ハーレムという選択

 ハーレム的な一夫多妻生活を行なっていた男が逮捕され、ニュースになっていた。
 74歳、元占い師(という謎の肩書)。逮捕されたのは初めてではないそうだが、今回の罪状は、10代の少女にUFOの映像を見せて洗脳し、乱暴をしようとしたことだという。
 74歳。10代少女。乱暴。
 すげえな、と思う。
 すげえな、と思うと同時に、この男以外の女性には顔にモザイクがかけられた、一夫多妻生活のさまを撮った映像を目にし、普通に「気持ち悪い……」という感想も抱いた。我ながら、それは意外といえば意外だった。あれほど希うハーレムの、実際の風景だというのに、そこに羨望のような気持ちはまるで湧いてこないのだった。
 しかし思えば僕は、エロ小説などのハーレムものでも、集団において主人公ひとりがひたすらモテ、女の子がちんこの争奪戦を繰り広げる、という段階はとても好きで、物語がそのままなんの、本当になんの発展性もなくダラダラと続き、そして、「この夢のような愛欲生活は当分終わりそうにない……」みたいな、締まっているのか締まっていないのかよく判らない締めで、話が閉じられるともなく閉じられるのならば万々歳なのだけど、稀に、いやあまり稀でもなく、ハーレムに所属する女の子が、ほぼ同時にみんな妊娠する、という種類の終末が描かれることがある。もちろんそれは最高のハッピーエンドとしてだ。しかしあれが僕はとても苦手で、その結末が待っているのだと分かってしまった時点で、それまでの妊娠前のハーレム風景にも影が落ちてしまう。それはなぜかと言えば、やっぱり妊娠は、現実的な、人生的な、さまざまな問題を孕むからだ(妊娠なだけに)。もっとも僕はなにも妊娠をネガティブなことと言っているわけではない。僕との行為を経てファルマンは妊娠し、娘をふたり産んだ。これはとてもすばらしいことだ。すばらしくて、大事で、そして大きな責任を伴う出来事だ。そのことが実感としてあるがゆえに、ハーレム孕ませはもちろんのこと、純愛ものであったとて、エロ小説の最後に妊娠を持ってこられると、困る。もっと直截に言うと、萎える。そういうのは発生しない条件下での桃色遊戯だと思っていたのに、と思う。
 ここまで書いていて思ったが、もしかするとこの強い感情は、父が母以外の女性を妊娠させたことで家庭が崩壊したという来歴も影響しているのかもしれない。たぶんそんなに影響していないだろうけど、こんな自分の人生を切り売りするようなことを文章中に織り交ぜると、話の内容に深みが生まれるのではないかと思って実行した次第である。
 えっと、それでなんの話だったっけ、そうだ、現実の74歳元占い師のハーレムの話だ。記事によると、ハーレムのメンバーは妻および元妻が9人、そして子どもが男女合わせて3人だそう。思ったより子どもが少ないことをこの段階で知り、この話の根幹は揺らぎかけている。妻たちは、働いてお金を稼いでくるグループと、家のことをするグループに分かれていたそうで、どうも思ったより統制の取れた、理に適った共同体だったのかもしれないと感じ始めた。ボスである男に対してとりあえず慕う心があり、ひとりで生きるより集団で生きたほうがマシかなと思ったのなら、こういう選択もそこまで箍の外れた行為ではないのかもしれない。「独り」か「核家族」かの二択は、言われてみれば少し乱暴なところがあるし、年を取ればケアハウスや老人ホームで結果的に似たような形式の暮しをすることになる。
 ハーレムの、あっけらかんと性快楽を謳歌したいだけなのに、妊娠や共同生活によって責任が生じること、そして責任とハーレムセックスというふたつの言葉の相性の悪さから来る歪みによって気持ち悪さを覚えること、だからハーレムセックスというのは、モテモテの男子高校生あたりが学園の女子相手と好き放題にやりまくる(もちろん妊娠はしない)、というのがいちばん理想的な形だ、一緒に暮らそうとしてはいけない、ということを今回の記事では綴ろうと思っていたのだが、本当に見事なまでに揺らいだ。逮捕の理由は本当にひどく、揺らいで着地した地面がまた揺らぐのだが、そんなことさえなければ、以前の乱交パーティーと一緒で、誰に迷惑をかけたということもなく、それを求め、それに救われる人もいるのだ、という事案なのかもしれない、これは。
 どちらにせよ、もう少しじっくり考える必要がありそうだ。