乱交パーティーで逮捕についてのオブジェクション

 乱交パーティーの主催者集団が逮捕される。切ない気持ちになる。
 そもそも乱交パーティーってどういう罪になるの、ということを検索したら、参加者は公然わいせつ、主催者は公然わいせつ幇助ということになるらしい(18歳未満の参加者がいた場合はまた別の罪になる)。どうもピンと来ないな。
 ちなみに今回の事件で逮捕された5人はそれともまた違って、売春防止法違反という名目だった。これは、男性から高額の参加料を徴収し、女性は無料どころか報酬を支払っていたようで、そこらへんが引っ掛かったものらしい。10年間での稼ぎは6億5000万円とのことで、ずいぶんうまいことやったもんだと思う。しかし罪はあくまで売春防止法違反であり、薬物など、タチの悪い罪に問われている様子はないのだから、なかなか健全なのではないかとも思う。お金をめっちゃ稼いではいるけれど、それは性欲という、無限にあふれ出る資源をうまく利用した結果であり、人を騙すとか、蹴落とすとか、そういう金の得方ではなく、「人は人が好き」ということを信じているからこそできる、とてもきれいな心で創造されたビジネスなのではないかと思った。稲村亜美に群がった小学生のときもそうだったが、僕は性欲を動機とした事件に対し、とてつもなく甘い裁定基準を持っている。性欲は、現状よりもだいぶ許されていいと思って日々を生きている。
 今回のように事業としてではない、あくまで趣味の範囲で集ったような場合でも、冒頭で述べたように公然わいせつとして罪に問われるのは、説明文を読めば読むほど、考えれば考えるほど、意味が分からない。日々読んでいる読み物と、あまりにも乖離しているせいかもしれない。たとえ閉鎖された空間であっても、不特定多数の人物が公然と性行為をしたら、それはもう罪になるという。その場にいるのが「乱交パーティーする人集まれ!」で集まった人たちだったとしてもだ。なにかここに、無から有が生まれる、奇蹟のような部分がある気がする。あまりにも「無い」ものを、「有る」と言い張ってしまうと、それまでたしかに有ったはずのものまでもが、もしかしたら無かったのかもしれない、と思えてしまう。他者に危害や損害を与えるから罪だと思っていたのに、一切そのような部分がなくても罪だと言うのなら、もう罪の基準が分からない。逆に罪に違いないと思っていたものが、ワンチャン罪ではないかもしれない。揺らぐではないか。
 実際、どこまで行けば逮捕なのか。2組のカップルが、同じ部屋のそれぞれのベッドで同時にセックスをする。そういうプレイ。これはセーフだという。じゃあそれが3組になったらどうか。4組になったらどうか。20組になったらどうか。あるいは、これはただの屁理屈めくが、その20組が全員、目隠しプレイを行なっていた場合はどうなるのか。同じ空間で性行為をしていても、互いにその姿を見ることはない。これはセーフか、アウトか。誰も答えられない。なぜ答えられないか。そもそもの罪状に根拠がないからだ。どこかにマイナスを発生させることが犯罪だと考えれば、マイナスが発生した瞬間が罪が成立した瞬間ということになるが、乱交パーティーにはどこを見渡してもマイナスがないのだ。発生していないものを捕まえるという、そもそもが無茶なことをしているから、すぐにボロが出る。まっくろくろすけを捕まえたメイのように、両掌でなにかを取り押さえたような気になっていても、開けてみたらそこにはなにもいない。見つけた気になっているだけなのだ。
 実際の乱交パーティーは、たぶん僕が夢想するような、いいものではないだろう。だから僕は参加したいとは思わない。思わないが、それが犯罪だと言われると、口を挟みたくなる。乱交パーティーは、ハーレムは、全校生徒の前で公開セックスは、罪じゃないんだ(最後のはもしかしたら罪かもしれない)。

特筆すべき嬉しかった出来事

 にわかには信じがたい話だと思う。特に男性諸兄にとっては、妬み嫉みも発生し、余計に受け入れがたいだろうと察する。でも事実である。
 先日のことである。プールに来ていた。男子更衣室で、水着に着替えるために全裸になった瞬間だった。プール遊びを終え、今から帰るところらしい小学校高学年くらいの二人組が、すぐ横の通路を歩いていった。その少年たちが、僕の脇を通り過ぎたあと、少し興奮したような口調でこんなことを言ったのである。
「すげえでかかったな!」
「うん、でかかった!」
 本当なのだ。嘘じゃない。嘘じゃないし、勘違いでもない。誰か別の人のことについて言ったということもない。他に人はいなかった。でかかったものが何か、たしかに目的語はなかった。でもタイミング的に、シチュエーション的に、それ以外ない。その場にいたから分かる。本当だ。信じてほしい。忸怩たる思いはあるだろう。大抵のあなたがたはそんな思い出を持たない。でもこれが現実なのだ。受け入れてほしい。
 こういう感じでちんこの大きさを褒めそやされるのって、人生の中でこれほどの喜びは他に存在しない、とまでは言わないけれど、だいぶ上位の、そうそうないレベルの喜びだと思う。小学生男子というのがまたいい。屈託がなくて言葉が素直だし、なにより男という種族の後輩である。彼らにとって僕は、ちんこの大きい、憧れの存在となったに違いない。プロスポーツ選手って、こんな気持ちなのか。こんなに気分がいいのか。思わず追いかけて、ジュースくらい奢ってやりたくなった。それくらいの幸福感だった。
 ふたつ前の記事(「波のり」)で、空を飛ぶ鳥にペニスはない、ペニスは空を飛ばない、空に看過される度合のペニスの人間もいるが自分は残念ながらそうではない、だからあんなにも高所が恐怖で、飛行機が嫌いなのだと合点がいった、という話をした。今回、それが外部からの反応によって改めて証明された。プールの男子更衣室で、小学生男子から羨望の眼差しを向けられるようなちんこの人間は、空を飛べない。もとい物理的に空など飛ばなくても、生物として遥か高みに位置しているのだとも言える。
 ちなみに僕はそのあと予定通りプールで泳いだわけだけど、心なしか股間部の水の抵抗が激しいような気がして、泳ぎづらさを感じた。ペンギンは鳥類だが、空は飛ばず、しかし海の中を飛ぶかのように泳ぐ。じゃあペンギンは果たしてどうなんだろうと検索したら、ペンギンもやはりペニスは退化してなくなっているらしい。であれば、これまでプールにおいて、水泳のガチ勢に対して気圧されるところがあったが、なんのことはない、あいつらというのは、水から看過される度合いのものしか持っていないがゆえに、あんなにもスムーズに泳げるのだ、それに較べて僕はどうしてもその部分において重大なハンデを負っているため、ああは泳げないのだ、と喝破した。そして精神衛生がとてもよくなった。やっぱりあの小学生たちにはジュースを奢るべきだった。ちんこの大きさを口に出して称える存在は尊い。天使的でさえある。親御さんの教育がいいんだろうな。ただし彼らの親御さんのより、僕のほうが大きいんだろうな。そこはどうしたって申し訳ないと思う。ああ気分がいい。

ちんまんだん

 我々が「男根」「巨根」と言っているとき、突き出た長い形状のものを指すはずがない「根」になぜかその意味を持たせているのは、無意識に「棍」(「棒」という字義があり、こん棒や三節棍で用いられる)と混同してしまっているからだ、という、先日「パピロウせっ記」の中で提唱した説は、エロ言語学上、とても重大な発見なのではないか、という気持ちが、その日以来ずっと頭の中でくすぶっている。このくすぶりは、僕がいつまでもかすかな酸素を与え続けることで、いつまでもくすぶり続けるのだろうと思う。ボワッと発火はいつまでもしない。なぜなら僕ひとり分の酸素しかこの界隈にはないからだ。
 同じく「パピロウせっ記」の中で、睾丸および陰嚢のことをなんと呼ぶかという議題の中で、いちど「宝玉袋」に決まりかけた場面があり、その際に「肉棒と宝玉袋、これに八咫鏡を加えたものが、古来より三種の神器と呼ばれております」という記述をした。なにぶんその記事内では玉のことについて熱心に思案していたため、宝玉と来たら八尺瓊勾玉、という連想が手近に来ていた。そして玉がそれならば、自ずと肉棒は草薙剣ということになる。「ちんぽこ」というときの「ぽこ」は矛であるという説もあるし、ペニスフェンシングという競技も(僕の生きる世界の中には)ある。ちんこと剣の相似性に誰も文句はないだろう。当該記事では「これに八咫鏡を加え……」とだけ書き、それについて深い言及はしなかったし、そもそも書いた際にはなにも頭になかったのだが、その翌々日くらいに、通勤の車の中でふと、「鏡は亀頭じゃないか!」と天啓が舞い降りた。亀頭が鏡ってなんだそれは、と思う向きがあるかもしれない。でもエロ小説を読む人間ならば知っていると思う。亀頭って鏡なんですよ。で、あるからして、草薙剣、八尺瓊勾玉、八咫鏡という三種の神器って、瓢箪から駒みたいな話ですけど、もしかしたら男性器のメタファーなのではないか、アマテラスは女性で、女性が生体として基本であり、それが男性であるニニギに授けたのは、Y染色体であり、すなわちちんこで、それこそが三種の神器ということなのではないか、と思った。思ったと言うか、悟ったし、悟った瞬間、アマテラスが、「その通りよ、パピロウ」と言ったような気がした。なんてったって島根県在住ですからね。そしてこの発見もまた、ここにこうして記したとて、他者のたくさんの酸素を浴びることはなく、いつまでもくすぶり続けるだけに違いない。もどかしい。
 そんな種々の発見を得ることとなった、「パピロウせっ記」のインスタ事前会議だが、このたび無事に会議は終わり、僕はいよいよインスタグラムを始めることにする。ああ始める。始めるさ。始める始めると言いながらいつまでも始めなさが、なだぎ武のやるディランが自転車から降りるときのようだが(古すぎて震える)、とうとう始める。ああ大丈夫、いま始めようとしているところだ。具体的に言うと、10月1日からやる予定だ。10月1日ということは、その時点で今年の残り日数が92日ということになる。だとすれば、やれるかどうか分からないけれど、その全日投稿するだけの弾はあるのだ。つまり、作ったショーツはもう92枚を超えているということだ。作ったな……。

波のり

 ものの本を読んでいたら、「鳥類(新鳥類)にペニスがないのは空を飛ぶために身体を軽くする必要があったから」という記述があり、なるほどなあと感じ入る部分があった。
 空を飛ぶことに対する憧れは、得てしてロマンチックに描かれるけれど、そんなことをのたまう男の前に、絶対的な存在が現れ、「じゃあ飛べるようにしてあげる代わりに、ちんこ没収ね」と言ったら、男はすごく悩んで、悩んで悩んで、頭の中がちんこでいっぱいになって、そしてなんかしらの結論を出すのだ。斯様に、実際はぜんぜんロマンチックじゃないのだ。脳内は、亀頭と、陰毛と、玉袋で埋め尽くされている。どれほどお前が社会で大成して、非の打ちどころのない好青年だと周囲から褒めそやされても、出自は卑しく、アル中で無職の伯父が、家族の弱みをチラつかせてすぐに金を借りに来ることを、ゆめゆめ忘れてはならない。ゴミできらめく世界が僕たちを拒んでも、夢を濡らした涙が海原へ流れても、空を飛ぼうとすれば、どうしたってちんこが足を引っ張るのだ。
 こうも言える。
 ちんこは空を飛ばない。
 君はロックなんか聴かないし、あの日見た花の名前を僕達はまだ知らないし、岸部露伴は動かないし、ちんこは空を飛ばない。ちんこは空を飛ぶようにできていないのだ。飛行機に乗ったとき、あるいは飛行機に乗るまでもなく、空を飛ぶことの疑似体験として高い所に登っただけでも、陰嚢のあたりがひゅーっとなるけれど、あれはちんこが空を飛ぶという、この世のことわりに背く行為をしているからだったのだ。今年のGWの帰省の際、僕の飛行機でのビビり方を、妻と娘たちは嘲笑していたけれど、あれはしょうがないことだったのだ。能力者が海楼石に近づくだけで体を弱らせるように、ちんこを持つ父は、空からものすごい力でちんこを苛まれていたのだ。それは元気もなくなろう。しかもそのちんこが、空的にもそのくらいのサイズのちんこならまあ許せるかな、という程度のちんこの男もこの世には多くいようが、幸か不幸か、僕の場合はそうではない。僕の飛行機の怖がり方は常軌を逸していると言われるが、そういうことだったのだ。ちんこのサイズと、空からの拒まれ度合は、比例するのだ。なるほど僕の感じる恐怖は規格外なわけだぜ。
 そしてこうも言える。
 ちんこと翼は等価交換である。
 すなわち、ちんことは翼である。
 大空にはためかせ飛んでゆくために「ください」と希われる翼だけど、実はわれわれは既にそれとまったく同価値のものを持っていたのだ。思えば伏線はあった。ディズニー映画「ダンボ」である。あれ、象が耳を使って空を飛ぶじゃないですか。象はもちろんちんこだから、あれってちんこが翼と合同であるという真相にたどり着くためのヒントだったんですよ。アメリカでの公開は1941年だそうだから、80年前から張り巡らされていたんだね。あと絶頂を迎えるときに「飛ぶ!」って叫ぶパターンがあるじゃないですか。あれも伏線ですね。さらには精子って飛ぶじゃないですか。大いに飛ぶだろうと思ったら意外と飛ばないときもあるけど、でもまあ飛んだりしますよね。あれももちろん伏線。あとからこうやって数々の周到な伏線に気づくと、作者すげえ、ってなる。今なってる。
 これまでちんこちんこと言ってきたけれど、ダンボの耳に対応し、左右対であるという特徴を踏まえれば、ここまで述べてきた「ちんこ=翼」は、「陰嚢=翼」と言っていいだろう。ならば右の金玉は右ウイング、左の金玉は左ウイングということになり、右の金玉がエムバペ、左の金玉がネイマール、そして陰茎がメッシという、MNMトリオを形成する。3人の年俸を合計すると367億円だそうだ。俺はそんなものをぶら下げて、日々を生きている。自信が湧く。空なんか飛べなくていい。幼い微熱を下げられないまま神様の影を恐れて隠したナイフが似合わない僕をおどけた歌でなぐさめなくていいんだ。

人生腹上

 腹上死は男のロマン、などと言われる。まあ解る。死ぬのは基本的に気が進まないが、どうしても死ななければならなくなって、でも死に方を選ばせてくれると言うのなら、やっぱり腹上死ということになると思う。
 腹上死のなにがいいって、腹上というくらいだから、相手の体と密着し、愛し合いながら昇天するわけで、その安心感がいい。死にゆく兵士の手を握ってあげる的な地点から、さらにナイチンゲールが踏み込んで、これはもうナイチンゲールじゃなくて、ちんこを慈しんでくれーるだね、みたいな、こんなセンス的にも倫理的にもひどいジョークも含めて許してくれるような、そんな優しい世界だと思う。
 でも腹上死には、それ以上にもっといい要素がある。
 死ぬとき勃起している、勃起しながら死ねる、という点である。
 死の恐怖を前にして、人の体に触れてもたらされるのが安心感ならば、勃起が与えてくれるのは無敵感である。どんなにつらい場面でも、体の中心に立派なフル勃起さえあれば、とりあえずは大丈夫なような気がする。錯覚である。フル勃起しててもダメなときはダメだ。ダメにもいろいろなダメがあるが、その究極が死だ。勃起してても死から逃れられるわけではない。しかし逃れられるわけではないが、その代わり、立ち向かうことができる。もちろん勝負は見えている。相手のパワーは圧倒的だ。でも勃起という聖剣があれば、立ち向かえる、もとい、勃ち向かえるのだ。
 ところが死というのは陰湿なものなので、老いとタッグを組み、われわれから勃起を奪ってから襲い掛かってくる。長生きは尊い。尊いが、それは勃起という武器を喪っていくことを意味する。年を取ればその分、勃起に代わる武器が精神内に生成されてゆくのだろうか。見当もつかない。勃起を奪われ、か弱い老人となり、猛烈な不安感とともに死に包まれるのだとしたら、これほどおそろしいことはない。
 これを回避するためには、せっかく現代は文明が発達したのだから、今わの際には、アダルトビデオを網膜に照射し、あるいは目がもう開かないのなら、脳に直接でもいい。脳に直接、映像を見せ、勃起の感覚を与え、射精の悦楽を浴びせてほしい。すなわち、VR腹上死である。これはいい。これでいい。全部で6時間くらいのそれを眺めながら、もともとの原因で死ぬんだか、度を超えた性興奮と性疲労で死ぬんだか判らないような感じで、涎をダラダラに垂らしながら、死んでゆきたい。曾孫のJKやJDに囲まれながら。

2次元ドリーム文庫寂寞

 2次元ドリーム文庫が、どうも終わったっぽい。
 どうも終わったっぽいからそのことについて一文書こうと思い、いまこれを書くにあたり改めて公式ホームページを見たら、6月の新刊が1点だけアップされていたため、ちょっと微妙な感じになってしまったのだが、これの前の刊行が去年の11月で、そしてそのどちらもが竹内けんによるハーレムシリーズなので、やはりもう機能的には終わっていると言って差し支えないだろう。さらによく見れば、2021年からだいぶ刊行は不定期になっていた。僕自身、ホームページを見るのがとても不定期になっていたため、これまで気付けずにいた。
 寂しい。
 輝いていた時代を知っている物の落ちぶれてしまった姿を見るのは寂しい。
 二次元ドリーム文庫には、確かに輝いていた時代があった。具体的にいつ頃かと問われたときのことを考え、刊行記録を確認したところ、ざっと2007年から2011年あたりだ。だいぶ前だな。それはお前が20代半ばから後半で、さらには書店員だったから、必然的に2次元ドリーム文庫との距離が近かっただけの話ではないか、とも言われそうだが(僕は先ほどからどんな仮想敵とこの対話をしているのだろう)、決してそんなことはない。
 2004年に刊行が始まった2次元ドリーム文庫は、当初は同社の二次元ドリームノベルスとの差別化ができておらず、戦う女主人公が悪い男たちや触手などにエロエロ蹂躙される、みたいな話が多かった。「二次元ドリーム」というワードからすれば、なるほど触手の世界観こそがそれにふさわしいように思える。しかし文庫はやがてノベルスとは袂を分かち、現実的な世界における二次元ドリームエロという切り口を確立する。冴えない男主人公が、とあるきっかけによっていきなり複数の女の子に猛烈にモテまくるようになるというパターンである。たしかにそれも、触手が出てくるような世界と同じくらい、二次元でドリームな世界であろう。2006年あたりからその方向性にしっかり舵が切られ、そして2007年からの黄金時代に突入する。この時代の特徴は、なんといってもハーレム率の高さである。ここにはやはり初期(2005年)から続く竹内けんによるハーレムシリーズの存在があるのだろうと思う。もはや瀕死状態なのやもしれないレーベルにおいて、それでもなおそれだけが刊行されているという事実が指し示すように、ハーレムシリーズはこのレーベルを貫く棒のような存在だ。二次元ドリーム文庫と言えばハーレム。ハーレムと言えば二次元ドリーム文庫。それくらいその比率は高い。ライバルレーベルであろう美少女文庫がわりと純愛(エロ創作においてこれはひとりの女の子としかエロいことをしないことを指し、世間一般の純愛という熟語のイメージとは微妙に異なる)ものを出すのに対し、そのスタンスは明らかだった。ハーレムのなにがいいって、女の子が複数いることによるプレイのバリエーションや迫力というのは当然として、なにより主人公のモテ方、快楽に奥行きが出る。一見、ひとりの女の子とじっくりいろいろなプレイをしたほうが深掘りができて奥行きが出るように思えるが、実はそうではなく、それは平面的に広がっているだけで、さまざまな女の子と多層的に行為に及ぶことによって初めて、そこには立体感が出てくる。竹内けんはハーレムシリーズにおいて、連結した世界観の中で多様なシチュエーションを仕立て上げるが、なぜそんなに設定に凝るのかという問いに対し、「エロのやることは、結局いつも一緒だから」というような答えをした。もううろ覚えだけど。やることは一緒だから、シチュエーションを工夫して変えるのだと。つまりそういうことなのだ。真面目生徒会長と、不良っぽいギャルと、運動部幼なじみと、いたいけ後輩とエロをするから、重なって厚みが出る。我々はその厚みに、安心して身を委ねることができる。冠に「二次元」を掲げておきながら、二次元ドリーム文庫はどこよりも強く立体感にこだわっていたのだった。しかしその志はだんだん綻び始める。時代の趨勢か、純愛ものがじわじわと増えていき、さらには百合だの異世界だのと、流行りものが侵食し始める。そんなのは、ぜんぜんいらなかった。竹内けんのことをだいぶ賛美したが、実を言えば僕はハーレムシリーズの熱心な読者ではなかった。ファンタジー世界は苦手なのだ。エロのバリエーションは、いろんな学園の、いろんな部活動という、そのくらいでいいと僕は思っている。奇矯な設定はいらないのだ。その綻びはやがて亀裂となり、そしてとうとう瓦解が起った。骨組みだけは残っていて、柱、すなわちレーベルを貫く棒であるハーレムシリーズだけは続く。しかし建屋はもうない。
 寂しい。

顔パンツを巡る冒険 8

 マスクは下着なのに堂々と見せてくれる、というところまで書いた。そこまで書いたところで、いちど短歌を挟んだものだから、間が空いてしまった。冒険に寄り道はつきものなのである。
 下着というのは本当によいもので、もしも神様からある日、
「特別に透視能力を授けよう」
 といわれ、
「マジっすか! やったあ!」
 と喜び、
「よかったじゃんねー。そんなに喜んでもらえるとこっちも嬉しいよね」
「いや、こちらこそっすよ!」
 などと和やかに話したあと、神様が
「で、度合はどうする?」
 と訊ねてきて、
「へ? 度合? 度合といいますと?」
「透視の度合。下着が見えるレベル? それとも裸が見えるレベル? どっちにする? あ、別にそれ以上でもいいけど」
 と問われたら、そこから僕は
「…………」
 と黙考を開始し、きっと2ヶ月半くらい考え続け、最後、ガリガリに痩せて、ギラギラと目を血走らせた末に、絞り出すような声で、
「……下着でお願いします」
 と答えると思う。つまりそれくらい、下着は尊いのだ。
 裸よりも下着を尊ぶのは、現代のルッキズム的な概念にも適合する。ルッキズムってほら、持って生まれたものについてどうこういったらいけないってことなんでしょ。だから持って生まれたものじゃなくて、その人の選んだもの、作ったものなんかを、褒めたり言及したりするようにしようね、と。その考え方と、裸よりも下着のほうがいい、というのはぴったり合致する。どんな裸かはそこまで興味がないのだ(だいたい分かるから)。それより、どんな下着を着けているのか、のほうがよほど気になる。「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人か言い当ててみせよう」はブリア=サヴァランの遺した言葉だが、じゃあ僕は「箪笥の下着の段を見せてみたまえ。君がどんな人なのか言い当ててみせよう」をここに唱え、遺しておく。僕の冒険のあとに続く者たちのために。
 さて顔パンツの話である。これでは単なる下着の話になってしまう。下着とは自己表現である、ということをここまで書いてきたが、自己表現でありながら、下着というのは公開されない。裏アカウントとかでは公開されていたりもするが、一般的ではない。女の子同士では、インナーパーティーとかがあったりするのかもしれないが、インナーパーティーなんて言葉はいま初めて、自分の打ったキーによって画面に現出して目にしたし、もしも本当に存在したとしても、自分がそこに参加することはまずないだろう。
 残念だ。誰が残念って、みんながだ。僕は女の子の下着を見ることができずに残念。そして女の子は、自己表現としての下着を見せられなくて残念。せっかく今日はかわいい下着なのにな! nanonina!
 そんな下着が長らく抱えてきたディレンマの救世主こそが、そう。顔パンツなのだ。顔パンツによる自己表現。説明するまでもなく、顔パンツがその役割を持つということを、われわれはこの2年間でさんざん見てきた。
 そして顔パンツがインナーの代替としての自己表現であるならば、次の展開として、こんなことが起ってくるのではないか。
 下着と顔パンツを、同じ素材で作ってみたらどうか。
 この発想により、冒険は新たな章へと進む。
 冒険の舞台は、次に「nw」へと進む。なぜ「nw」か。まさか縫ったのか。
 つづく。

顔パンツを巡る冒険 6

 顔をプライベートゾーンと捉え、「プライベートゾーンなのにビキニで隠している場所よりもはるかに高い確率で晒しているところを見ることができる」ということに喜びが感じられるようになったら、その次に「プライベートゾーンを隠す布を尊ぶ」階梯へと進んでいくのは自然なことだろう。それはすなわちグラビアに対する尊びである。局部だけを隠す、水着なり、下着なりの、表面積の小さな、少しでもずらしたらすぐに性器が露見してしまうような布片のみを纏った姿の女の子を見て、われわれはとても満ち足りた気持ちになる。あのグラビアの心の作用を、当世みなが着けているマスクで得られれば、これほど効率のいいことはない。
 グラビアアイドルの水着は、少しでもずらせばすぐに性器が露見してしまうほどに小さく、ずれればいいなあと常に希いながら、われわれはその姿を眺めるが、しかし実際にはずれない。撮影現場ではもしかしたらずれているのかもしれないが、その姿は撮影されないし、ましてやわれわれの目に届いたりしない(届いたとしたらそれは流出であり、大問題になる)。でもそれでいい。グラビアというジャンルのある一方で、ヌードだったり、あるいはさらに進んだ、それこそ性行為中の姿を写したものもある。それらは直截的なエロさではグラビアよりもたしかに威力があるし、なにより忘れてはいけないのは、プライベートゾーンまでも隠さず晒してくれた女の子に感謝をしなければならないということだが、しかしながら残念なことに、そうやって大事な部分までをも公開した結果、隠しているグラビアよりもすべての要素で上をいっているかといえば、決してそんなことはない。乳首や性器には個性があり、それに対してわれわれの好みもまた、さまざまに分化している。だから、もちろんみんな誰かの愛しい女ではあるけれど、出さないほうがよかった、見せてくれないほうがむしろよかった、なんて残酷な感想もどうしたって出てくる。また、寄せて上げるとかの矯正下着というわけでなくても、本当に小さな、乳輪よりもひと回りだけしか大きくないような三角ビキニであっても、乳房の中心である乳首をその布が支え、そこから伸びた紐が背中で結ばれることによって、乳房全体を持ち上げる効果が生まれ、その結果として、おっぱいは裸のおっぱいよりも、ビキニのおっぱいのほうが、往々にして形がよく見える。そしてビキニのおっぱいは形がいいものだから、われわれはその下が見たいと希う。しかしその願いは叶わない。そして叶わないから無意味かといえば、上記の理由によりそんなことはない。叶わないからいい、という面もある。その下にプライベートゾーンを抱く布片は、忌々しい存在であると同時に、しかしそれがあるからわれわれは希望を抱いて今日もこの世を生きていけるという、感謝の対象でもある。下着や水着がなければ、われわれは女の子の体に希望を抱けない。それが隠し、支えてくれているから、われわれは甘美な気持ちになることができる。女の子が身に着けていなければ本当にただの布でしかないものが、着けた瞬間に価値を持つ。これは宗教にも似ている。本当に大事なのは実体のない教義そのものであるはずなのに、それではピンと来ないから、像を作ってそれを崇拝の対象にしてしまう。すなわち下着や水着を尊ぶことは、偶像崇拝なのだともいえる。
 翻って、マスクである。顔の下半分、鼻の穴や咥内が局部であり、それをマスクが覆うのだとすれば、マスクは下着としての条件を十分に満たしている。それでは女の子のショーツを尊ぶように、われわれはマスクのことも尊ぶべきだ。
 そして僕は今からとんでもないことを言う。心を落ち着けてから聞いてほしい。
 マスクは。
 マスクは顔パンツと称され、今や下着とまったく同じ役割を持っているのに、出ている。さらけ出されている。パンチラ、ブラチラと、一瞬垣間見えただけでわれわれを喜ばせる力を持っている下着が、当たり前のように公開されているのだ。
 いまコロナ禍において、そんなとてつもないことが起っているのだ。
 つづく。

顔パンツを巡る冒険 5

 水着にならないグラビア、というのがたまにあるだろう。堀北真希とかがやるやつ。ここで持ち出すのが堀北真希というのが、我ながらなんともいえないと思う。結局、それ以降の時代、そこまでグラビアそのものに強い関心を持っていなかったため(最近また再燃している気配もあるけれど)、時代がそこで止まってしまったのだ。そんなホマキを代表とする脱がないグラビア、キャミソールにショートパンツ、あるいはノースリーブのワンピースくらいの薄着で微笑んでいるだけの、そういうグラビアを目にして思うのは、こんな股間への刺激のないものに割かれた誌面がもったいない(他にいくらでもビキニになってくれる女の子がいただろうが)、ということと、それと同時に、これでビキニグラビアと同じレベルに欲情することができたら最強だろうな、ということだ。なにしろビキニの女の子は、プライベートゾーンを隠しているという意味では、普通の服と同じくらい健全であるはずなのに、実際は滅多にいない。普通のプールにはあんな小さい水着の女子はいないのだ。真夏の、ナイトプールとか、湘南の海とか、本当に限られた場所にだけいる(とされている)。それに対して、ホマキ程度の薄着の女の子は、世の中に普通にいる。だからそれで欲情することができれば、その人の世界はとてもハッピーなものになるに違いない。
 顔パンツにも、その可能性を感じる。顔は、これまで当たり前に晒すものとされてきたし、今後も、コロナの感染状況に関わらず、完全に秘匿するものとはならない。普通に考えて、女の子がそれを外したとき、すかさず欲情できるほどには、確固たるプライベートゾーンにはなり得ない。しかし前回の記事でもいったように、確固たるプライベートゾーンではないけれど、淡いプライベートゾーンに、顔は、この2年でなった。この淡さは、普段まとめ髪にしている女子が、プールの授業のあと髪を下ろしている姿であったり、あるいは夏休みにばったり会った女子が近所の気楽さからキャミソールにショートパンツという薄着姿であったりという、そういう淡さであると思う。
 つまりホマキの薄着グラビアで発情できる人間は、顔で発情することができる。顔で発情できるってすごくないか。だって芸能人はみんな顔を出している。その昔、マスク(とサングラス)は芸能人の象徴だったが、今はそれがすっかり逆転した。一般人がマスクを着け、芸能人はマスクを着けない(テレビに出ている間は)。じゃあ、それに発情することができたら最強だろうと思う。その人にとって、テレビはいつだってイメージビデオだ。バランスボールに乗ったり、なんか棒状の食べ物をいやらしく食むやつだ。夢のようだな。

顔パンツを巡る冒険 4

 水着は下着とまったく同じ面積しか覆わないのに、「水着だから」という理由でやり過ごされている、という話のテーマがある。もうそろそろ20年くらい、僕はこの手の話をしている。これに関して、「このことについてあまり言及すると、女の子にかかっている催眠術が解けてしまうから控えねばならない」という自戒があった。自戒があったわりに、さんざん言及してきたけれど。しかし最近になって、女の子だって水着の布の面積が頭おかしいことは分かっているけど、でも分かった上で、あえてあの恰好をしているのだ、女の子にもそういう欲求や願望があるのだ、と思うようになった。
 顔パンツについて考えようとしているとき、パンツ、すなわち下着ではなく、水着にまで話を広げると、論点がぼやけ、収拾がつかなくなるのではないかとも思ったが、やはりここは水着も含めて複合的に、プライベートゾーンの取り扱いについて考えていくべきだろう。そうなのだ、これは要するに、プライベートゾーンの話なのだ。これまで顔はプライベートゾーンではないとされてきたのが、新型コロナウイルスの流行によってマスクが一般化し、覆われるのが常態化したため、結果としてプライベートゾーンの雰囲気を帯び始めた。これによって下の口と上の口の近似性が再認識されることとなり、われわれはマスクを顔パンツとして捉えるに至った。
 そもそも顔パンツという言葉がどこで誕生し、生み出した本人がどういう意味合いでそう言ったのかは知らない。ともすれば「マスクは顔のパンツだから、社会生活では必ず着けましょうね」みたいな健全なメッセージだったのかもしれない。しかしパンツと呼んだ瞬間に、どうしたって脱ぐことについて思いを馳せずにはおれなくなる。だってパンツは、脱ぐものだから。脱いでもらえぬものかと、切に願うものだから。
 そしてここが顔パンツについて考えるときに最も重要な部分だと思うのだが、パンツは、ショーツは、水着は、脱いでもらえぬものかと切に願っても、大抵の場面では脱いでもらない。なぜならその下にあるのは、ガチガチのプライベートゾーンだからだ。プライベートゾーン中のプライベートゾーンとして、確固たる位置に君臨している。そのためその下を見せてくれるのは、特殊な職業の人か、あるいは自分と特殊な関係にある人だけだ。これは人口比で考えると、とてつもなく少ない。もっとも人口比で考えると、その下を見たいなんて思いをぜんぜん抱かない種類の人が、逆にとてつもなく多いので、「その下を見たいと思う人比」で考えたほうがいい。そして、それでもやはり、実際にその下を見せてくれる人は、とてつもなく少ないのだ(俺に透視能力があればなあ……)。それに対して顔パンツである。顔パンツは、その隠す部分がまだ、プライベートゾーン部に体験入部でやってきたくらいのレベルなので、とても気軽に脱着される。プライベートゾーンに片足を突っ込んでいるのに、もう片足の足ぐりはすでにショーツを脱いでいるのだといってもいい。もはやショーツは片方の腿にかろうじて引っ掛かっているだけで、ほとんど用を成していない。ここに我々の勝機がある。我々とは誰なのか。勝機とはなんの戦いの勝ち負けなのか。
  顔パンツを巡る冒険はまだまだつづく。

精事の話

 これまでずっと黙ってきたけど、僕は「マスターベーション」も「オナニー」も好きではないのだ。なんというか、ちょっと違和感があるというか、抵抗感がある。その場面になるたびに、果してこれで本当によかったのだろうか、もっとよくできたのではないか、という葛藤があり、すっきりできない。これまで長年そんな状態が続いていた。
 行為ではなく、言葉の話である。
 「マスターベーション」は、ラテン語で「手で汚す」、「オナニー」は旧約聖書の登場人物、オナンから、それぞれ来ているという。しかし語源なんてどうでもいいのだ。大事なのは、いま、現代日本においての、言葉のイメージである。
 僕は「マスターベーション」も「オナニー」も、女の子が使う言葉だと思う。
 いまどき言葉に関して、女が使う言葉、男が使うべきではない言葉、などという観点でものを言い出したので、度肝を抜かれているかもしれない。なんと前時代的なことを言うのだこいつは、と思っているかもしれない。思う人間は勝手に思えばいいと思います。ジェンダーレスで、ユニセックスで、ありとあらゆるものを男女で共有すればいい。最近ネットで下着を物色していたら、男女共用のショーツなどというものが売られていて、衝撃を受けた。ちんこはよ、と思った。男女不差別の志は(勝手にすれば)いいが、厳然たる事実として、男のその部分にはちんこがあるだろう。(極寒の時期以外は)まあまあの容積がある陰嚢があり、そして(頻々に)大きくなる陰茎があるではないか。それがいったいどうやって、女と共通のショーツになど収まるというのだ。収めようと思えば収まるかもしれないが、収めるなよ、主張していけよ、前に出ていけよ、と柄にもなく松岡修造みたいな熱いことを思ったのだった。
 セックスで果てる際、女の子は「イク!」と言うが、男がそれを言うのは気持ち悪い、ということを前に書いた。どのブログで書いたのかすっかり忘れ、検索しても出てこないのだが、じゃあ男はそのときなんと言葉を発するのが正解なのか、という問いに対して、僕はちょうど読んでいたエロ小説に書いてあった、「食らえー!」を推奨したのだけど、「マスターベーション」「オナニー」問題も、これと同じように解決策を探っていこうと思う。
 それらは女の子が使うべき言葉、という理由とはまったく別の、言葉にまとわりつく淫靡さ、下品さ、罪悪感などの理由から、近ごろ新たに提唱されている言葉として、「セルフプレジャー」というのがある。これに関してはもう、ノーコメントというか、いいとか悪いとかの範疇から逸脱していて、男が「ちんこ」あるいは「ちんぽ」、女の子が「おちんちん」であるのに対し、「ペニス」と言っているようなもので、それは対象を指し示す言葉では確かにあるけれど、しかし言った人、言われた人に、なんの感情ももたらさない言葉であり、そういう言葉が必要な場面ももちろんあるだろうが、しかし日常生活においてそんな言葉ばかりを使っていたら、暮しがつまらなくてノイローゼになってしまう。それよりは「マスターベーション」「オナニー」のほうがいい。ただしそれは繰り返しになるが、男がちんこのことを「おちんちん」と呼ぶ程度には気色悪さがある。なぜなら「マスターベーション」と「オナニー」は、「おちんちん」と同じく、少しかわいいからだ。少しかわいいから、女の子用の言葉なのだ。時代遅れと言わば言え。
 ちなみに(ほぼ)男専用の用語しては、既に「センズリ」であるとか、「マスをかく」などがある。しかし僕はこれらの言葉を使ったことがない。なんかあまりにも下品で、目を背けたくなるくらい使いたくない。言葉の女子っぽさを鋭敏に感じ取って忌避するわりに、男臭さが一定量を超えるとそれはそれで激しい拒絶反応が出る。可動範囲が狭いのだ。
 その僕がたゆたう、極狭の可動範囲に、いま現在ふさわしい言葉が存在しないので、新しく考える必要がある。新しく考えてやることで、僕の世界は彩りを増す。
 それでまず考えたのは、「射精」だ。射精という言葉は本当にいいな、ということを最近しみじみと思う。射精なんて「ペニス」を凌駕して「交尾」と同じくらい、どこまでもシステマチックな用語ではないか、と思われるかもしれないが、メタファーとしてのピストルを持つ男性の、本質的なやりたいこと、かなえたいことを、簡潔に表したすばらしい表現だと思う。しゃせい、という音もいい。その瞬間、俺のしたいことはなんだったろうと考えたとき、それは「マスターベーション」でも「オナニー」でもなく、もちろん「センズリ」でも「マスをかく」でもなく、うん、射精だな、と深く感じ入る。精で、射たいんだな、と。
 じゃあ「射精」で決まりなのか。決まりでもいい、とも思った。「射精」では、ひとりでしているのか、相手がいる状態でしているのか、単語だけでは区別ができないが、英語圏において、絵画も写真もpictureであるような感じで、そこは文脈で察しろよ、それに、ひとりだろうがふたりだろうが乱交だろうが、本質は「射精」なんだよ、と。
 とはいえ「マスターベーション」と「オナニー」を否定し、新しい表現を考えるとぶち上げた結果が「射精」では、正直言って拍子抜けだろう。ここはやはり、ちゃんと新しい表現を提案するべきだ。
 ということで考えたのが、「個精」です。こせい。ひとりでの射精だから個精。パートナーがいる場合、セックスはもちろん大事だが、しかしひとりでしたくなるときだってあるだろう。そういうときはためらいなくしたらいい。個精を大事に。ただし個精を偏重するあまり、ふたりでするとき、ひとりよがりな、すなわち個精的なセックスになってはいけないですね。うまいこと言うもんですね。
 併せて、ひとりでの行為が「個精」ならば、ふたり、あるいは何人でもいいが、とにかく他者が介在する行為での射精、こちらのことは、「多様精」でどうだろう。「さまざま」を意味する「多用精」、他者が用いる「他用精」も考えたが、やはり今のご時世、「個性」に対応するのは「多様性」であろうと思い、この字を選んだ。
 ジェンダーレス時代を真っ向から否定するような導入から、最終的には新しきパーソナリティとディバーシティの形の提案へと帰着するという、とてもよくできた話になった。ひとりひとりの個精を大事にし、多様精あふれる社会を実現したい。膣内で射精されたものが、あふれ出るわけではないが、一部排出される現象を、フローバックといいます。日本フローバック党でも立ち上げて、出馬しようかな。