プロペとパピロウ


性包茎なんてないらしい。読んだ本に書いてあった。
 日本では一般的に、いつでも剥けている状態の「ずる剥け」、基本的には皮を被っているが勃起すると亀頭が露出する「仮性包茎」、勃起しても亀頭が完全には露出しない「真性包茎」の3パターンに分類するけれど、医学的には「ずる剥け」と「仮性包茎」は区別しないらしい。なぜなら、剥こうと思えば剥けるのなら、なんの問題もないからだ。
 そんな気はしていたのだ。世の中の男性は、本来その大部が仮性包茎なのだ。だとすればそれが自然で、そして自然であるということは、理に適っているということなのだ。それを「仮性包茎」などと、「ずる剥け」に対してどこか劣るような、引け目を感じさせるようなラベリングをするから、男たちは必死に剥きグセをつけたりして、仮性包茎からの脱出を図る。かくいう僕もそのひとりで、ましてや今年に入ってから公衆浴場やサウナによく足を運ぶようになったので、余計にそのことを意識するようになった。大人の男たるもの、常態において剥けていないと恥ずかしい、という思い込みがあった。
 でもそれは正しくなかった。ナチュラルな「ずる剥け」が多くなく、「仮性包茎」と区分される層が多いのは、それが優れているからだったのだ。「ずる剥け」は限られた上位の選民ではない。むしろはみ出し者なのだ。なぜなら亀頭が常に露出していると、乾燥したり、さらには頻繁に刺激を受けることで皮膚が厚くなり、それらは亀頭の感覚を鈍麻させてしまうからだ。亀頭の感覚が鈍麻するということは、セックスでの快感を得づらくなるということで、強い快感を得るために無理やりな激しい動きをすることに繋がる。そしてそれはペニスにとっても相手の女性にとっても当然よろしくない。読んだ本にはこのように書いてあった。「つまり亀頭を大事にするということは、女性を大事にするということ」。そう。実は亀頭とは女性だったのだ。思えば亀頭とは、女性の内部に最も深く入り、女性と合一する器官である。男性性の最も象徴的な部分でありながら、男性性の極北とは、すなわち隣接する女性性の極南なのだ。なんと示唆に満ちたいい話か。そう思えばこれまで以上にますます、陰茎のことが愛しくもなってくる。
 思えば僕はこれまでサウナに入るとき、髪の乾燥を防ぐため、濡らしたタオルを頭にかけて過し、そして亀頭は露出させていたわけだが、それでは対策として片手落ちだった。とは言え1枚しかないタオルを、亀頭のために使って髪を見捨てるわけにはいかないから、じゃあどうすればいいか。そう、亀頭には包皮を被せてやればいいのである。なんと、なんと素晴らしい仕組みであろうか、包皮。もうこんなのあれじゃん。瞼じゃん。瞼めっちゃ大事。じゃあ包皮もめちゃくちゃ大事なんじゃん。それを剥くだなんて。ましてや切るだなんて。亀頭に包皮を被せ気味になるかわりに、心の亀頭の蒙がすっかり啓かれた気がする。いい本を読んだ。
 それにしたって「仮性包茎」という言葉がとにかく悪い。ここにはどうもクリニック業界の陰謀があるようだ。仮性って、包茎以外にあまり使われなくて、もはや包茎のほうが略され、仮性といったら仮性包茎のことを指すようにさえなっているけれど、なんかこの言葉って、裁定者の温情でぎりぎり許容されているというような、そんなイメージがある。本当はアウトだけど俺だから許してんだかんな、みたいな威圧感があり、そのため我々は仮性包茎に引け目を持つ。しかしさんざんいっているように、仮性包茎なんて状態はないのだ。さらに言えば「ずる剥け」もない。あるのは「勃起して剥けている状態」と「勃起しても剥けない状態」で、これの後者はケースによっては治療の必要があるから、それは区別しなければならないが、それ以外はなにがどうだろうと関係ない。平常時に包皮がどうなっているかは議論しても意味がないし、なんなら前述したように包皮にくるまれているほうが優れてさえいる。だから言葉を変えるべきだと思う。
 そこで僕は提案する。皮を被っている状態、これを「プロペ」。皮が剥けている状態、これを「パピロウ」。それぞれそう呼んだらどうか。ただ自分の名前を歴史に遺したくていっているのではない。根拠がある。「パピロウ」は、漢字表記で「破皮狼」ということでこれまでやってきた。皮を破る狼。この皮は、これまで女の子の処女膜を便宜的に皮ということにして表現していたわけだが、この皮がなんのことはない、実は包皮だったのである。包皮はもちろん陰茎を取り巻くように筒状になっているわけだが、真横から見たら勃起して亀頭が顔を出していく様は、皮を突き破っているようにも見えるだろう。だから皮が剥けている状態がパピロウ。それに対してプロペは、公衆浴場やサウナに入るときは、むしろ皮を被せていたほうがいいという点から、「風呂へ」入る際にふさわしい状態、すなわち皮を被っている状態を指す。そしてこのふたつの言葉は、あくまで皮の状態のみを指すのであり、勃起しているかどうかは論点としない。しかし世の中の大部の男性が、これまで仮性包茎と呼称されてきたその区分なのだとすれば、どうしたって平常状態がプロペ、勃起状態がパピロウ、という使われ方をされるのはやむを得ないだろう。それは提唱者の真意ではないが、言葉は使う人のものだからしょうがない。
 常々いっていることだが、僕の最終的な夢は、ちんことか性欲とかの神様的な存在として奉られることであり、今回の新名称の提案によってその実現がだいぶ近づいたと思う。この世のすべてのプロペに、すべてのパピロウに、しあわせが舞い降りますように。

ともだちんこ


BSのドラマ「G線上のあなたと私」を観ていたら友達が欲しくなった。このドラマは、松下由樹、波瑠、中川大志が演じる、46歳の主婦、27歳の無職、19歳の大学生が、バイオリン教室で一緒のクラスになり、仲が良くなるというお話で、これまで友達と言えば、だいたい自分の年齢から上下5歳くらいまでと、漠然とイメージしていたので、こういう友達もありなのか、と蒙が啓かれた。
 だから、当座のところその予定はないが、例えば僕もヤマハのバイオリン教室に通いはじめたとして、そのクラスには、21歳の女子大学生と、20歳の女子短大生と、19歳の女子専門学校生がいたとする。それプラス36歳の僕。その4人にも友情は生まれるということになる。いやお前はダウトだ、お前以外の3人は仲良くなってグループLINEを形成し、そのグループLINEではよく、教室にいるひとりのおっさんをキモいキモいと言い合って嗤ったりもするだろうが、お前を含んだ友達グループは決して生まれない、なによりお前自身が、そんな年齢の女の子たち相手に気さくに話したりできないだろ、きょどってどもるだろ、という指摘もある。しかしなにか歯車が本当にうまい具合に噛み合って、なにより前提として、我々4人は互いの立場や年齢など関係なく、会うべきして会った運命的なソウルメイトなのだとすれば、僕はきょどってどもったりすることなく、すごくいい感じに彼女たちと友達になれるかもしれない。なんかほら、教室を終えて駅まで一緒に歩いているとき、瑞穂(20歳の短大生)に一方的に言い寄ってきたストーカー男を、僕がとてもスマートに撃退してみせたり、あるいは雨のそぼ降る日の教室の近くの道端に、今にも死にそうな、病気まみれの老犬が捨てられていて、それを僕が持ち前の博愛精神で優しく抱え上げ、犬が天に召されるのを見届けてやっているところを、奈津美(19歳の専門学校生)がちょうど見ていたり、さらには俺が死んだ恩師に手向けるための花を買った花屋で絢(21歳の大学生)がアルバイトをしていたり、なんかそんなことがあって、たしかにひとり異質な立場の僕も、すっかり彼女たちに受け入れられ、我々はとても確固とした友情で結ばれるかもしれない。
 そしたら我々は4Pをすることになると思う。
 よく「異性間の友情はあると思う?」という問いがある。なんか、「旦那は「あいつは友達だから」と言って地元の女友達とふたりで会ったりするんですけど、私はなんとなくモヤモヤするんです……」などと相談がなされるそれである。この問いかけに対する答えとしては、僕はもちろん、成立すると思う。異性間の友情は成立する。と言うより、友情に異性も同性もない。爽子、友達って、気づいたらもうなってんの! だ。だから逆に、絶対的な友情を信じる、友達の化身とも言える立場からすれば、そんな問いかけが生まれることそのものが不可解だ。不可解と言うより、もはや哀しい。フレンドシップイズノーディスクリミネーション。友情に差別はないのです。どうかそんな疑問は持たないでください。
 その上で、異性間の友情にセックスはある。これもまた当然の話で、友情って心を開くことで、心を開くことは、すなわち股を開くことだから、そんなのもう当たり前にセックスだと思う。フレンドシップイズアカインドオブリビドー。友情は性欲の一種なのだ。だから友情で結ばれた我々4人が4Pを行なうのは、とても自然なことで、そういう意味で僕は友達が欲しい。かわいいのが欲しい。かわいいのしか要らねえ……。

winner

「S
EVENTEEN」で、これももう定番の特集だが、「男子高校生の頭の中」みたいなことをやっていて、興味深く読んだ。実際の男子高校生が誌面に登場し、アンケートに答えたりしていて、男子高校生たちは当然「モテたい」とか「エロエロ」みたいなことを述べるのだが(もちろん編集者がそういう答えが返ってくるような問いかけをしているわけだが)、しかし僕(彼らよりも約20歳年上)が思うに、どういう経緯にせよ「SEVENTEEN」のそういう特集ページに登場しているという時点で、彼らはもう相当に華やかなハイスクールライフを送っている、ひと握りの部類に入ると思う。
 もう何億回言ったか判らないが、僕は高校が男子校で、だから共学に対する憧憬が、20年経った今もってなお限りなく、ファルマンは「別に共学だからって華やかとは限らんよ」と言うのだが、モテるモテないとか、ヤッたヤラないとか、そういうレベルの話じゃなくて、僕はつい先日このことに気付いて、本当にハッとしたのだけど、僕は15歳半から18歳半という、それは人の人生におけるだいぶキラキラしているはずの3年間において、恋愛というものを本当に一切しなかったのである。好きな、気になる相手というものが、完全にいなかった。3年間。人生のその特別な3年間においてである。いくら華やかじゃなくても、モテなくても、共学でありさえすれば、生物の基本として、濃淡はあるにせよ、誰かしらに恋心を抱くものではないかと思う。なんとなく目で追ってしまうとか、そういうレベルでいい。結ばれなくてもいい。ちょっと気になるだけでいいのだ。それで十分に価値がある。それがなかった。完全になかった。完全にないってすごくないか。別に共学じゃなくても、校外で関係性を持とうと思えば、世の中には女子校というものもあるのだから、いくらでも方法はあったのかもしれない。実際、同級生たちはいつの間にか童貞を捨てていた。僕にはなにもなかった。とても静謐な3年間だった。毎日渋谷を歩いていたが、そんな僕に「SEVENTEEN」の男子高校生特集の声が掛かるはずがないのだった(私服だったし)。だから声が掛かった彼らに対し、彼らがいくら「モテたいっすよ」とか、「頭ん中エロいことで悶々っすよ」などと言っても、ぜんぜん感じ入らない。レベルが違う、と断言できる。
 そんな忸怩たる気持ちで眺めていた男子高校生特集で、童貞とチャラ男のクロストークというコーナーがあり、チャラ男が自分がどれだけヤリまくりか、ということを語っていた。中学生のときに先輩を相手に童貞を喪失したという彼は、高校に入ってからは友達と経験人数を競ってヤリまくるようになったという。また別のチャラ男は、自分は彼女とお互いに浮気OKの仲だ、と語る。彼女から女の子を紹介される、なんてこともあるという。ここらへんでなにか、僕の心の中のとても脆くて美しくて大切な何かが、バッドとかで乱暴に叩き壊されたように感じた。
 とは言え彼らはただ本能のまま、獣のごとく下半身の命令に従って動いているわけではないらしい。彼らには彼らなりの行動原理がある。それは「中学生のときにAVを観ていて、女にも性欲があるならふたりで満たし合えばいいじゃんって気づいた」というものであるという。そして「それってウィンウィンの関係じゃん?」などとのたまう。
 ウィンウィン。このコーナーは縦書きだったためかもしれないが、「win-win」ではなく「ウィンウィン」というのが、経験人数200人弱だというチャラ男高校生の、破壊的なまでの軽薄さをうまく表しているような気がする。それはまるでベルトコンベアの稼働音みたいで、彼らのセックスはなるほどそんなオートメーションの作業のようなものなのかもしれない。バーカバーカ、そんなセックスバーカバーカ! とひたすらに思う36歳の秋である。
 それと、この「win-winの関係」という言葉が出てくるとき、いつも心の中でざわっと、なんとも言えない嫌気がさす感覚があったのだけど、今回のこれでようやくその理由が分かった。なぜ僕は、誰かが「win-winの関係」と言うと、嫌な気持ちになるのか。それは、あなたと、あなたの相手が、双方とも勝っている傍らには、必ず負けている人がいるからだ。これは、あなたと、あなたの相手が、ふたりで勝負をして、ふたりともが勝ち、などという話ではない。そんなふざけたおとぎ話があるものか。ただあなたとあなたの相手がタッグを組んで、あなたたち以外の誰かを負かしただけの話ではないか。時節で言うならば、関西電力の収賄事件なんかがまさにそう。関西電力の幹部と、高浜町の助役は、そりゃあwin-winの関係であったろう。しかし彼らがそうして得た富の裏には、本当に大勢の人のlooseがある。誰もが勝つなんてことがあるはずないのだ。それなのに、これはなんの瑕疵もない理想の形です、みたいな顔で「win-winの関係」と口にするから頂けない。チャラ男がひとりで200人弱の女を抱いたらば、200人弱の男のセックス機会を奪ったとも言える。果たしてそれがwinだろうか。winだわな。大winだ。大winnerだ。大winnerということは、それは要するにフランクフルトだ。200人弱の女とセックスをしたちんこは、どういう作用かは知らないが、大きくなりそうな気がして、そう思うとますますへこたれる、36歳の初秋。

悖鬼宣言


ロ短詩をひたすら投稿してゆくTwitterをはじめるにあたり、せっかくなのでpurope★papiroとは別の、俳号みたいなものを作ろうと思い、すぐに頭に浮かんだのが「勃起」だった。やっぱり人生に本当に大事なのは勃起だよな、ということを、最近ますますしみじみと感じるようになり、それ以外の俳号は浮かばなかった。しかしそのまま「勃起」では、それはそれで潔くておもしろい気もするが、ちょっとストレートすぎるので、漢字だけ変えることにした。そうしたとき、「鬼」のほうはすぐに思い浮かんだ。もちろん西東三鬼のことも頭の中にあった。「おそるべき君等の乳房夏来る」の三鬼は、岡山県出身という繋がりもある(僕は出身ではないけれど)。それでは「ぼっ」のほうをどうするか。これは漢字辞典の力を頼った。そして「悖」を見出した。意味は、もとる、みだれる、さかん、などで、理に反するがどうしても手懐けられない業、みたいな意味合いが勃起に通じるので、ふさわしいのではないかと思った。性的な業の化け物、それが俳人としての悖鬼というわけである。
 斯様に、勃起のことを偏愛している僕である。勃起というのは本当におもしろいと思う。人間の体の一部が、数十秒や数分で、あんなにも形状を変える。まずそれが他にはない特徴であり、目を瞠る。さらにはその変化というのが、興奮すると膨らみ、落ち着くと萎むという、とても単純な「ムラムラゲージ」である、もとい、でしかない、という点が愛しい。それによって放出される伝達物質がどうだとか、そういうことは一切ない。ただ男子がムラムラするとピコーンと屹立する。その馬鹿さがひたすらに愛しい。
 勃起道の神髄は「不出(ださず)」である、という話がある。ある……よね? これまで何度か別々の本でそういう記述を読んだことがある。つまり、勃起は勃起し続ける限り、いじっていると気持ちがいいし、そもそも感情的にもハッピーが継続する。だからなるべく長く勃起していることが、人生においては望ましい。しかし勃起の悦楽は、深追いしすぎると射精へと至り、その一瞬はたしかに追い求めた先にあるので大きな快感がもたらされるのだけど、その代わりそれからしばらく(個人差、体調差がある)勃起の歓びからは遠ざかることになる。だからトータルで考えれば射精という一瞬のエクスタシーは忌避し、細く長く勃起し続けたほうが賢い、という考え方である。これは本当にそうだ。そしてそれは大体の男子が理解しているのだ。しかし理解しつつも、射精の誘惑に打ち克つことは難しく、ここに葛藤が生まれ、詩人という天職が出来る。すなわち勃起と音を同じにする悖鬼としてエロ短詩を作ること、それは終わらない勃起の夢なのである。勃起とは血の集中であり、現実的なことを言えばずっと続けることは不可能だ。それはなんかしらの病気だし、死んでしまう。しかし精神的に勃起をし続けることは可能である。これから年齢を重ねて、いつしか物理的な勃起がままならなくなってきたとき、悖鬼として作ったエロ短詩が、精神的な勃起を支え、僕の人生はとてもよく勃起し続けた人生だったと証明してくれれば、これ以上の幸せはないと思う。

ブログクロス連載小説「俺と涼花」第6回


きた瞬間にさらさらと手のひらからこぼれ落ちる砂のように、露と消えた妹によるモーニングキャンディの幻想は、しかし瓢箪製のペニスケースが起した奇跡の性感によって、ブルーボールの切なさだけを俺の性器に残して弾けた。
 倒れる前の、演奏という名の手コキから、幻のモーニングキャンディまで、妹は短時間であまりにも俺のペニスを弄び過ぎた。勃起をしつこく長引かせると起るブルーボールは、昇ったり降りたりを繰り返して迷子になった精子たちの叫びであり、金玉のあたりがじんわりとアンニュイになるさまは、たしかにブルーボールという他なかった。哀し気に赤黒ずむ、俺のツーブルーボール(ズ)。
「んちゅっ……、ちゅっ、ちゅばっ、んっ、れる……、ちゅっ」
 プリン本体を食べきったのち、皿にへばりついたホイップクリームをせっせとスプーンで掬い、お掃除フェラよろしく丁寧に舐め取っている妹の姿が、さらに股間の疼痛を刺激した。そんなにホイップクリームが好きなのならば、俺のこの絞り袋の中で蠢くものたちも全てしごき出して、気の済むまで食み尽くせばいいではないかと思った。ものの本によるとそれは「苦い」らしいので、デザートのあとに飲むエスプレッソのように、いい口直しになるのではないかと思った。
「……ぷふぁあっ。あー、おいしかった。ごちそうさまでした」
 しかし妹はそんな俺の願望などお構いなしに、手を合わせると早々に皿を持って流しへと歩き出してしまった。ソファーに横臥する俺の目線の高さを、妹の脚の付け根が移動した。もちろんパイル地のホットパンツ姿である。サーモンピンクのホットパンツから伸びる太腿はどこまでも白く、気を抜くと魂を吸い取られそうになる。深い部分までさらけ出されたデリケートゾーンに目を凝らせば、ゆとりのある裾の間から、ショーツが覗けるのはもちろんのこと、そのショーツさえもがなにかのはずみで少しでもずれたらば、さらにその中の世界までもが容易く開けてしまいそうだ。
 そこまで考えて、はたと気がついた。そうか、だからあえてサーモンピンクのホットパンツを選んで、妹は穿いているのかもしれない。木を隠すなら森の中。サーモンピンクの中のサーモンピンクが多少見えてしまっても、サーモンピンクの外のサーモンピンクのおかげで、そう目立たない。妹はたぶん別にサーモンピンクが好きなわけではない。ただそれが自分の陰唇の色に酷似していて、保護色になるから穿いているのだ。つまりサーモンピンクのホットパンツは、希釈した妹の陰唇そのものであるといえた。
 だとすれば、俺は陰嚢こそ露出しているが、ペニスケースを纏っている。これは一部の部族にとっては正装であり、その一部の部族にとって陰嚢や肛門の問題がどう解決されているのかは知る由もないけれど、それでもとにかく正装なのらしい。それに対して妹は、希釈された陰唇を臆面もなくまろび出しているではないか。ありえない。もしかして妹は痴女なのではないか。せめて葉っぱでも着ければいいのに、隠す素振りなど一切なく、妹はサーモンピンクを俺の眼前に晒し続けているではないか。
「なんてこったよ……」
 実妹が痴女。
 衝撃の新事実に、ブルーボールの症状はますます強まった。しかしグラビアアイドルが男子に勃起されると喜ぶように、痴女である妹にとって、俺の腐肉の懊悩はむしろ望んだ展開であるはずだ。俺を勃起させるために、妹は女性器を曝け出し続けているわけだろう。いや、あるいは俺なんか関係なく、ただ自己満足のために女性器を曝け出し続けている……? しかしもしそうだとしたら甚だ迷惑な話だ。そのせいで男子が勃起してしまうことは、レイプの変型版と言っていい。
 そうだ、俺はいま、痴女妹にレイプされているのだ。もちろん直接に陰茎を擦られたり陰嚢を揉まれているわけではない。でも女の子は男子には見えないハナハナの実の能力によって、男子の陰茎を擦ったり陰嚢を揉んだりするのだと思う。だから俺はさっきからこんなにも股間が切ない。上京してしまった先輩にとうとう渡せなかったバージンくらい切ない。ああ、先輩はウチのことなんかすぐに忘れて、東京の女の人とたくさんえっちいことするんやろな……。そんな切なさで胸と股間がずきずき痛む。
 流しにたどり着いた妹は、そのまま蛇口をひねり、使った皿を洗いはじめた。俺はソファーの背もたれに顎を乗せ、その後ろ姿を眺めた。もはや寸足らずと言ってもいいホットパンツから、太ももと尻の合いの子のような部分がはみ出ている。陶器のように艶やかで、照明を反射するかのように張り詰めている。それは太ももの曲線とは明らかに違う。筋肉や骨とは無関係な、いい意味での肉と、いい意味での脂肪の、めっちゃいい膨らみ方をしている。じゃああれは尻だ。合いの子じゃなかった。尻だ。尻だ。尻なんだ。妹は尻を出して洗い物をしている。これがホントのMagicaだな、と俺は思い、そろそろと自らの手を股間へと這わした。

つづく

ブログクロス連載小説「俺と涼花」第4回


の涙は少しだけ俺の両陰嚢を湿らせ、蒸発する際の気化熱でひんやりとした感触をもたらした。陰嚢を冷やすことは勃起を鎮めるために用いられる手段だが、使われたのが妹の涙ということもあり、突っつかれるようなほのかな疼痛は、またしても易々と快感へと変換され、勃起という焔へ薪をくべるのだった。俺の腐肉という原子炉はメルトダウンを起し、勃起のエネルギーが勃起のエネルギーを生み出す無限の連鎖が幕を開けようとしていた。このままではいつまでもアンダーコントロールできない。
 いっそのこといちど射精してしまおうか。
「いっそのこといちど射精してしまおうか」
 いっそのこといちど射精してしまおうか、と思ったので、そのままの文面を口に出した。腐肉を手っ取り早く小さくし、ペニスケースの音色を再び良くするためには、やはりそれが最善の策だ。
「えっ! ……お、お兄ちゃん、いまなんて言ったの?」
 俺のつぶやきに妹は目を見開いた。
「ちんぽこが大きくなって嫌な音しか出なくなったって涼花が言うから、なんとか小さくしてやりたいんだけど、このままだと昂ぶって昂ぶって埒が明かないから、いっぺんヌいて満足させて萎ませるしかないな、って」
「心の声をミスって声に出しちゃったんだと思ったのに、改めてちゃんと説明した……」
「うん。だからさ、俺、今から射精するよ。そうしたらたぶん小さくなって、涼花の出したい音が出せるようになるから。だからちょっと向うを向いててほし……って、ええぇっ? 手伝おうかって、お前それ本気で言ってんのかよ!」
「えっ? わたしなにも言ってない……」
「おっきくしちゃったのわたしだし、いい音を鳴らしたいのもわたしだし、それなのにそのための作業を一切手伝わないなんて道理に反してるから手伝うよ、ううん、お願い、手伝わせて! ……って、お前、自分がなに言ってんのか本当に分かってんのか?」
「分かんないよ! お兄ちゃん、誰と話してるの? わたしの口、動いてないよ!」
「…………」
「…………」
「……いたっ!」
「えっ?」
「痛い! やっぱ痛い! 涼花に叩かれ過ぎて、ちんぽこ腫れて、痛い! 痛い痛い痛い! まずい! これガチでまずいやつ!」
「えっ? えっ!」
「あー、まいった。詰んだ。あーあー、南無三だ。わからんちんぽこどもとっちめちんぽこだ」
「わ、わからんちんぽこどもとっちめちんぽこ?」
「とんちんかんちん、ちんぽこさん」
「……ねえ、お兄ちゃんなに言ってるの? バカなの?」
「俺はバカじゃない! 俺のちんぽこが涼花の激しくも無邪気な愛撫演奏のせいでバカになっちゃったんだろ!」
「そんな……」
「責任とってよね!」
「急にオネエ口調……」
 妹はもじもじと身を捩らせ、ペニスケースに覆われた俺の腐肉を見やった。妹の頬は赤らみ、眉間には皺が寄っている。世話するべきかどうか、悩みはじめた様子が窺えた。これはもうひと押しだと察知し、俺は下半身を妹のほうに突き出した。
 しかしそれが墓穴だった。
「……あれ? お兄ちゃん、これ」
 妹が俺の股間を指差す。
 その指はペニスケースではなく、その少し下を示していた。
「お兄ちゃんの金玉袋、さっきよりも垂れてきてるよ。これってもしかして、ちんぽこが小さくなってきたってことじゃない? 金玉袋って、普段はべろんと垂れ下がってるけど、ちんぽこが大きくなると体のほうに持ち上がるんでしょ。たしかにさっきは金玉袋、持ち上がってシュッとしてた。でもいまはお兄ちゃんの腰の動きに合わせてたぷたぷ揺れてるよ。ねえ、本当はもうちんぽこ、勃起が持続できなくて、普通のサイズに戻ったんじゃないの?」
「………………かはっ!」
 俺は射精ができなかった替わりに喀血した。

つづく


ブログクロス連載小説「俺と涼花」第2回


れでも妹はなおもペニスケースを叩くのだった。
 しかし先ほどまでの軽快なリズムとは打って変わり、沈鬱な調子だ。音の低くなったのに合わせて、聡明な妹は咄嗟に曲調を変えたということか。
 だとすればこれは画期的な瞬間なのではないか。本場のペニスケース着用者たち、その中の一部であるペニスケースを楽器として用いる習慣のある部族の男たちにも、ペニスケースの中に納まっているペニスの体積の増減で振動を変え、音色をコントロールするという発想はないはずだ。もしかしたら俺と妹はこのパフォーマンスによって世界の大スターになれるのではないか。何万人もの聴衆を集めたステージで、世界最先端のペニケミュージックを奏でる俺と妹。世界各地で開催するライブでは、いつだって1曲目はその国の国歌でスタートし、観客のハートを一気に掴むんだ……。
 俺のそんな華やかな夢想を、妹のヒステリックな声が引き裂いた。
「やだ! やだやだやだ! こんな鈍い音じゃつまんない! 最初の音に戻して!」
 妹は唇を尖らせて抗議する。しかし抗議のアピールとしてやはりペニスケースを叩くものだから、ペニスケースが乗っている陰茎の根元、陰嚢の上部にペニスケースの開口部の縁がそのつど刺激を与え、血液はますますそこへ集った。だから妹がそうしている限り、ペニスケースが再び透き通った高音を発することはありえない。
「すっ、涼花が、涼花が叩くから、いけないんだぞ」
「もう! なんで妹にペニスケースを叩かれて興奮するの! お兄ちゃんの変態!」
「変態って言うな! 昂ぶるだろ!」
「……最低」
「最低って言うな! 昂ぶるだろ!」
「……きもい」
「きもいって言うな! 昂ぶるだろ!」
「……マジで引くんだけど」
「マジで引くって言うな! 昂ぶるだろ!」
「…………」
「無言で睨みつけるな! 昂ぶるだろ!」
「なんなのもう! なにやったってちんぽこちっちゃくならないんじゃない!」
「うああああっ!」
「えっ、なに、どうしたの、お兄ちゃん?」
 俺はすっかり忘れていた。
 ふつう女の子はペニスのことを「おちんちん」と呼びがちなところを、俺は妹がそれを「ちんぽこ」と呼ぶよう、それが一般的であると勘違いするよう、幼少期から妹の前でそれを口に出すときは必ず「ちんぽこ」と言うようにして、ひそかに矯正し続けていたのだった。その遠大な計画がまさか見事に実を結び、そしてこんな場面でその効果を発揮するとは想像だにしなかった。
「だいじょうぶ? もしかして叩きすぎた? ちんぽこ痛くなっちゃった?」
「うあっ!」
「そんなに? そんなにちんぽこ痛いの?」
「うあああっ!」
 とうとう股間を押さえてうずくまらざるを得なくなった俺へ、妹はなおも声をかけ続けるのだった。
「ごめんなさい。ごめん、ごめんね、お兄ちゃん。ちんぽこ、あんなに叩いて、痛かったよね。かわいそうだね、ちんぽこ。ごめんね、本当にごめんね」
「……いい」
「えっ?」
「いいんだ」
「許してくれるの、お兄ちゃん?」
「すごくいい」
「すごく? すごく許してくれるの?」
「想像してたよりすっごくよかった、ちんぽこ」
「えっ。なに、どういうこと?」
「幼少期から励んできたかいがあった……」
「なにを言ってるの? お兄ちゃん、本当にだいじょうぶ?」
「……ああ。もうでえじょうぶだ。しんぺえすんな」
 俺がおどけて悟空で答えると、妹は「よかった」と言って微笑んだ。そして安心して力が抜けたのか、膝を折ってしゃがみ込むと、目の前に近づいたペニスケースに両手でしがみついた。もはや中身がみっちりと充填された状態のペニスケースはびくともせずに、杭のごとく妹の上半身をしっかと支えた。

つづく

ちんこ契約論


の世でいちばんおもしろいものはちんこなのではないか。世の中におもしろいものは数あれど、どうしたってちんこのおもしろさには及ばない。頭の中をこねくり回し、おもしろさにおもしろさを重ねて、ゴテゴテとおもしろさの牙城を作り出したところで、そのおもしろさはひとつのちんこに負けると思う。そもそも英語のentertainは、ラテン語のante(股間の)+tei(棒)から来ているわけで、それを考えてもやっぱりどうしたってちんこほどのエンターテイナーは存在しないということになる。amazonのドキュメンタルを観てても、芸人たちは結局ちんこを出す。普段コントとか漫才とかがんばって作っているのに、ルール無用で本気で相手を笑わせようと思ったら、ちんこを出すのだ。
 ちんこがどうおもしろいか、具体的なおもしろい要素は、語り出したら取り留めがなくなるので、箇条書きにする。

 ・ぶら下がっている
 ・棒と袋がある
 ・勃起する
 ・皮を被せたり剥いたりできる
 ・縮れた毛が生えている
 ・まんこに入る
 ・袋がしわしわ
 ・色が他の皮膚と較べて濃い
 ・精液が出る
 ・カウパー氏腺液が出る
 ・小便が出る
 ・矢じりの形をしている
 ・サイズや角度に個人差がある
 ・口に入れるのにちょうどいい大きさである

 細かく挙げればまだいくらでもある。男は集えばいつだってちんこの話で盛り上がる。つまり一生かけても語り尽くせないほど、ちんこはおもしろいのだ。
 本当に、人体の一部で突出しておもしろい。2位は女性のおっぱいかなあ、という気がするが、ちんこにはずいぶん水をあけられている。そもそも同じレースに出場するべきではない。レベルが違いすぎる。ちんこだけやけに、あまりにもおもしろく作られている。どんなに悲壮な状況でも、そこに男がいれば、その脚の間にはちんこがぶら下がっている。そう考えれば乗り切れる場面というのが、世の中にはたくさんある。生命の基本は女で、男はおまけのようなもの、という話がある。将来的には男なんてほとんど必要なくなる、なんてことも言われる。別にそれでいい。男がこの世に存在する真の意味は、ちんこがおもしろいという、それだけだと思う。この世界を動かしているルールは、資本主義でもなく、社会主義でもなく、ちんこおもしろい主義なんだと思う。
 ちなみに冒頭のラテン語のくだりは真っ赤な嘘だ。

クリちゃん


リスティアーノ・ロナウドが、先般の試合でゴールを決めたあとに行なった「股間パフォーマンス」のことでFIFAから処分されるかもしれない、というニュースを目にして色めき立った。なんてったって股間パフォーマンスという言葉がいい。一瞬で心を奪われた。
 それで事の経緯を確認してみたところ、チャンピオンズリーグ決勝トーナメントのユベントス対アトレチコ・マドリードの試合で、最初に後者のホームで試合をし(2-0でアトレチコ・マドリードが勝利)、そのときに後者のチームの監督であるシメオネが、まず股間パフォーマンスを行なったのである。そうなのだ。いきなりクリロナがやったわけではないのだ。はじめにやったのは相手チームの監督なのである。映像で見たら、左右の親指と人さし指で輪っかを作り、それで自分のちんこ部分を囲っていた。これの意図について、シメオネ本人が語ったのか誰かが勝手に解釈したのかは判然としないが、「選手の睾丸の大きさ=根性を強調していた」と説明されている。その屈辱的なファーストレグの後、次はユベントスのホームでセカンドレグが行なわれた。この試合でなんとユベントスは、クリロナのハットトリックによって3-0で勝利し、2試合の合計得点を3-2として、アトレチコ・マドリードを打ち破るのである。クリロナのパフォーマンスはこのときに出た。つまりシメオネに対する報復だったのである。
 だからどう考えてもクリロナはあまり悪くないのだが(と言うかハットトリックで逆転とかかっこよすぎるだろう)、そんなことは僕にとってどうでもいい。どちらのチームのファンでもないし、国内外問わずサッカーそのものに興味がない。
 とにかく股間パフォーマンスである。シメオネとクリロナ、両者の股間パフォーマンスを見ていて気になったのは、彼らの股間観の相違である。シメオネのそれが前述のとおり睾丸に主体を置いているのに対して、クリロナのそれは映像で見る限り(股間部までが正面からしっかり映された映像というのはなぜか見つからないのだが)、陰茎を表現している。シメオネは下腹部あたりでのガッツポーズからそのまま股間囲いをしているのだが、クリロナは頭上高くから腕を振り下ろして股間囲いをし、そしてその動きを2度ほど繰り返している。だからクリロナの腕の動きに合わせて、とても巨大に勃起した陰茎の姿がそこには浮かび上がる。クリロナは陰茎派なのだ。
 たしかに股間といえば陰茎だ、と思う。いいや違う、機能として本当に大事なのは精巣を有する睾丸であり、股間の本体は睾丸にこそある、というシメオネ派の主張はたしかにその通りなのだが、しかしそれで睾丸をアピールされたって、それはどうしたって訴求力として弱い。股間というのはそんな風に理屈で捉えられるものではない。どこまでも単純に、「デカいチンポ(陰茎)→テンションが上がる」という、ただそれだけのものだと思う。だから僕はクリロナの表現に賛同する。逆にシメオネはどうした、と思う。シメオネは父系がイタリア、母系がスペインの人物で、自身はアルゼンチン出身の48歳だという。48歳。ちょいワルおやじっぽい外見で、まだまだ老け込んでいない。それなのになぜ陰茎ではなく睾丸だったのか。守備的ミッドフィルダーだったという現役時代のプレイスタイルが影響しているのだろうか。たしかになんとなく陰茎→攻撃、睾丸→守備という感じはある。もっとも陰茎はたしかにそうだが、睾丸は特に守備をするわけではない。
 それにしたってクリロナの巨大すぎる勃起である。クリロナって顔が整っていて筋肉ムキムキで、とても作り物めいている存在だ。ファンだとか心酔しているというわけではなく、とてもフラットな気持ちで、だいぶ神に近い生き物だな、ということを思う。それゆえにきっとクリロナの勃起したチンポって、見てもなんの感動もないだろうとも思う。実際に目にする前から、クリロナの勃起は想像できる。そういう意味で言えば、あのゴールパフォーマンスのとき、我々はクリロナの勃起をもう見ていたのだと思う。そしてクリロナはそれの表面を指で激しく撫ぜていたのだ。
 そんなはずがあるか、いくらクリロナだからってあんなに大きなチンポであるものか、と思われるかもしれないが、チンポって物質界だけのものではなくて、イデア界のそれのサイズとの合計で算出されるものなので、そう考えればクリロナのチンポはたしかにあの大きさになる。ヒトはそもそも霊長類で最大のペニスを持つ生き物だが、クリロナはその中でも最高レベルと言っていい。もっともクリロナはもう80パーセントくらい霊長類の括りから抜け出している存在なので、追放するべきかもしれない。クリロナはイデア界のペニスチャンピオンズリーグにこそ出場するのがいい。
 FIFAがクリロナの処分をするというのなら、その罪状は下品なパフォーマンスで相手を挑発したことではなく、ピッチの上でマスターベーションをしたことだろう。それはいけない。クリちゃん、それはいけないよ。

勃起旅行


起のことについてウェブ上で情報を探っていた。ウェブって自分の興味のある情報を得るための道具なので、どうしたって僕は勃起のことを中心に探ることになる。そして勃起について検索していると、普通に自分の勃起の写真を、とても淡いボカシで公開しているブロガーなんかがわりといて、そんなブログを開いてしまったとき僕はどう思うかと言えば、なんか頭が下がるな、と思うのだった。これまで僕はブログでさんざん勃起について語ってきたが、自分の勃起の写真を撮ってそれをアップするという発想はなかった。参考画像として勃起したちんこの写真を載せれば話が簡単に済んだところを、あくまで言葉で表現しようとした。そのほうが偉いんだよ、なんてことは一切ない。文章よりも画像のほうが偉いし、さらに言えば画像よりも映像のほうが偉い。だってデータ量が多いんだから。データ量は偉さ量。だから画像を載せずに文章でなんとかしようとすることは、勤勉なんかじゃなく、怠惰なのだと思う。自分の勃起写真を公開しているブロガーたちを見て、しみじみとそう感じた。それで、じゃあ今後は反省して勃起の写真を載せるのかと言えば、もちろんそんなことはしない。できない。できない程度の人間、できない程度のブロガーなんでげすよ、あっしは。という引け目を感じながら、これからも文章を書いていくしかない。
 それで、勃起系ブログの人々が、勃起の能力をいかにして高めるかという話題の際、必ずと言ってもいいほどに口に出す言葉に、「PC筋」というのがある。これはペニスから尻にかけてのあのあたりにある筋肉で、骨盤底筋とも言う。これがよく鍛えられていると、体型も崩れないし、尿も漏れないし、なにより勃起の持続力やパワーが増す、という風に言われている。それであの人たちはしきりに「PC筋トレーニング!」と言うのである。かく言う僕も最近それを意識して暮している。効果のほどは知らないけれど。
 それにしたってPC筋とはどういう言葉だ、という話で、気になったのでそれも検索した。そうしたら元は「pubococcygeus muscle」だと判った。どこで区切ればいいのかぜんぜん分からないけれど、なるほどやけにcが多いからPCとしておけば間違いなさそうだな、と思う。しかし発音がまったく分からない。できることなら友達との会話の際、「PC筋がさあ……」ではなく、「pubococcygeus muscleがさあ……」と言いたいものである。それで、こんなときはやっぱり映像様の出番だとなって、Youtubeで検索した。そうしたら外国人がこれについて説明している映像があり、それを繰り返し聴いた結果、これは「プィーボコクスィヅィアスマッスル」と発音するらしいと判った。流麗な発音にはだいぶ練習が必要そうだ。
 しかし新しい言葉を知ることができて、とても勉強になった勃起の旅だった。みなさんもせわしない日常を忘れ、たまにはゆったり勃起の旅に出てはいかがですか。そうだ、勃起しよう。