モーニングキャンディ賛歌

 モーニングキャンディ、と呼ばれる現象があるだろう。
 寒い地域の冬に、大気中の水蒸気が昇華してごく小さな氷晶が舞う、あの幻想的な情景、というのはダイヤモンドダストの説明であって、モーニングキャンディにはなんの関係もなくて、実際のモーニングキャンディは、少年が朝、股間の違和感で目を覚ますと、女の子がちんこを勝手に取り出して舐めしゃぶっている、という例のやつのことである。一般的には「朝フェラ」「お目覚めフェラ」「おはようフェラ」「寝起きフェラ」などと呼ばれる。それらの言葉がどうも気に食わなかった僕が、なにかもっといい言い換えはないかと思案して、しかしなにも浮かばなかったので、横にいたファルマンに「なんかない?」と訊ねたところ、返ってきた答えがこれだったのだ。
 それがいま確認してみたところ、なんと2010年の出来事だった。実は今年はモーニングキャンディ爆誕10周年だったのだ。2020年はほかにもっと大きなイベントが用意されていたような気もするが、思い出せないので、全世界的に今年はその年だということにしてしまえばいいと思う。しまえばいいと思うのだが、いかんせん世の中にモーニングキャンディという言葉は未だまったく浸透していないので、客観的に鑑みてその目はないだろう。(余談だが、本当にまるで浸透していないのだろうか? と抱くだけ哀しい疑念を抱き、「モーニングキャンディ」で検索をかけてみたところ、なんとそのままのネーミングの飴が、去年アサヒグループ食品から発売されていたことを知った。トーストを模したパッケージの、バタートースト風味のキャンディだそうだ。なにそれ手に入れたい、と色めき立ったのだが、トリッキーな味に世間の評判もいまいちだったようで、現在は終売となっていた。半年あまり気づくのが遅かった。ショックだ。僕がもっと人気のあるブロガーだったら、読者の誰かが教えてくれただろうに、オケラとアメンボしか読んでいないので情報が届かなかった)
 気に食わない、一般的に使われるバリエーションの中で、それでも無理にどれかを選べというのなら、「おはようフェラ」だと思う。これは一見いい。でもこの言葉は、「朝、少年が股間の違和感で目を覚ますと女の子がちんこを舐めしゃぶってる」という状態の、捉え方が根本的に僕の考えているものと異なる。どういうことかといえば、「おはようフェラ」という言葉は、女の子はフェラチオによって少年を起そうとしている、という認識で作られている。そうじゃないのだ。これはそんな実地的な目的のもとになされる行為ではない。ひとえに女の子がちんこを舐めしゃぶりたくて舐めしゃぶる、ただそれだけのことなのだ。少年が起きようが起きまいが関係ない。なんなら起きずじまいで射精まで至ってもいい。それならそのままお掃除フェラ(果たしてこれはこのままの言い回しでいいのだろうか)へと移行し、さらにそのあとも飽きるまで行為を続けるのみである。僕は女の子に、そこまでちんこ好きであってほしいし、実際にそうであると信じている(36歳、ふたりの娘持ちにして)。「おはようフェラ」にはそこまでの崇高さがないのだ。女の子にはちんこ以外の目的を持ってほしくない。頭を空っぽにしてひたすらちんこを堪能するという、ちんこの嗜好品性、それこそがモーニングキャンディの身上である。
 そんな気高い理念の下に提唱された言葉なのに、こうも流行らない。僕の伝播能力の低さ(クソ愚民とのレベルの違いに由来する)はとりあえず置いておいて、他になにか原因はあるのだろうかと考えて、モーニングキャンディという言葉は、説明するまでもないがちんこを飴に喩えて表現しているわけだが、だとしたら女の子がちんこを舐める行為を指すならば正確には「モーニングキャンディリッキング」(lick:舐める)とでも言うべきで、ただ「モーニングキャンディ」という名詞で、飴に模されたちんこ、ということを言うのだとすれば、その言葉の主語は女の子ではなく少年だ、ということになる。ここに誤解があったのかもしれない。少年の持つ朝の飴、というのがモーニングキャンディの原義なのだと考えれば、起きている側と寝ている側が入れ替わってくる。つまり、寝ている女の子の口に、少年がちんこを持っていく、女の子は寝ぼけながらそれを舐めしゃぶる、それがモーニングキャンディの真の意味なのかもしれない。それはフェラチオじゃなくてもはやイラマチオではないのか、と思うかもしれないが、モーニングキャンディという言葉にはフェラもイラマも入っていない。だからそれは問題ではないし、そもそもあらゆるイラマチオは結局のところフェラチオだろう、ということも思う。そしてもちろんこの場合も、少年は別に女の子を起すことを目的としない。ただ女の子に、女の子の大好きな飴玉を与えてやりたいという、その一心である。そうなのだ、モーニングキャンディという言葉は、そんなにも優しい言葉だったのだ。これが時代とともに、人々の口から口へと伝わるにつれて変遷を繰り返した結果、女の子が先に起きて舐めしゃぶるケースも、「リッキング」を省略してモーニングキャンディと呼ぶようになった。しかしもともとがあまりにも優しい、慈愛に満ちた、甘々しい言葉なので、「フェラ」を組み込む「おはようフェラ」や「お目覚めフェラ」にどうしてもパンチ力で敵わない。だからいつまでもポイズンの世の中には浸透しない。でもそれいいんだと思う。優しさに包まれて射精したい。

不入

 射精をするとそこで終わってしまって寂しいから、いつまでも勃起して愉しい状態を保つための心得として、「不出」というのがある。ださず、である。女の子とエロいことはするけれど、女の子のほうだけイカせて、自分はいつまでも射精しない、女の子を、エロ愉しさを増幅させるための装置として利用する考え方である。
 これはたしかに理屈で、本当なら射精なんてしないほうがいいに決まっているのだ。いちどの射精で、200メートル全力疾走分の体力を消費、なんてことがまことしやかにいわれるし、そもそも射精したあとの寂しさ、もの哀しさといったらない。いわゆる賢者タイムのなにがいちばん哀しいって、射精する前の愉しかった自分を、否定する思考になってしまうことだと思う。自分はなんてくだらないことに時間と情熱をつぎ込んでしまっていたのか、などと感じてしまう。それは不幸なことだ。
 だから「不出」は守れれば守るに越したことはないのだけど、でも実際問題として、挿入しておいて射精しないってどういうこと? という話だ。自分自身の消化不良感はもちろんのこと、なにより相手の女の子の気持ちになって考えたとき、挿入をされたことがないので推測にはなるが、挿入をされながら相手が射精に至らなかったら、きっとムッとすると思う。普通に考えて中折れを疑う。そんなに気持ちよくなかったか、と憤りたくなることだろう。それを「俺、不出信奉者やねん」で納得させるのは難しいはずだ。
 じゃあどうするかということを考えて、「挿入」と「不出」が両立しないのならば、そのどちらかのチェックを外すほかないという結論に至った。それで多くのパターンでは「不出」のチェックが外され、男たちはもの哀しき賢者となってきた。では逆に、「挿入」のチェックを外したらどうか。つまり「不入」である。いれず。
 実はこの心得については、前々から構想していた。例えばエロ画像を、漫然と見たりしていて思うことは、挿入って、してしまうともうつまんねえな、ということだ。根元までずっぽり嵌まっている状態って、当人たちにとってはそりゃあ気持ちいいのだろうが、見ていてぜんぜんおもしろくない。だって古事記でいうところの、成り成りて成り余れる処と、成り合はざる処の、双方がピタッと組んでしまっているから、完璧な状態になってしまい、見た目的には無なのだ。ざっくばらんにいえば、ちんこもまんこもない、互いの脚の間をくっつけているだけ世界がそこにはできあがり、見ていてなにも愉しくない。興奮しない。ちなみにこの問題を解決するための方策として、二次元イラストにおいては、断面図という手法がある。膣内にペニスが入り込んでいる様を、アントクアリウムのように断面で見せてくれる。なるほどな、とは思うが、正直いってあまり興奮にはつながらない。膣内の様子は、もうそこはエロの領土ではないような気がするからだ。だからもういっそのこと、入れなければいい。入れたらもう、あとは射精まで待ったなしになってしまう。それは祭りに似ている。始まってしまえば、すぐに終わりを意識してもの哀しくなってしまう。始まる前の、準備している期間がいちばん愉しい。セックスもそうだ。だから入れる直前の、互いに欲情して、男はよく勃起し、女の子はよくほぐれているという状態が、実はいちばん多幸感があるし、だからいつまでも続けばいいと思う。
 そしてこの、挿入には至らないけれど永く欲情している状態、これとはすなわち、童貞の所業である。童貞は、挿入に焦がれ、挿入への思いを募らせ、しかしそれがままならず、夢想し、煩悶する。それが実は、セックスの奥義のひとつである「不入」の体現であったのだ。セックスの修行者が「不入」の階梯へと進んだとき、自分はかつて完璧なる「不入」の体現者であったことを喝破する。武道の動きや呼吸法などで、赤ん坊が自然とやっているようにやる、というのが意外と奥義であったりするように、セックスの神髄というのもまた、性に目覚めたばかりの、性という世界における赤ん坊のような、入り口に立ったばかりの存在としての童貞にこそあるのかもしれない。その入り口は、どこまでも続く長い道程の入り口のようで、実は女性器とは、入り口であり出口でもあるので、スタートがゴールでもある(もといそのどちらでもない)。つまりセックスとは、セックスをしないこと、ともいえる。あるいは、セックスをしないセックスをするのだ、ともいえる。これを「不入」といい、われらが流派における珍宝とされております。

きんたまをめぐる冒険

 「無辜の民」という言葉はどうして睾丸という字を使うのだろう、睾丸がないことがどうして罪がないことになるのか、睾丸は罪だっていうのか、と気になって確認したら、ふたつは違う字だった。無辜の辜は、「つみ」という意味で、古いに辛い、と書く。それに対して睾丸の睾は、「買」にも使われる、へしゃげた四みたいなパーツ(よこめ。あみがしら。などと呼ばれる部首である)にノの字が加わったものに、幸せと書く。辛いと幸せだったのだ。ちなみに辛いと幸せは、路上詩人などがよく、辛いに一本足すと幸せ、などとホザくが、実際のところ漢字の成り立ち的には近いのかどうなのか、と確認したら、「辛」は入れ墨をするための針の象形で、もちろん昔の入れ墨なので罪人が受ける罰的なものらしい。それに対して「幸」は、じゃあ180度違ういい意味なのか、といえば、どっこいそんなこともなくて、これは手枷の象形で、「執」という字の右側は、手枷を嵌められた人を表しているのだそうで、そこからその右側がない「幸」が、手枷を嵌められるのを免れたということとなり、しあわせという意味になったらしい。ややこしいし殺伐としている。そうか、しあわせとは、手枷を嵌められないことだったのか。じゃあもう大体みんなしあわせなんじゃん、ともいえるし、誰もがみんな見えない手枷を嵌められているのだ、ともいえる。
 ここまでが余談と前置き。このブログは日本語ブログでもなければ雑学ブログでもない。猥談ブログである。なのでここから先、睾丸をぶら下げる、ちがう、掘り下げるのがこの記事の本題である。
 そんなわけで睾の字義を見てみると、「1、さわ(沢)。2、高いさま。広大なさま。3、きんたま。睾丸」とある。睾丸が一番じゃないのかよ、という感想がまず浮かぶ。そして「さわ」ってどういうことだ、と思う。なので「沢」の項を見てみる。するとその字義は、「1、さわ。つねに浅く水にひたっている所。草木のしげっている湿地。2、つや。ひかり。3、うるおす。ぬらす。しめらせる。めぐむ。恩徳をほどこす。4、もてあそぶ。5、もむ。こする」となっていた。ずいぶんと多岐に渡り、そしていろいろ面白味のある意味たち。ここに「沢」の旧字体も載っていて、それで気づいたが、なるほど「睾」は「澤」の右側とほぼ同一なのである。じゃあこの澤の右側はどういう意味なのかといえば、「つぎつぎに手繰り寄せる」という意味らしい。駅とか、鐸とか、なるほどうっすらと意味が繋がっている。水が次々にわいて出るから澤なのだ。それで、じゃあその意味と睾丸の睾はどう繋がってくるのか、という話になるが、残念ながらこれは解説になかった。しかし睾丸で生産された精液が日々排出されることを思えば、イメージは自明だともいえる。ところがその一方で、睾は「皋」の異体字だ、ということも漢語林はいう。「皋」は同じくコウと読み、旧暦五月、皐月の「皐」と同じ漢字であるという。ならば「皐」はどういう意味の漢字なのか、と見てみると、これもやはり字義の筆頭は「さわ」である。しかし解字を見ると、「白い頭骨と四足の獣の、死体の象形から、しろくかがやくの意味を表す。転じて、水面のしろくかがやく、さわ・ぬまの意味を表す」とある。象形はどうしてこうも内容が殺伐としているのか、という感想は置いておくとして、「睾」を巡ってその親権を争う「澤」と「皐」で、同じ「さわ」の意味へのアプローチがぜんぜん違うではないか。どうなっているんだ。「睾」は「澤」の子なのか、それとも「皐」の子なのか。字面は「澤」の右側とよく似ているが、読みのコウは「皐」のそれである。さらにいえば「澤」の右側と唯一異なる、頭のノの字。これは「皐」からもらったもの、というふうにも見える。ふたりの遺伝子がマーブル状に現れていて、もはや「子は鎹」状態。さらにいえばそうして生まれた「睾」がきんたまの意味になっているのだから、話はやけに高い水準で成立している。これは落語だろうか。ちなみに「睾」の解字は、「皋の異体字」のあと、さらにこう続く。「高に通じ、高いさまを表す。タク(引用者注:澤の右側)にノを加え、男の身体の、さわの部分にある突起したもの、ふぐりの意味をも表す」。そう。睾はさらに「高」へも通じ、そのために字義の2にあったように、「高いさま。広大なさま」という意味も持つ。きんたま以外の意味は余計だろう、と最初に見たときは思ったが、すなわちきんたまとは高くて広大な存在なのだ、と捉えると清々しい気持ちにもなってくる。しかしこの字義の骨子はそのあとだろう。「男の身体の、さわの部分にある突起したもの」。さわの部分? 突起したもの? 急になにを言い出したのか。突起したものは、まあ判る。だってそれ以外に突起したものなんてない。それが、「ノ」なのか。なぜわざわざそのまま「澤」の右側ではなく、「ノ」が付与されているか。それは睾丸の上にある陰茎を表しているからだったのだ。すごい。どっち向きなんだか知らないが、だいぶ反っていることは間違いない。元気だ。しかし「突起したもの」は判るが、「男の身体の、さわの部分」がやはり判らない。なんだろう、「さわの部分」って。精巣とか、そこらへんのことを指しているのか。それにしたってやはりこの、ひらがなというのがなまめかしいな、と思う。女の子のその部分のことを、陰茎を刀に見立てて、さやというときがあるが、そのことも連想して、ますます淫靡な気持ちになる。そうして「男の身体の、さわの部分」に思いを馳せて、頭をよぎるのは、「沢」の字義にあった数々の文言だ。もむ。こする。うるおす。ぬらす。しめらせる。恩徳ほどこす。めぐむ。睾丸。思わず語順を調整して、七五調に仕立ててしまう。春の七草の覚え歌のように、「男の身体の、さわの部分」としての睾丸の字義を、これを使って覚えていただければ幸いである。このうち、なんといっても「恩徳をほどこす」がいい。セックスってなんだろう、ということをずっと考えているが、セックスとはつまり、恩徳をほどこすことなのかもしれない。セックスは女の快楽のほうがはるかに大きいっていうし。ちょうど恩徳という字には、僕が男性器の象形に違いないと主張している「心」がどちらにも入っている。じゃあもう、ちんこって恩徳なんだ。ありがたいものなんだ。かしずくべきものなんだ。
 2020年はちんこのこと、恩徳って呼ぼうかな。なんかオントクって、実際にどこかの外国語でそう呼ばれてそうな語感だと思う。