに問題がある。この問題を打開するにはどうしたらいいか。答えはひとつだ。不意に画面を見られて、咎められても、くじけず、眺めたいときは眺めればいい。高い志を持っていれば、周囲の雑音なんか気にならない。この道をゆく。ゆけばわかる。歩いたあとに花が咲く。

渡りたい渡れない

 先日部屋のわりと大規模の模様替えを行ない、机周りがとても整ったのだが、それにあたって処遇に困ったのが、純粋理性批判(二次元ドリーム文庫)および社会契約論(美少女文庫)の群である。困ったというか、僕は別に困らないのだけど、こうして模様替えを行なうたびに、それの詰まったミニ本棚がファルマンの目について、「ちょっとそれはもうどうなんだ」ということを言及されるのだった。家に帰るまでが遠足であるように、ファルマンにエロ小説のことで苦言を呈されるまでが、正しい模様替えなのかもしれない。
 「どうなんだ」というのは、もうどちらもレーベルとして完全にオワコンではないのか、エロ小説文庫というジャンルの役割は既に終わったのではないか、という指摘ではもちろんなく、もう10歳、二次性徴間近の娘を持つ父親として、そこまで厳重に隠すというわけでもなくこういう本を保持しているのはいかがなものか、という意味である。
 それをいわれると、若干の心苦しさはある。しかしその一方で、娘たちが妙齢になるからこそ、父親は青春の、もとい本当にくだらない当て字になるが、性春の象徴であるこれらの本を、手離してはいけないのではないかと思う。これを手離してしまった瞬間に、いまの僕と、あの頃の僕は、陸続きではなくなる。つまりこれらの本は、橋なんだと思う。橋の名は勃起橋。ただいちど渡ればもう戻れぬ、振り向けばそこから思い出橋。勃起の先に、あの頃の僕がいる。
 最近、勃起の種類ということを考える。勃起とは海綿体が膨らんで起る生理現象だが、結果として現れるそれはどれも変わらないように見えて、実は、いかにして醸成されたものかによって、その中身はぜんぜん違ってくると思う。やはり血流ということで、液体として捉えると、カッと沸かした湯はすぐに冷め、じっくり長く火を入れたお湯はなかなか冷めないように、勃起もまた、弱火でゆっくり作り上げた勃起は、堅牢で濃厚であると思う。そして勃起における弱火とはなにかといえば、それは活字なのだ。画像や映像は、瞬間湯沸かし器のごとく勃起をもたらす。しかしそれは臓腑に降ればすぐに醒めてしまう。それに対して文字によって仕立てられた勃起は、いつまでも熾火のように熱を持ち続ける。僕はエロ小説の、そこが好きだ。そこに価値があると思う。
 だからやっぱり手離すことはできない。たぶんもう増えることはないのだけれど(そこに一抹の寂しさを覚える)、かつて5倍をはるかに超える量があったところから、それこそ弱火で長い時間をかけ、凝縮された結果いまの量となったこの結晶のような数十冊を、僕はやはり常に目の届く場所に置いておきたいと思う。