2次元ドリーム文庫寂寞

 2次元ドリーム文庫が、どうも終わったっぽい。
 どうも終わったっぽいからそのことについて一文書こうと思い、いまこれを書くにあたり改めて公式ホームページを見たら、6月の新刊が1点だけアップされていたため、ちょっと微妙な感じになってしまったのだが、これの前の刊行が去年の11月で、そしてそのどちらもが竹内けんによるハーレムシリーズなので、やはりもう機能的には終わっていると言って差し支えないだろう。さらによく見れば、2021年からだいぶ刊行は不定期になっていた。僕自身、ホームページを見るのがとても不定期になっていたため、これまで気付けずにいた。
 寂しい。
 輝いていた時代を知っている物の落ちぶれてしまった姿を見るのは寂しい。
 二次元ドリーム文庫には、確かに輝いていた時代があった。具体的にいつ頃かと問われたときのことを考え、刊行記録を確認したところ、ざっと2007年から2011年あたりだ。だいぶ前だな。それはお前が20代半ばから後半で、さらには書店員だったから、必然的に2次元ドリーム文庫との距離が近かっただけの話ではないか、とも言われそうだが(僕は先ほどからどんな仮想敵とこの対話をしているのだろう)、決してそんなことはない。
 2004年に刊行が始まった2次元ドリーム文庫は、当初は同社の二次元ドリームノベルスとの差別化ができておらず、戦う女主人公が悪い男たちや触手などにエロエロ蹂躙される、みたいな話が多かった。「二次元ドリーム」というワードからすれば、なるほど触手の世界観こそがそれにふさわしいように思える。しかし文庫はやがてノベルスとは袂を分かち、現実的な世界における二次元ドリームエロという切り口を確立する。冴えない男主人公が、とあるきっかけによっていきなり複数の女の子に猛烈にモテまくるようになるというパターンである。たしかにそれも、触手が出てくるような世界と同じくらい、二次元でドリームな世界であろう。2006年あたりからその方向性にしっかり舵が切られ、そして2007年からの黄金時代に突入する。この時代の特徴は、なんといってもハーレム率の高さである。ここにはやはり初期(2005年)から続く竹内けんによるハーレムシリーズの存在があるのだろうと思う。もはや瀕死状態なのやもしれないレーベルにおいて、それでもなおそれだけが刊行されているという事実が指し示すように、ハーレムシリーズはこのレーベルを貫く棒のような存在だ。二次元ドリーム文庫と言えばハーレム。ハーレムと言えば二次元ドリーム文庫。それくらいその比率は高い。ライバルレーベルであろう美少女文庫がわりと純愛(エロ創作においてこれはひとりの女の子としかエロいことをしないことを指し、世間一般の純愛という熟語のイメージとは微妙に異なる)ものを出すのに対し、そのスタンスは明らかだった。ハーレムのなにがいいって、女の子が複数いることによるプレイのバリエーションや迫力というのは当然として、なにより主人公のモテ方、快楽に奥行きが出る。一見、ひとりの女の子とじっくりいろいろなプレイをしたほうが深掘りができて奥行きが出るように思えるが、実はそうではなく、それは平面的に広がっているだけで、さまざまな女の子と多層的に行為に及ぶことによって初めて、そこには立体感が出てくる。竹内けんはハーレムシリーズにおいて、連結した世界観の中で多様なシチュエーションを仕立て上げるが、なぜそんなに設定に凝るのかという問いに対し、「エロのやることは、結局いつも一緒だから」というような答えをした。もううろ覚えだけど。やることは一緒だから、シチュエーションを工夫して変えるのだと。つまりそういうことなのだ。真面目生徒会長と、不良っぽいギャルと、運動部幼なじみと、いたいけ後輩とエロをするから、重なって厚みが出る。我々はその厚みに、安心して身を委ねることができる。冠に「二次元」を掲げておきながら、二次元ドリーム文庫はどこよりも強く立体感にこだわっていたのだった。しかしその志はだんだん綻び始める。時代の趨勢か、純愛ものがじわじわと増えていき、さらには百合だの異世界だのと、流行りものが侵食し始める。そんなのは、ぜんぜんいらなかった。竹内けんのことをだいぶ賛美したが、実を言えば僕はハーレムシリーズの熱心な読者ではなかった。ファンタジー世界は苦手なのだ。エロのバリエーションは、いろんな学園の、いろんな部活動という、そのくらいでいいと僕は思っている。奇矯な設定はいらないのだ。その綻びはやがて亀裂となり、そしてとうとう瓦解が起った。骨組みだけは残っていて、柱、すなわちレーベルを貫く棒であるハーレムシリーズだけは続く。しかし建屋はもうない。
 寂しい。