エネゴリくん


谷翔平の調子について、所属するチームの監督が「フルゴリラ」という表現を使い、それがちょっと話題になった。フルゴリラとは、準備万端というか、臨戦態勢が整うというか、ばっち来いというか、なんかそういう状態を指す言い回しらしい。
 わかりやすい! 他言語の表現とは思えないくらい、すさまじくスッと入ってくる表現。外国語の表現って、なんでこれでこういう意味になるの、というものも数多くある中で、これは出色のわかりやすさだ。こんなの、日常ですぐ使える。そしてきっと、大谷の報道を見なかった相手にだってすんなりと伝わる。すごい。もしかしてエスペラント語じゃないの。
 言わずもがなの分析をするならば、やっぱりゴリラがいいんだと思う。ゴリラが物事を痛快にしている。ゴリラにはそういう効果がある。これを言っている僕の頭には、もちろん小川菜摘による「意気消沈ゴリラ」がある。あれもすごくよかった。そう考えると、ゴリラには限りない可能性があるのかもしれない。ゴリラこそが未来の、枯渇することがない究極の資源なのかもしれない。そうだ、フルゴリラをもらってばかりだとアメリカさんに悪いから、こちらからは「デスポンデンスゴリラ」をお返ししようか。なんかアフリカ沖にある島とかに、実際に棲息してそうな感じがある。そしてみんな落ち込んでいる。
 ところでここからが本題なのだけど、準備万端という意味でフルゴリラと言うと、なんとなく勃起的な連想が起りがちだと思う。そもそもこれまでも、最大限度の勃起を示す言葉として「フル勃起」という言い方があったから、余計にフルゴリラでちんこのことを追想しやすいのだと思う。しかしながら実はゴリラという生きものは、ちんこに関してはぜんぜん大きくないのだった。検索したら、3センチくらいと書いてあった。なぜならゴリラはハーレムを形成するタイプの生きものなので、ちんこが大きい必要がないのである。だから女の子に対し、ちんこが勃起したことをアピールする際、「もう俺の、フルゴリラだよ……」と言ったら、それは逆効果ということになる。くれぐれも注意されたし。
 しかしハーレムを形成するタイプの生きものだとちんこが大きくなくなる、というのはとても示唆に富んだ話であると思う。その話に触れたとき僕の頭には、やっぱり甘やかすのはよくないんだな、とか、温室育ちは弱いってことだな、などという感想が浮かぶのだけど、それはちんこが大きいほうがよいという思想が根幹に(どうしても)あるからで、そんな下賤な観念に冒されていない人は、争いがなくなれば武器はなくてもよくなるのだな、という風に思うのかもしれない。高尚ですこと。インポなんじゃねーの。
 ちんこの大きさと言えば、ずっと男子の頭を悩ませ続ける、成人男性のちんこの平均サイズ、というのがある。しかし勃起状態はひとりの人間の中でも状況によって変わるし、そもそも正式な測定方法というのも確立していないため、そのテーマで示される数字には、実はなんの信憑性もないとされる。それにアンケートで勃起時のサイズを書く欄があるのだとすれば、男は絶対に自分のちんこを贔屓して、下腹部をへこますなどして、2センチくらい水増しするに決まっているのである。しかしこの水増し行為は、よく考えてみると、やってもなんの得もない。むしろ損である。そんな無記名のアンケートで見栄を張ったところで実利はひとつもないのに対して、そうやって水増しされた回答ばかりが集積されたアンケート結果は、形而下の日本人成人男性のちんこよりも、全体的に水増しされたスケールの、形而上のちんこになってしまうからだ。そしてその数字を見てデスポンデンスゴリラになるのは自分自身なのである。だから、今後もしも勃起時のちんこのサイズを問うアンケートに答えることがあれば、そのときはこれまでとは逆に、サイズを間引きして書くべきだ。その行為による恩恵は、巡り巡って自分に返ってくる。全体的に小さめの結果となったアンケート結果を見て、自信を得ることができるようになるからだ。もういっそ、間引き程度ではなく、全体の平均値を思いきり下げてやるつもりで、「3センチ」と書いたっていい。どうやら今回のアンケートの回答者に、フルゴリラが1頭紛れ込んでいたらしい。ウホウホ。

傷つく人もいるんです


クハラの二次被害、というのを最近のテレビで知って、驚嘆している。
 セクハラを受けたと主張する相手が、そのことを相談してきたとき、その会話中でまたセクハラ事案が発生してしまうという、それがセクハラの二次被害だという。テレビでは「部長がセクハラしてくるんです……」的な相談を、女性社員が他の男性社員にしていて、それに対して男性社員が「そ、そうか……。まあそれだけ○○さんが魅力的ってことだよね、はは」と答えたら、それはもうアウトということだった。マジかよ、と思った。その場面で、それ以外にどう言えばいいというのか。
 正解は、完全にシステマティックに、当時の状況や、言われたこと、されたことの詳細を聞き出し、記録する、というものらしいのだけど、どうも無理がある気がする。
 話をしやすくするために、セクハラを受けた女性をA、セクハラしたとされる部長をB、その相談を受けた社員をCとする。もっとも、性的な話をしている際に、AとかBとかCとか、それだけでなんとなく卑猥な感じがする。俺がCさんだとしたら、じゃあ俺はセックスさんということになるね、はは、とAさんに言ったら、それはやっぱりセクハラになるのに違いない。まあセクハラなんだけど。
 でもセクハラってそもそもなによ、という話で、それは行為によるたしかな線引きがあるわけじゃなく、有名な例として、頭ぽんぽんというのがあるじゃないか。あれをされると女子はめっぽう嬉しいとされるが、ただしもちろんイケメンに限る、というあれである。じゃあここにイケメン社員としてDも参上させて、Aは、Dからの頭ぽんぽんは許す(どころか悦び、ショーツを濡らす)けれど、Bからのそれは「セクハラを受けました!」となるわけである。それが本当に厄介な部分だ。だってBは、自分のことがBだなんて思ってないんだから。Dだと思っているんだから。だから自分が頭ぽんぽんしてやると、Aは悦んでショーツを濡らすと思っている。だからやる。でも現実ではBはDじゃないので、Aはセクハラ事案だとCに相談することになる。一方DはDで、自分のことをDだと自覚しており、Aを悦ばせてショーツを濡らさしてやろうという信念のもと、頭ぽんぽんする。そうするとAはまんまと悦び、ショーツを濡らす。そしてAはCに向かって、またそれを話す。ただしそれはセクハラ相談ではなく、ノロケ話となる。ひどい話じゃないか。なにがひどいって、だって本当はCはAのことが好きなのだ。それだのにAはCのことを完全に性愛の対象から外している。だからセクハラの相談もするし、ショーツを濡らした話もする。その程度はもはや、嫌悪感という形で攻撃の矛先となるBよりも、さらに遠いのかもしれない。本当は、俺がいちばんお前のショーツを濡らしたいと思っているのに……。
 話が脇道に逸れた。脇道と言うか、パラレルワールドかもしれない。これは社内におけるセクハラの二次被害の話だった。いやだから、セクハラの相談を、信頼しているのかなんなのか知らないが、異性の社員ひとりを相手にこっそり行なう、というのがそもそも間違いと言うか、怪しいと思う。本当に困っていて救われたいと思っているのなら、そんなことはしないんじゃないか。もっとしかるべき行動に出るのではないか。それなのにこうしてふたりきりの状況でセクシャルなハラスメントの相談をしてくるということは、それっていうのはつまり、要するにそういうことなんじゃないか、Bによって傷つけられたデリケートな心の襞を、俺のフェザータッチで癒してほしいんじゃないの? そういうことだろ、という、どぶろっく的な発想が生まれてくる。と言うか、それしか生まれてこない。だとすればここにセクハラの二次被害の懸念は全くない。むしろセクハラという雨が降ったことで固まる地だけがある。固まるのは地だけではないだろう。固まればあとはこっちのもんだ。思いが通じ合ったAとCの間に、障害はなにもない。赴くままに心を通わせるふたりの姿を、遠くからBが眺めていた。「まったく、世話が焼けるふたりだぜ……」。ぶ、部長かっけぇ!
 話がどうしてもすぐにパラレルワールドに飛ぶ。僕の頭が作り出すそのパラレルワールドには、本当のセクハラというのはなくて、セクハピだけがあるんだと思う。こんな無邪気な僕にこの問題を語る資格はない。退散する。

いつも携えてくれてありがとうね


的なことについて語るとき、ついおっぱいのことを軽んじてしまう。水着とか、体位とか、なんかそういう付加価値的な要素にばかりかまけて、気がつけばおっぱいそのものを放っぽってしまっていたりする。よくないと思う。たぶん、おっぱいはあまりにも前提的であるために、わざわざ尊ぼうという気が起きないのだと思う。物心ついたときからいつもそばにいた幼なじみの魅力に気づかないのと同じ。そんなことだと、いつか痛い目に遭う。幼なじみがテニス部のキャプテンと付き合いはじめてから、ようやく狂おしい気持ちになるのである。なってからでは遅い。テニス部のキャプテンの手の早さといったら相当なもので、お前が幼なじみとキャプテンとの交際を知ったときには、もう既に幼なじみのおっぱいはキャプテンに死ぬほど蹂躙されている。阿呆かってくらいに揉みしだかれている。もはや触れられていないときでもいつもキャプテンの手の感覚が残っていて、そのことを意識すると体の奥のほうが熱くなってくるくらいの感じになっている。
 だからそうならないために、常におっぱいへの感謝の気持ちを持って生きなければならない。生きねば。「あって当然」という発想ではいけないのである。おっぱいなんてただの脂肪の塊、という言い方があるけれど、物理的な組成なんかどうだっていいのだ。と言うより、ただの脂肪の塊では不十分だと言うのなら、その人は一体おっぱいがなにでできていたらいいと言うのか。大事なのは、おっぱいというものを、女の子がいつも携えているという、その点だと思う。なんかね、女の子っていうのはね、胸部に脂肪の塊をふたつ作ってね、衣服を膨らませてね、暮しているんですよ。そこが本当に素敵なことだと僕は思うんですよ。いつも携えているという点では、脚の間に海綿体とかをいつもぶら提げている男も同じで、だからそれももちろん尊い。尾羽の長いニワトリとか、角の巨大なシカとか、生存競争に直接の効果をもたらさない余分な部位を持つ生きものは、それが大きければ大きいほど、そんなものに余計な力を注げるほどに自分はパワフルな生命体であるとアピールしていると言われるが、我々人類のおっぱいやちんこもその類でありつつ、さすがは文化を持つ理性的な生きものであるために、判りやすいサイズにだけ囚われるのではなく、ただもう、「あることに感謝」という、高次な捉え方をすることができる。優良な遺伝子がどうだとか、フェロモンがどうだとか、そういう下賤な獣的な発想じゃなくてね、女の子におっぱいがあって、男にちんこがあるという、ただもうそれが素晴らしいじゃないかと。
 だから僕の教団では、男性信者は女性信者の胸元に「ありがとう」と挨拶をするし、女性信者は男性信者の股間に「ありがとう」と挨拶をする。その心なんですね。