(ちん)この世の中


んこに関する本を読んでいて、矢じりのような、雁首のあの形は、他のオスの精子を掻き出すためのものであるという記述が出てきて、それはもちろん読む前から知識として知っていたのだけど、今回その情報に接して、じゃあやっぱりちんこは大きいほうがいいんじゃないか、ということを思った。
 たとえば12センチのちんこと、15センチのちんこがあったとして、どちらも膣内射精をしたとして、精子そのものは発射のときの飛距離もあるから、ちんこの物理的な3センチの差はそれほど問題にならない。またたとえ思うように飛ばなくても、精子は自分で進むし、膣には精子を汲み上げる仕組みがあるので、よくある悩み相談の答え風に言うなら、「短小でも問題ない」のである。たしかにそこに12センチと15センチの差はあまりない。しかし精子同士の取っ組み合いの喧嘩になる以前に、子どもの喧嘩に親が出るみたいなもので、精子の母艦であるちんこの雁首が、敵の精子を掻き出してしまうシステムがあるのだとすれば、それはやっぱり12センチよりも15センチのほうがはるかに有利だということになるではないか。だって12センチのちんこから発射された精子を15センチのちんこは掻き出せるけれど、逆はできない。これはものすごいハンデだと思う。精子戦争という言葉があるが、軍事力の差は精子以前、ちんこの段階から歴然として存在するのだ。
 だからやっぱり、ちんこは大きいほうがいい。これはもうどうしたってそうなんじゃないか。女性はよく、男ってなんでそんなに大きさにこだわるのかしら、なんてことを言うけれど、大きければ大きいほど他の男の精子を掻き出せるのだから、ちんこが大きくあってほしいと願うのは、男性の本能的な欲求なのだ。でもだとしたら、女性にとってもまた、大きいちんこは魅力的でなければ理屈にならない気もする。なぜなら大きいちんこの男の遺伝子は、大きいちんこの息子を生む可能性が高く、そして大きいちんこの息子はやがて、他の男たちの精子を掻き出し、多くの遺伝子を残す確率が高いからだ。それだのに、現実には女の子はそんなことを言わない。大きさにこだわる男たちを嘲笑し、「大事なのは硬さ」などと言う。ここだ。ここに、世の中の男女の問題をあらかた解くヒントが隠されているのではないか。
 男は本能的に大きいちんこを追い求め、女の子も本能的にはそうであるべきなのだとしたら、男のちんこはランナウェイ説で考えて、代を経るごとにどんどん拡張していなければおかしい。大きいちんこ合戦を繰り返した結果、未来人のちんこは、脚の長さを超えて、ちんこを杖のようにして歩くようになっているべきだ。未来人とは誰か。古代人にとっての我々である。しかし我々のちんこはそんなことにはなっていない。古代人と較べてどうなのかは知らない。古代人はそもそも栄養事情の悪さから体格が現代人よりも小さかったろうし、なによりここまで何度も唱えている「ちんこの大きさ」とは、もちろん勃起した状態のそれのことであり、現代人のそれの平均も出せないのに、古代人のそれの数値が出せるはずもない(文明以降は絵画や立体造形で表現されているが、創作の中で描かれるそれのサイズが往々にして実体に忠実でないことは言うまでもない)。どちらにせよ、ヒトの男のちんこが歯止めなく大きくなる方向へ進化しているという話は聞いたことがないし、ちんこを杖のようにして歩いている人も見たことがない。
 この理由は、ちんこはちんこだけで成立するものではなく、女の子の膣に入れて使うものだからであり、こういう話題になるとすぐに道鏡が思い浮かぶけれど、ちんこがあんまりにも大きいと、それを受け入れられる膣がない、という困った事態になる。あと先日「夫のちんぽが入らない」を読んだけれど、あれは、夫は巨根だという描写があったものの、互いに別の相手とはセックスができているので、原因はなんだか精神的なもののように思えた。よく知らないけれど。
 それでここからが僕の提唱する仮設なのだけど、女の子側もまた、ちんこの大きい息子を産むために、子作りのパートナーにちんこの大きい相手を選んでいたら、途端にランナウェイが始まってしまい、そうなると女性も膣の形を変えていかねばならず、いろいろ問題が出てくる。そこでその流れを抑制させるために、女の子は男よりもよりエロくできていて、だから男が本能に対して従順(アホ)に大きさを求めるのに対して、女の子は「それよりも大事なのは硬さ」なんてことを言うのではないだろうか。だって硬さは生物の本能とはぜんぜん関係ない。快楽方面にしか作用しない。でもそっちのほうが大事だと女の子は言う。エロエロではないか。頭の中が真っピンクではないか。知っていたけど。女の子って本当に助平なのだ。でもその女の子の助平のおかげで、当世の我々は、ちんこを第三の脚にせずに済んでいる。この世の中は、そんな世の中なのではないかと思う。

35歳まで


日35歳の誕生日を迎えて、その前後2日間くらいの、「俺の誕生日祝い期間中」にはぜんぜん思い出さなかったのだけど、そう言えば35歳と言ったらあれじゃないか。
 ちんこは35歳まで大きくなり続ける。
 いつどこで誰から聞いたのか、もうほとんど忘れてしまったが、たぶん一生にいちどしか誰かがそう言っているのを聞いたことがないその情報は、僕という人間の、心の床の間の掛け軸に達筆で記され、ずっと飾られ続けていたのだった。35歳とは、実は僕にとってそんなにも大事な年齢だったのだ。
 もちろん信憑性なんかない。根拠もない。出典も不明だ。ここまで書いて、念のためネットで検索をしてみた。「男性器 成長 何歳まで」で検索をかけて、出てきたそれらしいタイトルのページを開いたら、結局は「ペニスはいつからでも大きくできる! このサプリメントさえあれば」みたいな広告のブログで、これはしばらく僕のパソコンのネットの広告欄が荒ぶりそうだな、と思った。
 そんな広告ブログの、広告に行きつくまでの部分の情報によれば(これまたずいぶん信憑性がない)、「20歳くらいまで」というのが一般的な捉え方らしい(「でもこのサプリメントを飲めば!」と続くわけだけど)。個人差はあるが、二次性徴とか、身長の伸びとか、ペニスももちろんそういうのと連動するので、それらが止まればペニスの成長も止まるのは自明の理、ということらしい。そう言われるとたしかにそうだ。体の発育が止まっているのに、そのあともちんこだけ成長していくはずがない。どんな理屈だ、という話だ(サプリメントを飲むとかは別として)。
 だけど僕はたしかに聞いたんだ。誰かの口から。「ちんこは35歳まで」って。それこそ二次性徴の乍中くらい、高校生くらいのときに。そして高校時代に聞いたということは、この言葉を僕に伝えた相手は、偏差値のとても低い男子校の同級生である可能性が高くなり、その可能性が高くなると同時に、反比例で話の信憑性はどんどん低下してゆくのだった。
 でも考えてみたらおかしな話ではないか。二次性徴のすっかり終わった20代後半くらいでこの話をしたというのなら、35歳までというその年齢に希望が湧いて、この話は「前向きな気持ちになれる話」というカテゴリに入れることができるが、16歳くらいでこの話をされた場合、果たしてどのような気持ちになるのが正しかったのか。16歳にとって35歳はあまりに遠く、そこまでちんこが大きくなり続けると言われても、想像が追いつかなかったろうと思う。その結果、僕のように、これまで特に感情を刺激されることもなく、ただ来たるべきいつかの日のために、書にして、表装をして、心の床の間に掲げ続ける以外にやりようがなかった。こうして考えると、人生の半分以上の年月、僕はこの偏差値の低い、信憑性のない話を、とても大事に守り続けてきたのだな、と感慨が湧く。
 とにもかくにも、かくして僕はとうとう、くだんの35歳になったのである。僕の世界では、このときまで、ちんこは日々、二次性徴以降も大きくなり続けていたということになる。
 実際どうか。
 35歳になったので、いよいよ満を持して、その掛け軸の内容の真偽を質すことができる。
 どうなのか。
 どうだと言うのか。
 そんなの分かるはずないのである。
 だって16歳のときのちんこ、20歳のときのちんこ、25歳のときのちんこ、25歳のときのちんこを、記録もしていなければ記憶もしていない。較べようがないのである。タイムマシンに乗って、それぞれの年代の僕を一堂に会して勃起をさせてみせたら一目瞭然なのだが、でもそんなイレギュラーな状況だと、「純然たる平常な勃起」から逸脱してしまって、やっぱり問題が出てくる。「男性のペニスの平均サイズ」は算出できないというのと一緒で、ちんこの大きさというのは、いつだってスルスルと我々の手をすり抜けていき、実体を掴ませない。だからおもしろい、とも言える。記録を取っておけばよかった、1年に1回、ちん拓でもしていればよかった、とも思うが、そんな風に過去の自分たちのちんこの姿を並べてしまうのなんて、野暮かもしれない。16歳のときには16歳のちんこが、25歳のときには25歳のちんこが、そして35歳のときには35歳のちんこが、いつだっていちばん大きく、愛しく、誇らしい。それでいいんじゃないかと思う。
 35歳までちんこが大きくなり続けるのかどうかは藪の中だが、ちんこに対しての器は、なるほど今がいちばん大きいんじゃないかと思う。大器晩成。高校時代からの長い長い前フリを経て、これはこうまとまる話だったのか。壮大だな。

パンツ!


たずら電話のベタなやつで、「パンツ何色?」という問いかけがあるけれど、この年になって、これはなかなかに含蓄のある言葉なのではないかと思うようになった。
 たとえば性欲がどうしようもなく溜まっていて、女性に対してなんかしらのアクションを起したい、女性からどうにかして「女性性」を享受したい、あわよくばその女性性をおかずにして自慰へと突き進みたい、そのように考え、ランダムでかけた番号の電話先に、めでたく妙齢の声質の女性が出たとする。このとき、じゃあ逆に、「パンツ何色?」以外のどんな質問が考えられるというのか。
 僕はいま必死に頭を働かせて考えたけれど、なにもいいものが浮かばない。

 「セックスは好きですか?」
 「経験人数は何人ですか?」
 「いちばんの性感帯はどこですか?」
 「初めてのセックスはいつ? どこでですか?」
 「最近セックスをしたのはいつですか?」
 「好きな体位はなんですか?」
 「ちんこについてどう思いますか?」
 「男性のどこにグッと来ますか?」
 「Sですか? Mですか?」
 「何カップですか?」
 「恋人はいるんですか?」

 また僕が特に、女性を巧みに口説くような、合コン的レトリックを持ち合わせていないということもあり、本当にさっぱりだ。最後のほうなんてただのバスガイドに発情する男子校生である。経験豊富で軽妙にいなしてくれるガイドさんならいいが、まだ日が浅くて本当にムッとしたりする子だと、バスの中の空気が悪くなって、そのあと教師からこっぴどく怒られたりする。そのレベルである。
 それらに較べて、「パンツ何色?」の切れ味と来たらどうだ。電話という、ビジュアル抜きのツールであればこそ、「パンツ何色?」の効果は増大する。だって顔も見えない女の裸なんて、結局どれも似たり寄ったりだ。おっぱいがあって、おっぱいの中心には乳首があって、足の付け根の中央には陰毛が生えていて、その奥には女性器がある。同じなのである。細かい差異は、実際に目にしない限り伝わらない。だからそこを追求したところで、電話の向こうにいる女の生々しさはぜんぜん立ち上って来ないのだ。それに対して「パンツ何色?」は、一気に立ち上ってくる。

 「白地に青のギンガムチェック」
 「ピンク地にライトグリーンのドット」
 「レモンイエロー地に薄むらさきの細いストライプ」
 「穿いてません」
 「淡い橙色を基調にした花柄」
 「水色に白の縁レース」
 「グレーにマイメロディのバックプリント」
 「穿いてません」
 「紺色地に白と赤の小花柄」
 「黒」
 「穿いてません」
 「白地に細かい黒ドットで、中央に赤いリボン」
 「穿いてません」
 「穿いてません」

 この調査を通してとても意外だったのは、女の子はけっこう自宅ではパンツを穿かずに過しているという事実である。あとみんなすごくちゃんと答えてくれることだ。