渡りたい渡れない

 先日部屋のわりと大規模の模様替えを行ない、机周りがとても整ったのだが、それにあたって処遇に困ったのが、純粋理性批判(二次元ドリーム文庫)および社会契約論(美少女文庫)の群である。困ったというか、僕は別に困らないのだけど、こうして模様替えを行なうたびに、それの詰まったミニ本棚がファルマンの目について、「ちょっとそれはもうどうなんだ」ということを言及されるのだった。家に帰るまでが遠足であるように、ファルマンにエロ小説のことで苦言を呈されるまでが、正しい模様替えなのかもしれない。
 「どうなんだ」というのは、もうどちらもレーベルとして完全にオワコンではないのか、エロ小説文庫というジャンルの役割は既に終わったのではないか、という指摘ではもちろんなく、もう10歳、二次性徴間近の娘を持つ父親として、そこまで厳重に隠すというわけでもなくこういう本を保持しているのはいかがなものか、という意味である。
 それをいわれると、若干の心苦しさはある。しかしその一方で、娘たちが妙齢になるからこそ、父親は青春の、もとい本当にくだらない当て字になるが、性春の象徴であるこれらの本を、手離してはいけないのではないかと思う。これを手離してしまった瞬間に、いまの僕と、あの頃の僕は、陸続きではなくなる。つまりこれらの本は、橋なんだと思う。橋の名は勃起橋。ただいちど渡ればもう戻れぬ、振り向けばそこから思い出橋。勃起の先に、あの頃の僕がいる。
 最近、勃起の種類ということを考える。勃起とは海綿体が膨らんで起る生理現象だが、結果として現れるそれはどれも変わらないように見えて、実は、いかにして醸成されたものかによって、その中身はぜんぜん違ってくると思う。やはり血流ということで、液体として捉えると、カッと沸かした湯はすぐに冷め、じっくり長く火を入れたお湯はなかなか冷めないように、勃起もまた、弱火でゆっくり作り上げた勃起は、堅牢で濃厚であると思う。そして勃起における弱火とはなにかといえば、それは活字なのだ。画像や映像は、瞬間湯沸かし器のごとく勃起をもたらす。しかしそれは臓腑に降ればすぐに醒めてしまう。それに対して文字によって仕立てられた勃起は、いつまでも熾火のように熱を持ち続ける。僕はエロ小説の、そこが好きだ。そこに価値があると思う。
 だからやっぱり手離すことはできない。たぶんもう増えることはないのだけれど(そこに一抹の寂しさを覚える)、かつて5倍をはるかに超える量があったところから、それこそ弱火で長い時間をかけ、凝縮された結果いまの量となったこの結晶のような数十冊を、僕はやはり常に目の届く場所に置いておきたいと思う。