顔パンツを巡る冒険 8

 マスクは下着なのに堂々と見せてくれる、というところまで書いた。そこまで書いたところで、いちど短歌を挟んだものだから、間が空いてしまった。冒険に寄り道はつきものなのである。
 下着というのは本当によいもので、もしも神様からある日、
「特別に透視能力を授けよう」
 といわれ、
「マジっすか! やったあ!」
 と喜び、
「よかったじゃんねー。そんなに喜んでもらえるとこっちも嬉しいよね」
「いや、こちらこそっすよ!」
 などと和やかに話したあと、神様が
「で、度合はどうする?」
 と訊ねてきて、
「へ? 度合? 度合といいますと?」
「透視の度合。下着が見えるレベル? それとも裸が見えるレベル? どっちにする? あ、別にそれ以上でもいいけど」
 と問われたら、そこから僕は
「…………」
 と黙考を開始し、きっと2ヶ月半くらい考え続け、最後、ガリガリに痩せて、ギラギラと目を血走らせた末に、絞り出すような声で、
「……下着でお願いします」
 と答えると思う。つまりそれくらい、下着は尊いのだ。
 裸よりも下着を尊ぶのは、現代のルッキズム的な概念にも適合する。ルッキズムってほら、持って生まれたものについてどうこういったらいけないってことなんでしょ。だから持って生まれたものじゃなくて、その人の選んだもの、作ったものなんかを、褒めたり言及したりするようにしようね、と。その考え方と、裸よりも下着のほうがいい、というのはぴったり合致する。どんな裸かはそこまで興味がないのだ(だいたい分かるから)。それより、どんな下着を着けているのか、のほうがよほど気になる。「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人か言い当ててみせよう」はブリア=サヴァランの遺した言葉だが、じゃあ僕は「箪笥の下着の段を見せてみたまえ。君がどんな人なのか言い当ててみせよう」をここに唱え、遺しておく。僕の冒険のあとに続く者たちのために。
 さて顔パンツの話である。これでは単なる下着の話になってしまう。下着とは自己表現である、ということをここまで書いてきたが、自己表現でありながら、下着というのは公開されない。裏アカウントとかでは公開されていたりもするが、一般的ではない。女の子同士では、インナーパーティーとかがあったりするのかもしれないが、インナーパーティーなんて言葉はいま初めて、自分の打ったキーによって画面に現出して目にしたし、もしも本当に存在したとしても、自分がそこに参加することはまずないだろう。
 残念だ。誰が残念って、みんながだ。僕は女の子の下着を見ることができずに残念。そして女の子は、自己表現としての下着を見せられなくて残念。せっかく今日はかわいい下着なのにな! nanonina!
 そんな下着が長らく抱えてきたディレンマの救世主こそが、そう。顔パンツなのだ。顔パンツによる自己表現。説明するまでもなく、顔パンツがその役割を持つということを、われわれはこの2年間でさんざん見てきた。
 そして顔パンツがインナーの代替としての自己表現であるならば、次の展開として、こんなことが起ってくるのではないか。
 下着と顔パンツを、同じ素材で作ってみたらどうか。
 この発想により、冒険は新たな章へと進む。
 冒険の舞台は、次に「nw」へと進む。なぜ「nw」か。まさか縫ったのか。
 つづく。