性的

 性にまつわる本を読んだ。性にまつわる本という表現の幅は広く、固い学術書から、ラノベのようなエロ小説まで、なんだって性にまつわる本ということになり、さらには作者がそういう意図で書いていなくても、受け手が曲解して性にまつわる本として捉える場合さえあるし、そもそもこの世は性によって成立しているとするならば、本に限らずありとあらゆる事象は押し並べて性にまつわるということになるが、とりあえず今回読んだのは、思春期の性の悩みに専門家が答えるタイプの、ああいう本である。
 こういう本は、思春期に差し掛かった本人、思春期の子どもを持つ親、どちらが読んでもいいように書かれているが、僕はそのどちらにも当てはまらない20歳くらいから、純粋な興味としてこういう本を多く読んできた。僕にとっての性欲とは、「性(に関する知識)欲」だ、とかつて喝破したが、まさにその欲求から、図書館や古本屋などで見つけては、せっせと手に入れて読んできたのだった。
 そうして、それなりに長年読んできたので、時代による内容の変遷についても、思いを馳せたりする。今回読んだ本は、最近に刊行されたものだったので、LGBTなど、性の多様性についてしっかりと触れられていた。何十年も前の本だと、女は嫁に行って子供を産まなければならない、なんてことがごく普通に書かれていたりするけれど、今はもちろんそんなことない。性に関して、世の中は本当に寛容になったというか、なにも押し付けなくなった。もとい、押し付けたらいけないんだ、という周知が徹底された。それまで暗部に追いやられていた性的マイノリティという存在が、こういってはなんだけど日の目を見たことによって、ある部分に光が当たった結果、しかしその日陰もできたな、ということを感じる。あるいは強すぎる陽射しによって飛ばされ、目がくらみ、見えない部分ができたというべきか。「性は人それぞれ」という結論は、それは本当にその通りで、そうでなくてはならないのだけど、それは市井の暮しにおいては、触らぬ神に祟りなしというスタンスに帰着するほかなく、性の話はタブーということになり、しかし冒頭でもいったように、この世は性によって成立しているので、性の話がタブーの世界では、発せる言葉などなにも存在しないことになってしまう。でもそのことに息苦しさを感じることが、もう旧時代的な感性なのであって、性的マイノリティを無意識に排斥していた時代の人々が感じる息苦しさになんて、新しい時代は思いをかけてくれない。彼らは新時代の言語を持っていないだけ、ということにされてしまう。そして我々は無口になり、たまに言葉を発しては、問題発言だと糾弾される。しかし性から逸脱した、解放された話に、いったいなんの価値があるだろうか。旧世代による性的な話に呆れるのと同じくらいに、我々だって新世代の性的じゃない話に、つまらなすぎて白目をむいているのだ。こっちはダメで、そっちはいいのか。
 話が横道に逸れた。にわかに熱くなったが、実は横道の話だった。読んだ本で最も印象に残ったのは、彼女の都合を考えずにセックスをねだる彼氏に悩む女子へ向けた、『「ため込むと性欲が抑えられなくなる」というのは嘘。射精をしない日が続いたから性欲が増すなんてことはありません』という文言で、なぜなんだ、と思った。なぜ、この本の著者はそんな虚偽を平気で書くのか。ためると性欲、増すよ! 射精直後と3日後では、世界の見え方がぜんぜん違うだろう! 空腹は最高の調味料というのと一緒で、射精せずに性欲が増せば増すほど、世の中のありとあらゆるものが性的に思えてくるものじゃないか。人生ってその繰り返しだろう。そのバイオリズムで、性によって成立している世界を、瞬間瞬間どう見るかという、生きるとはそういうことだと思っていた。新しい時代は、そこまで否定するのか。言葉のみならず、世界の見え方まで否定するのか。目的はなんなのだ。貴様らの目指す先の未来には、いったいなにがあるというのか。