ショーツの理由

 150枚くらい作っておいて何だが、ショーツ作りの動機がいまだ自分の中で定まっていない。「顔パンツ」という言葉に触発されて、布マスクを作るように真正パンツも作ってみよう、で作り始めたわけだが、その動機ならせいぜい5枚くらい作れば気が済んで話はおしまいだろう。しかし実際にはそのあともずっと作り続け、そろそろ1周年になんなんとしている。それは一体いかなるモチベーションで行なわれているのだろうか。
 しばし考えた末に、それは「ちんことの対話」なのではないかと思った。ちんこはきわめて身近な存在でありながら、その一方で高みの存在でもある。僕個人の所有物であることはたしかだが、同時にイデア界からの借り物であるような気もする。だからタイミングによって、とてもぞんざいに扱うこともあれば、奉るかのごとく丁重に扱う場面もある。つまり150枚ものショーツとは、ちんこへの貢物であり、そうやって日々献上品を納めることによって、僕はちんことより昵懇な仲になろうとしているのではないか、と思った。実際、毎日のように新しいショーツを穿き、新しい見た目、新しい着心地を与えたことによって、それまでの日々に較べて、僕とちんこの関係性は親密になったと思う。
 先ほど貢物という言葉を使ったが、日々新しく捧げられるショーツが、ちんこという男性性の象徴への貢物なのだとしたら、ショーツとはすなわち女だ、とも言える。なにぶんショーツという、一般的には女の子の下着に使われる言葉をあえて使うくらいなので、僕はショーツに、女性性を感じ取っている。製作したショーツを紹介しているインスタグラムでも、「このデザインのショーツは、こういう女の子が穿いてそう」みたいな言い回しをよくする。だから150枚のショーツは、150人の女の子のメタファーだ、ということもできる。世の中には、実在の女の子のショーツを、購ったり、あるいは盗んだりして、自分で穿いて興奮するという嗜好の男性もいる。知り合いにいるわけではないが、世に聞くに、いるに違いない。それを僕は、自作し、完成したショーツから女の子を想像し、そして創造することによって、同種の快感を得ているのではないか、という気がする。それは全てではないが、たしかにある。「女の子が穿いてそうさ」は、自作ショーツの魅力を語る上で、重要なファクターのひとつである。
 そんな自覚を持ち始めた折に、年が明けてすぐ、「クラスショーツ」という試みをした。年末から頭にあったものを、冬季休業を利用して実行に移したのである。完成品は「nw」に投稿したけれど、要するに「もしも僕が女子校の教師で、受け持ちのクラスが、クラスTシャツの代わりにクラスショーツを作ることにして、そして担任である自分の分も作られ、しかもそれをちゃんと穿いているか全員の前で脱いで確認させられたら」というストーリーの、そのショーツで、もちろん僕は実際には女子校の教師ではないのだけど、それなのにその学園の2年D組のクラスショーツはたしかに手元にあるわけで、どこかファンタジックな風味もある、特別な1枚となった。
 そしてこの体験を通して、僕はまたひとつ、ショーツ作りの動機において、新しい階梯へと進んだ。すなわち、件のクラスショーツが、教室で唯一のちんこ保持者である僕への、ティーンエイジャー少女特有の性的好奇心からの、「あげるからその代わりに穿いてるところを見せてね」という形での貢物なのだとしたら、はい出ました再びここで貢物というワード、だとしたらこれまでに作った150枚のショーツもまた、全てが実は受け持ちのクラスの生徒が僕に作って捧げてくれたものなのではないか、僕はショーツに対し、そういう受け止め方をすることもできるのではないかと思った。僕は女の子たちから、サイドの部分が2センチもない、フロントの上部から陰毛がはみ出る、それでいてちんこの膨らみはきちんと前に迫り出る、とても小さい面積のショーツを、怒涛の如く贈られている。そう考えたとき、150枚のショーツはまた一段、その淫靡な輝きを増した。