除夜の鐘 2023

 2023年が終わる。
 終わるにあたり、プールに行った回数とともに去年の途中から集計を取るようになった射精の回数も、1年間の合計を出した。出した結果がミラクルだった。
 108回だったのだ。
 折しも108という数字を意識しやすい年末である。煩悩の数だけ撞くと言われる除夜の鐘。僕はこの1年間で、ちょうどその回数分だけ射精をしたのだった。射精をした直後の清々しさのことを思えば、なるほど射精と除夜の鐘は同一の機能を持つのかもしれない。
 以前からプールに行った回数に関しては記述をしていたが、射精回数に関しては明確な数字を記すのを控えていた。あくまで射精の回数であり、セックスの回数ではないので、ファルマンを巻き込むことになるから自重していたということではなく、自主的な羞恥により隠してきた。そのスタンスを変えるつもりはまったく持っていなかったが、しかし今回は数字が数字だったので、こうして発表するほかなくなった。
 ちなみに発表を前に、40歳での年間108回というのが、多いのか少ないのか、いちおう確認しておくことにした。「年間射精回数」で検索したところ、もっとこう、「俺の今年の年間射精回数は〇回だったぜ」みたいな、気さくな記述がざくざく出てきてほしかったのに、そういうものにはついぞたどり着けず、日本人のセックスレス問題や、射精回数が多い人のほうが前立腺癌になりにくい、みたいなページばかりが表示され、役に立たなかった。その中でひとつだけ参考になったものとして、とある泌尿器科の医者が書いていたブログ内で、「射精の頻度を割り出す9の法則」というものが紹介されていた。それによると、年齢の十の位に9を掛け、20代ならば18、30代ならば27、40代ならば36となり、それぞれ10日に8回(年間292回)、20日に7回(同128回)、30日に6回(同73回)という計算になるらしい。なんとなくそれっぽい数字だな、と思う。とすれば、40代と言っても僕は9月までは30代であったし、なんかまあ順当なところなのかな、と思った。まあ別に回数の数字が大きければ大きいほどつええ奴、ということでもないし、そこまで拘るものでもなかろう(とは言え発表前に確認をしておく必要はどうしたってあった)。
 最終的にそんな数字になるとは夢にも思っていなかったから、意識せずに日々の射精をしていたけれど、僕は1年間を通して、除夜の鐘を鳴らしていたのだった。108回。満足のいく撞きになったときもあれば、失敗したときもあった。そのひとつひとつが煩悩との闘いであったと考えると、この1年間の自分のその行為が、丸ごと愛しいものに思えてくる。
 寺社にある、釣鐘を撞くためのあの棒は、橦木(しゅもく)と呼ぶらしい。傘も刀もピストルも、ありとあらゆるものが陰茎のメタファーであるならば、あれなんかはもはやメタファーでさえなく陰茎そのものだと言えそうだ。昔行ったかなまら祭りの風景なんかも、自ずと甦ってくる。僕はこの1年で108回、堅牢なる橦木で鐘を撞いた。
 僕の造語でシャノマトペと言われる、射精の際に放たれる擬音(擬態)語。それはこれまで「ドピュピュピュ」であるとか「ビュービュビュー」であるとか、だいたいそのような文字列であったが、これからは僕の橦木が打ち鳴らす音として、「ゴーーーン」こそがふさわしいのだと喝破した。大みそかの夜、どこからかその重厚たる音色が聴こえてきたらば、それは僕の射精の響きであると思ってほしい。そしてそれは、思うだけでいいのだ。なぜなら「ゴーーーン」は、もう過ぎ去ってしまったもの(gone)だからだ。陰嚢から放出された、失ったものではなく、その次のことにこそ思いを馳せてほしい。
 そんな見事な結末を迎えた、今年の僕の射精ライフなのだけど、プールの年間最終開館日の夜に、一緒に集計を行なったので、この数字が判明したのは12月29日なのであった。そのため話をこのままきれいに終わらせるには、今年はもう1回も射精をしてはならないということになってしまい、そもそもその時点で、前回の射精からほどほどの日数を経ていたので、なんか少しやるせない感じになった。もう1回すれば109、そこからさらにもう1回すれば110ということになり、それぞれの数字でうまいこと言えないものかとも模索したが、やはり煩悩の数に勝るものはないという結論に至った。でももう大みそかも夕方なので、それは無事に成りそうである。
 来年はきちんと40代として過す1年間になるからこそ、108という数字に拘ることなく、今年以上の数字を目指し、スタートダッシュを決めたいと思っている。
 よいお年を。

「金玉肉袋の寛ぎ」を読んで 8年H組 purope★papiro


 鼻炎薬を服むと金玉肉袋が寛ぐ。
 とかく気が滅入る体調不良の中で、その発見にどれほど魂が救われたか知れない。金玉肉袋が寛ぐと、勃起とはまた違う種類の、生きる希望が滾るのだった。
 体調が回復して、鼻炎薬の効果が切れれば、金玉肉袋はいつもの状態に戻った。体そのものは元気になったのだから、良しとするべきなのだろうが、金玉肉袋に関してだけは、幽かな喪失感を抱くこととなった。
 鼻炎薬を服むことで金玉肉袋が寛ぐのは、要するに血流であろう。血流が良くなり、体温が上がることで、免疫力が上がり、鼻炎は鎮静化し、そして金玉肉袋は寛ぐ。寛ぐというのは客観的な感想で(僕が僕の金玉肉袋に対して完全な客観性を持つことは不可能だが)、精巣擁する金玉肉袋は、突然の体温の上昇に際して、熱を逃すために表面積を増やしているのだろう。そのためピンチと言えばピンチだが、ピンチは同時にチャンスでもあり、嵐を前にして的確な指示で帆を張ってみせる航海士のように、その姿はどこか誇らしげでもある。
 であるならば、金玉肉袋を肥大化させるためにいつも鼻炎薬を服むわけにはいかないが、生活の中で血流を良くすることを心がければ、金玉肉袋というものは、これまでの暮しの頃よりも、寛いだ表情を見せてくれる場面が増えるのではないかと考えた。
 そこでインターネットで血流を良くする方法を検索したところ、ハイカカオチョコレートがいいという情報を得て、それ以来1日20gほど、カカオ分85%だというチョコレートを食べる習慣を始めた。すべては金玉肉袋を寛がせるためである。
 そしてこのたび、それを開始して10日ほどが経過したので、その結果について報告をしたい。
 ハイカカオチョコレートを摂取することで、本当に金玉肉袋は寛ぐのか否か。
 答えはYESである。
 ただし鼻炎薬ほどの強烈な現象ではない。しかしそれはそうだと思う。あれはやはり医薬品の、イレギュラーな刺激に対する反応であろう。常時あのような態勢でいたら、たぶん健康に良くない。
 それに対してハイカカオチョコレートを食べるようになってからの金玉肉袋は、健康的である。だらんと弛緩するのではなく、しかしこれまでのように萎んで固い感じとも明らかに違う。なんと言うか、ぷりぷりしている。触り、揉むと分かる。ぷりぷりしている。
 ぷりぷり! 怒っているのではない。肉体の描写にこの表現を使われ、悪い気のする人間はそうそういないと思う。おじさんが、若い女の子とかに使うと、もしかすると嫌がられるかもしれない。それこそぷりぷり怒るかもしれない。でもそんなおじさんの金玉肉袋を触ったら、若い女の子もこう言わざるを得ない。やけにぷりぷりしてる!
 滝口悠生の「死んでいない者」という小説に、幼児の男の子の性器を、金魚の心臓のよう、と喩える場面があり、その比喩はやけに心に刺さり、健やかな少年の性器というものは、なるほど金魚の心臓のような、自然の摂理というか、生命そのものというか、好もしさが漲ったものだな、ということを思ったが、ハイカカオチョコレートを摂取することでぷりぷりし出した僕の金玉肉袋は、かつては僕も実際にそうであったはずの、往時のその姿を彷彿とさせているのではないかと思った。
 血流を良くするのと同義なのかもしれないが、ハイカカオチョコレートの効能のひとつに、ポリフェノールによるアンチエイジング効果、というものがある。つまり僕はハイカカオチョコレートを食べたことにより、金玉肉袋を若返らせることに成功したのかもしれない。そして今のところ金玉肉袋にしかその効果は見出せない。これは金玉肉袋が、人体におけるカナリヤ的な、なにか異変があったときに真っ先に反応するという特性を持っているからなのか、あるいは、筋トレをするときはそのトレーニングで効果を得たい部位を意識しながらやると効果的というのと一緒で、僕が金玉肉袋のことだけを一心に考えていつもチョコレートを食べるものだから、素直にその効果がそこに注がれているのか、定かではない。どちらにせよ、求めていた結果は得られたので万々歳だ。
 願えば叶う。やればできる。不可能なんてない。僕は金玉肉袋を通して、そのことを学んだ。もうこれまでの僕とは違う。だって僕の金玉肉袋は、ぷりぷりしているのだから。

俺とツタンカーメン


 ポルガが相変わらずツタンカーメンに傾倒している。1年以上前から古代エジプト王朝への情熱はあって、それで去年あのTシャツを作ったわけだが、あれからますますその度合いは強まっているように思う。それにしてもあのTシャツは本当によく着た。同時に作ったピイガも同じくだが、たぶん365日でそれぞれ90日くらいはあのTシャツだったんじゃないかと思う。娘たちは、見たらいつもあのTシャツを着ていた。
 そんなポルガがつい先日、「ツタンカーメンのお墓から、パンツが150枚発見された」という情報を開陳してきたので、パ、パンツが150枚!? と衝撃を受けた。この衝撃は、大抵の人においては、そんなにたくさん!? というものだろうが、僕の場合は違う。おなじだ! である。パンツ150枚。最近はもうきちんとナンバリングしていないので、何枚になったのか不明瞭なのだけど、たぶんそのくらいではないかと思う。既製品を足したらもっと多くなるが、とりあえずハンドメイドショーツだけで考えれば、僕とツタンカーメンは同じくらいの数のパンツを所持していたということになる。
 なんだか一気に親近感が湧いた。
 ただしツタンカーメンが特別なインナー好きであったという証拠は残されていないようで、おそらく体の弱かった彼のために、清潔を保つ目的で数多く用意されたのだろう、という推測が立てられているらしい。本当だろうか。清潔を保つことだけが目的で、それほどの数になるだろうか。推測を立てた研究者は、まず間違いなくパンツを150枚持っていないだろう。それではパンツを150枚保持する人間の気持ちが分かるはずがない。僕は分かる。ツタンカーメンは、インナーに対して特別な偏愛があったのだ。分かる。分かるよ、トゥトアンクアメン(正確な表記)。インナーは愉しい。そしてインナーのなにが愉しいのかと言えば、インナーのすぐ下には性器があるという点だと思う(いまツタンカーメンが大きく頷いている姿が見えた)。つまりインナーっていうのは、性器のための演出道具なのですね。
 だから僕はさまざまな形、さまざまな素材、さまざまな柄でショーツを作る。それに包まれ、それからまろび出されるちんこを愉しむために。そして気付けば150枚になっていた。しかしツタンカーメンの時代には、残念ながらそういったバリエーションは望めなかったらしい。もちろん王族なので上等な生地であったそうだが、物自体は画一的であった。では、画一的ならば150枚あってもしょうがないのではないか、という気がしてくるが、ところがどっこい、ここからが約3300年の時を超え、150枚ショーツ同盟を組む同志である僕にしかできない推察である。静粛に。心して聞いてほしい。
 同じ生地、同じ形で作られた150枚のショーツ、作ったのはすべて違う女。
 どうだ。これだろ。間違いないだろ。そういうことだろ。そういうことなんだろ、トゥトアンクアメン(正確な表記)。謎は全て解けた。なぜツタンカーメンの墓には150枚ものパンツがあったか。人類最大の謎と一部で囁かれていたこのミステリは、ひとりのハンドメイドが趣味のブロガーによってこうして鮮やかに解明されたのだった。
 ついでにツタンカーメンのページをちらほらと眺めたら、ツタンカーメンは死後、冥界の神オシリスに似せようと細工をされた形跡があり、すぐに崩れてしまったので証拠は残っていないが、男性器は垂直におっ立てられていたという。オシリスは死と再生を象徴する神だというが、男性器を勃起させつつ、どうしたって日本人にとっては尻を連想せざるを得ないオシリス神の象徴などと言われても、なんかもう下ネタ過ぎるだろ、という気しか起こらない。もしかするとツタンカーメンは、僕の人生の目標である、なんかしらの性に関連する事柄の象徴となって奉られたい、という願いもまた、共有していたのかもしれない。
 そんなツタンカーメンとの縁を感じた出来事だった。ちなみにツタンカーメンの身長は167センチだったそうで、ここまで来るともうちょっと怖い。同志どころか、もしかすると僕はツタンカーメンの生まれ変わりなのだろうか。そう考えれば、実の娘が異様にツタンカーメンに耽溺するのも、なんかしらの第六感によるものかもしれないと思えてくる。

ハーレムという選択

 ハーレム的な一夫多妻生活を行なっていた男が逮捕され、ニュースになっていた。
 74歳、元占い師(という謎の肩書)。逮捕されたのは初めてではないそうだが、今回の罪状は、10代の少女にUFOの映像を見せて洗脳し、乱暴をしようとしたことだという。
 74歳。10代少女。乱暴。
 すげえな、と思う。
 すげえな、と思うと同時に、この男以外の女性には顔にモザイクがかけられた、一夫多妻生活のさまを撮った映像を目にし、普通に「気持ち悪い……」という感想も抱いた。我ながら、それは意外といえば意外だった。あれほど希うハーレムの、実際の風景だというのに、そこに羨望のような気持ちはまるで湧いてこないのだった。
 しかし思えば僕は、エロ小説などのハーレムものでも、集団において主人公ひとりがひたすらモテ、女の子がちんこの争奪戦を繰り広げる、という段階はとても好きで、物語がそのままなんの、本当になんの発展性もなくダラダラと続き、そして、「この夢のような愛欲生活は当分終わりそうにない……」みたいな、締まっているのか締まっていないのかよく判らない締めで、話が閉じられるともなく閉じられるのならば万々歳なのだけど、稀に、いやあまり稀でもなく、ハーレムに所属する女の子が、ほぼ同時にみんな妊娠する、という種類の終末が描かれることがある。もちろんそれは最高のハッピーエンドとしてだ。しかしあれが僕はとても苦手で、その結末が待っているのだと分かってしまった時点で、それまでの妊娠前のハーレム風景にも影が落ちてしまう。それはなぜかと言えば、やっぱり妊娠は、現実的な、人生的な、さまざまな問題を孕むからだ(妊娠なだけに)。もっとも僕はなにも妊娠をネガティブなことと言っているわけではない。僕との行為を経てファルマンは妊娠し、娘をふたり産んだ。これはとてもすばらしいことだ。すばらしくて、大事で、そして大きな責任を伴う出来事だ。そのことが実感としてあるがゆえに、ハーレム孕ませはもちろんのこと、純愛ものであったとて、エロ小説の最後に妊娠を持ってこられると、困る。もっと直截に言うと、萎える。そういうのは発生しない条件下での桃色遊戯だと思っていたのに、と思う。
 ここまで書いていて思ったが、もしかするとこの強い感情は、父が母以外の女性を妊娠させたことで家庭が崩壊したという来歴も影響しているのかもしれない。たぶんそんなに影響していないだろうけど、こんな自分の人生を切り売りするようなことを文章中に織り交ぜると、話の内容に深みが生まれるのではないかと思って実行した次第である。
 えっと、それでなんの話だったっけ、そうだ、現実の74歳元占い師のハーレムの話だ。記事によると、ハーレムのメンバーは妻および元妻が9人、そして子どもが男女合わせて3人だそう。思ったより子どもが少ないことをこの段階で知り、この話の根幹は揺らぎかけている。妻たちは、働いてお金を稼いでくるグループと、家のことをするグループに分かれていたそうで、どうも思ったより統制の取れた、理に適った共同体だったのかもしれないと感じ始めた。ボスである男に対してとりあえず慕う心があり、ひとりで生きるより集団で生きたほうがマシかなと思ったのなら、こういう選択もそこまで箍の外れた行為ではないのかもしれない。「独り」か「核家族」かの二択は、言われてみれば少し乱暴なところがあるし、年を取ればケアハウスや老人ホームで結果的に似たような形式の暮しをすることになる。
 ハーレムの、あっけらかんと性快楽を謳歌したいだけなのに、妊娠や共同生活によって責任が生じること、そして責任とハーレムセックスというふたつの言葉の相性の悪さから来る歪みによって気持ち悪さを覚えること、だからハーレムセックスというのは、モテモテの男子高校生あたりが学園の女子相手と好き放題にやりまくる(もちろん妊娠はしない)、というのがいちばん理想的な形だ、一緒に暮らそうとしてはいけない、ということを今回の記事では綴ろうと思っていたのだが、本当に見事なまでに揺らいだ。逮捕の理由は本当にひどく、揺らいで着地した地面がまた揺らぐのだが、そんなことさえなければ、以前の乱交パーティーと一緒で、誰に迷惑をかけたということもなく、それを求め、それに救われる人もいるのだ、という事案なのかもしれない、これは。
 どちらにせよ、もう少しじっくり考える必要がありそうだ。

ショーツの理由

 150枚くらい作っておいて何だが、ショーツ作りの動機がいまだ自分の中で定まっていない。「顔パンツ」という言葉に触発されて、布マスクを作るように真正パンツも作ってみよう、で作り始めたわけだが、その動機ならせいぜい5枚くらい作れば気が済んで話はおしまいだろう。しかし実際にはそのあともずっと作り続け、そろそろ1周年になんなんとしている。それは一体いかなるモチベーションで行なわれているのだろうか。
 しばし考えた末に、それは「ちんことの対話」なのではないかと思った。ちんこはきわめて身近な存在でありながら、その一方で高みの存在でもある。僕個人の所有物であることはたしかだが、同時にイデア界からの借り物であるような気もする。だからタイミングによって、とてもぞんざいに扱うこともあれば、奉るかのごとく丁重に扱う場面もある。つまり150枚ものショーツとは、ちんこへの貢物であり、そうやって日々献上品を納めることによって、僕はちんことより昵懇な仲になろうとしているのではないか、と思った。実際、毎日のように新しいショーツを穿き、新しい見た目、新しい着心地を与えたことによって、それまでの日々に較べて、僕とちんこの関係性は親密になったと思う。
 先ほど貢物という言葉を使ったが、日々新しく捧げられるショーツが、ちんこという男性性の象徴への貢物なのだとしたら、ショーツとはすなわち女だ、とも言える。なにぶんショーツという、一般的には女の子の下着に使われる言葉をあえて使うくらいなので、僕はショーツに、女性性を感じ取っている。製作したショーツを紹介しているインスタグラムでも、「このデザインのショーツは、こういう女の子が穿いてそう」みたいな言い回しをよくする。だから150枚のショーツは、150人の女の子のメタファーだ、ということもできる。世の中には、実在の女の子のショーツを、購ったり、あるいは盗んだりして、自分で穿いて興奮するという嗜好の男性もいる。知り合いにいるわけではないが、世に聞くに、いるに違いない。それを僕は、自作し、完成したショーツから女の子を想像し、そして創造することによって、同種の快感を得ているのではないか、という気がする。それは全てではないが、たしかにある。「女の子が穿いてそうさ」は、自作ショーツの魅力を語る上で、重要なファクターのひとつである。
 そんな自覚を持ち始めた折に、年が明けてすぐ、「クラスショーツ」という試みをした。年末から頭にあったものを、冬季休業を利用して実行に移したのである。完成品は「nw」に投稿したけれど、要するに「もしも僕が女子校の教師で、受け持ちのクラスが、クラスTシャツの代わりにクラスショーツを作ることにして、そして担任である自分の分も作られ、しかもそれをちゃんと穿いているか全員の前で脱いで確認させられたら」というストーリーの、そのショーツで、もちろん僕は実際には女子校の教師ではないのだけど、それなのにその学園の2年D組のクラスショーツはたしかに手元にあるわけで、どこかファンタジックな風味もある、特別な1枚となった。
 そしてこの体験を通して、僕はまたひとつ、ショーツ作りの動機において、新しい階梯へと進んだ。すなわち、件のクラスショーツが、教室で唯一のちんこ保持者である僕への、ティーンエイジャー少女特有の性的好奇心からの、「あげるからその代わりに穿いてるところを見せてね」という形での貢物なのだとしたら、はい出ました再びここで貢物というワード、だとしたらこれまでに作った150枚のショーツもまた、全てが実は受け持ちのクラスの生徒が僕に作って捧げてくれたものなのではないか、僕はショーツに対し、そういう受け止め方をすることもできるのではないかと思った。僕は女の子たちから、サイドの部分が2センチもない、フロントの上部から陰毛がはみ出る、それでいてちんこの膨らみはきちんと前に迫り出る、とても小さい面積のショーツを、怒涛の如く贈られている。そう考えたとき、150枚のショーツはまた一段、その淫靡な輝きを増した。