ちんしょぼ

 ひとつ前の記事を書いたあと、自分の中では、妻が少し右を向けばどんなものを見ているのかすぐにバレてしまう状況でエロサイトを眺めることに、大義名分が得られた気持ちになり、そして眺めていたのだけど、ファルマンはまだその投稿された記事を読む前だったので、少し右を向いた瞬間に僕の頭越しにエロサイトが見えて、「なに見とんねん」という話になった。それで僕は、これこれこういうことなんだよ、とブログ記事を示して弁解したのだけど、「はあ?」と一蹴された。おかしいな。確固とした大義名分を手に入れた実感があったのだが、他者には通用しない手形だったのかもしれない。あるいは、経済社会においてなんでも買えるクレジットカードを持っていても、お金の概念さえない未開の地ではなんの価値もない、みたいな感じか。とにかく通用しなかった。びっくりした。しかも、「見るにしたって、そんな、あまりにも下品な、そんなのやめてよ」といわれたのだが、そのとき開いていたサイトは、僕が見ているエロサイトの中では、だいぶ穏当な部類のものだったので、なんかもう詰んだな、と思った。
 どうやら僕はもう、のびのびとエロサイトを眺めることは、できないらしい。そして前記事にも書いたが、こうしてエロサイトを眺めることができない日々が続くと、ちんこの筋力、それはただ単にセックス能力というわけではなく、ちんこ発想で世界を明るく照らす力とでもいうべきものだが、それはどんどん衰えていって、取り戻すこともかなわず、やがて完全に枯渇してしまうことだろうと思う。
 そのとき爆誕するのがなんなのか、分かりますか。
 ちんこがただの黒ずんだ排泄器官でしかなくなった、しょぼくれた、おじさんですよ。ちんしょぼおじさんですよ。エロサイトを排斥する倫理観は、この世にちんしょぼおじさんを生み出すんですよ。いいよいいよ、ちんしょぼおじさんで溢れ返ったユートピアがお好みならば、そうやってエロサイトを邪険にしておればいい。エロサイトを邪険にするあなたがたを見て、おじさんたちは優しく微笑む。そしてそのおじさんたちのちんこは一様にしょぼくれている。世界には頻繁に勃起するちんこと、しょぼくれているちんこしかない。その選択肢において、あなたたちは後者を求めたのだ。そのちんしょぼユートピアに、いったいどんな幸福があるだらう。

凛と咲く花

 模様替えにまつわる話ばかりになるが、先日の模様替えの結果、これまで互いのパソコンの背面を突き合わせるようにして、向かい合っていた僕とファルマンの机は、やっぱり机って素直に壁に面したほうが部屋が広く使える、という何度目かわからない発見によって、北側の壁を向く僕の左後ろにファルマンの机、西側の壁を向くファルマンの右横に僕の机、みたいな配置になって(向きを東西南北で言い表すの、非常に田舎者っぽい)、そうなるとどういうことになるかというと、僕がエロサイトを漫然と眺める時間が、以前に較べて大幅に減った。コロナ禍の居酒屋の売上くらい、ガクンと減ったと思う。
 それで、こうしてブログを毎日ペースで書いたり、部屋の広くなったスペースで裁縫のことをしたり筋トレをしたりしているので、いいことづくめだ。いいことづくめである。いいことづくめなのだけど、心のどこかで常に、(エロサイトを漫然と眺めたい……)という思いがくすぶり続けている。エロサイトを漫然と眺めるのって、本当に生産性のない行為で、時間ばかりが空費されるのだけど、でもこうして禁断症状のようなものが出て、渇望感があるということは、精神的になんかしらの作用をもたらしていたのだと思う。そしてそれは、人には無駄な時間も必要なんだよ、などという、なにかいっているふうの、なにもいっていない理由なんかではなく、もっと実際的な、それこそ筋トレ的なものだったのではないだろうか。
 すなわち、ピアノだったりバレエだったりで、1日サボると取り戻すのに〇日かかる、みたいな、それくらい厳しくて高度なジャンルなんですよ、というアピールとしか思えないいい回しがあるけれど、エロというのもまた、これとまったく同じことがいえるのではないだろうか。ましてや僕は38歳である。若い頃ならば意識せずとも衰えることなどなかったが(そもそもサボろうにもサボれなかった)、ぼちぼち、うかうかしているとそっち方面が薄らいでいってもおかしくない年齢である。自然に任せて薄らぐのなら、薄らがせればいいではないかと思われるかもしれないが、やっぱりそんなわけにはいかない。性欲だと、まるでそれが清廉で正しいことかのようだが、体型で考えたらどうだろうか。代謝が落ちてきて、下腹が出たりする、中年からの体型の変化を、なすがままに任せて放るのが、潔くてかっこいいだろうか。そんなことないだろう。性欲だってそれと一緒だ。だから僕は意識を高く持って、現状の性欲を保とうと努めなければいけないのだ。エロサイトを漫然と眺めることは、つまり僕にとって筋トレみたいなものだったのだ。筋トレならぬ、いわゆるひとつの、チンのほうですけどね(哄笑)。
 であるからして、この配置になり、自由にエロサイトを眺められないことは、大いに問題がある。この問題を打開するにはどうしたらいいか。答えはひとつだ。不意に画面を見られて、咎められても、くじけず、眺めたいときは眺めればいい。高い志を持っていれば、周囲の雑音なんか気にならない。この道をゆく。ゆけばわかる。歩いたあとに花が咲く。

渡りたい渡れない

 先日部屋のわりと大規模の模様替えを行ない、机周りがとても整ったのだが、それにあたって処遇に困ったのが、純粋理性批判(二次元ドリーム文庫)および社会契約論(美少女文庫)の群である。困ったというか、僕は別に困らないのだけど、こうして模様替えを行なうたびに、それの詰まったミニ本棚がファルマンの目について、「ちょっとそれはもうどうなんだ」ということを言及されるのだった。家に帰るまでが遠足であるように、ファルマンにエロ小説のことで苦言を呈されるまでが、正しい模様替えなのかもしれない。
 「どうなんだ」というのは、もうどちらもレーベルとして完全にオワコンではないのか、エロ小説文庫というジャンルの役割は既に終わったのではないか、という指摘ではもちろんなく、もう10歳、二次性徴間近の娘を持つ父親として、そこまで厳重に隠すというわけでもなくこういう本を保持しているのはいかがなものか、という意味である。
 それをいわれると、若干の心苦しさはある。しかしその一方で、娘たちが妙齢になるからこそ、父親は青春の、もとい本当にくだらない当て字になるが、性春の象徴であるこれらの本を、手離してはいけないのではないかと思う。これを手離してしまった瞬間に、いまの僕と、あの頃の僕は、陸続きではなくなる。つまりこれらの本は、橋なんだと思う。橋の名は勃起橋。ただいちど渡ればもう戻れぬ、振り向けばそこから思い出橋。勃起の先に、あの頃の僕がいる。
 最近、勃起の種類ということを考える。勃起とは海綿体が膨らんで起る生理現象だが、結果として現れるそれはどれも変わらないように見えて、実は、いかにして醸成されたものかによって、その中身はぜんぜん違ってくると思う。やはり血流ということで、液体として捉えると、カッと沸かした湯はすぐに冷め、じっくり長く火を入れたお湯はなかなか冷めないように、勃起もまた、弱火でゆっくり作り上げた勃起は、堅牢で濃厚であると思う。そして勃起における弱火とはなにかといえば、それは活字なのだ。画像や映像は、瞬間湯沸かし器のごとく勃起をもたらす。しかしそれは臓腑に降ればすぐに醒めてしまう。それに対して文字によって仕立てられた勃起は、いつまでも熾火のように熱を持ち続ける。僕はエロ小説の、そこが好きだ。そこに価値があると思う。
 だからやっぱり手離すことはできない。たぶんもう増えることはないのだけれど(そこに一抹の寂しさを覚える)、かつて5倍をはるかに超える量があったところから、それこそ弱火で長い時間をかけ、凝縮された結果いまの量となったこの結晶のような数十冊を、僕はやはり常に目の届く場所に置いておきたいと思う。

セクT

 先日ショッピングセンターを歩いていたら、「DAKKO SHITE!」と大きくプリントされたTシャツを着ている幼児がいて、この手があったか! と膝を打った。
 ウケを狙ったメッセージTシャツって大抵はスベっていて、なぜ押し並べてスベるのかといえば、そのTシャツを着て街を歩くと、赤の他人(素人)が赤の他人(素人)に呼びかける形になるため、居た堪れない空気が醸成され、スベるのだと思う。なにか言ってスベるのは一時のことだが、なにしろTシャツは家に帰るまで着続けるので、その間ずっと、絶え間なくスベり続けることとなり、人はそんなに長くスベり続けると、肉体も精神もおかしくなる。実際、肉体も精神もおかしいような奴しか、そういうTシャツは着ない。
 普通に考えれば、「DAKKO SHITE!」Tシャツは、その括りである。普通の人が着ていたら、ウケ狙いどころか、セクハラでさえある。いろんな意味で、公序良俗に反しているTシャツだということになる。それが幼児であるというだけで、成立している。たぶん「かわいい」の評さえ得られることだろう。デザインそのものも垢抜けていて、内容に関係なく買ってもいいようなものだった。検索したところ、ファッションセンターしまむらで売っていたものらしい。なるほどなあ。
 最近さっぱり使っていないが、ステカのことが頭をよぎる。「DAKKO SHITE!」Tシャツは、自作しようと思えばできる。しかし上記の理由により、大人である僕が「DAKKO SHITE!」Tシャツを着るのは問題がある。大人の、それも男は、基本的に抱っこしてもらえない存在だ。それだのに「DAKKO SHITE!」と求めるからよくない。その齟齬が周囲の人々に不快な思いを与える。スベっている。抱っこは幼児のものだ。成人男性は、成人男性にふさわしいものを求めるべきだと思う。
 というわけで僕はここに、「FELLA SHITE!」Tシャツを提案したい。
 フェラチオは、綴りが「FELLATIO」なので、本当に期せずして、「DAKKO」と「FELLA」で、なんとなく子音と母音の構成が一致している。ならば「だっこ」に引っ張られて、こちらも「ふぇっら」と発声したっていい。それでいくらかでもポップさや可愛げが出て、女の子たちの抵抗感や拒否感が減ずるのならば、発音なんて如何様にでもしてくれて構わない。
 もっともここまで書いて思い出したが、僕は去年や今年の夏、ステカで作成した「BUNS SEIN!」Tシャツを着て普通に外を歩いているが、このブログのタイトルでもあるこれは、改めて言うまでもなく、まんぐりがえしを意味しているので、若干のいまさら感もある。もしかすると僕は、肉体も精神もとっくにおかしいのかもしれない。

アシタカせっ(くす)記

 金曜ロードショーで夏にやっていた「もののけ姫」を観て、やけに感動した。暑さとか、コロナ禍とか、そのとき置かれていた状況とか、思えばいろいろ停滞していた精神状態の折、もちろん身の入った読書なんかも出来ずにいた中で、見ごたえのある物語に感銘を受けたということかもしれない。そしてこれは僕に限ったことではなく、一緒に観たファルマンも興奮していたし、さらにいえば職場の同僚も、僕としゃべっていたわけではないが、「昨日「もののけ姫」を観て感動して、どうでもいいバラエティとかばっかり観てないで、ああいうのも観なきゃダメだなって思った」と話し相手に向かって語っていて、どうも今回の「もののけ姫」は、ずいぶんと人々の心に刺さったものらしかった。
 観たのはもちろん何度目かになるが、ジブリ映画は往々にしてそうであるように、今回も多々新しい発見があった。ひとつは、「これって実はほとんど、主人公が男で、舞台が日本の、ナウシカなんだな」ということである。タイトルでミスリードされているが、もののけ姫、すなわちサンなんて、ナウシカにおけるアスベルとまではさすがにいわないが、実はそこまで重大なキャラクターではない。この話は、なんてったってアシタカだ。「もののけ姫」とは、こんなにもアシタカがひたすらかっこいい話だったか、と思って、思ったあとに当時のドキュメンタリーのことなどを振り返ってみたら、「もののけ姫」はもともと「アシタカなんとか」がタイトルだったんじゃなかったっけ、ということを思い出し、検索したらなるほど「アシタカせっ記」というのがそれだった。ちなみに、「せっ記」ってなんだよ、とまた検索したら、「せつ」の部分は宮崎駿のなんと創作漢字だそうで、それは敏夫とかに変更されるよ、と思った。とにかく、やっぱり本質はアシタカの物語だったのだ。
 全編アシタカはかっこいいのだが、最もすごいと思ったのだが、本当に最後のほう、ジコ坊が取ったシシ神の頭を、デイダラボッチになった体に返そうとするシーンだ。ドロドロが大地を埋め尽くし、とても混沌とした状況の中、誰もが惑い、どうしていいのか分からず右往左往している中、アシタカだけが迷わない。ジコ坊を説得して、頭を入れていた桶を開けさせる。そして出てきた頭をサンとともに(別にサンなんていてもいなくてもいい)頭上に掲げ、こういう。「シシ神よ! 首をお返しする! 鎮まりたまえ!」これがすごいと思った。そもそもシシ神が伝説の存在で、その首をちょん切っちゃって、頭のないデイダラボッチが命を奪うドロドロを撒き散らして、もう首を返すしかない、という状況である。なんだその状況。この世でまだ誰も体験したことのない状況。想定問答集には絶対に載っていない状況。もしも僕だったら、無言でおずおずと差し出すしかできない。こんなときにふさわしいセリフが思い浮かばない。しかしアシタカは違う。ああそれが正答だな、みたいなことをすかさずいう。もっともアシタカが正答をいうのではない、アシタカのいったことが正答なのだ。
 エロ小説で、よく3Pだの4Pだのという状況になるわけだが、どうしてそうなるかといえば、大抵の場合は主人公に決断力がないからだ。「どっち(だれ)を選ぶの!?」と女の子たちに責められ、選べず、「一緒に、じゃ、ダメ……かな?」などとしどろもどろに述べる。そうすると女の子たちは、「もう、しょうがないわね」とため息をつきながら、3P4Pをしてくれる、というのがいつものパターンだ。
 アシタカならそんなことにはならない。「どっち(だれ)を選ぶの!?」と詰問されたらば、「どちらもだ! だれもかれもだ! みんなでしよう! みんなでしゃぶれ! みんなを抱く! ともに生きよう!」と、よく考えれば最低なことを、力強くいう。アシタカがそういったら、それが正しくなるので、女の子たちはもちろん応じるだろう。
 アシタカの揺るがなさを目にして、そんなことを思った。

性的

 性にまつわる本を読んだ。性にまつわる本という表現の幅は広く、固い学術書から、ラノベのようなエロ小説まで、なんだって性にまつわる本ということになり、さらには作者がそういう意図で書いていなくても、受け手が曲解して性にまつわる本として捉える場合さえあるし、そもそもこの世は性によって成立しているとするならば、本に限らずありとあらゆる事象は押し並べて性にまつわるということになるが、とりあえず今回読んだのは、思春期の性の悩みに専門家が答えるタイプの、ああいう本である。
 こういう本は、思春期に差し掛かった本人、思春期の子どもを持つ親、どちらが読んでもいいように書かれているが、僕はそのどちらにも当てはまらない20歳くらいから、純粋な興味としてこういう本を多く読んできた。僕にとっての性欲とは、「性(に関する知識)欲」だ、とかつて喝破したが、まさにその欲求から、図書館や古本屋などで見つけては、せっせと手に入れて読んできたのだった。
 そうして、それなりに長年読んできたので、時代による内容の変遷についても、思いを馳せたりする。今回読んだ本は、最近に刊行されたものだったので、LGBTなど、性の多様性についてしっかりと触れられていた。何十年も前の本だと、女は嫁に行って子供を産まなければならない、なんてことがごく普通に書かれていたりするけれど、今はもちろんそんなことない。性に関して、世の中は本当に寛容になったというか、なにも押し付けなくなった。もとい、押し付けたらいけないんだ、という周知が徹底された。それまで暗部に追いやられていた性的マイノリティという存在が、こういってはなんだけど日の目を見たことによって、ある部分に光が当たった結果、しかしその日陰もできたな、ということを感じる。あるいは強すぎる陽射しによって飛ばされ、目がくらみ、見えない部分ができたというべきか。「性は人それぞれ」という結論は、それは本当にその通りで、そうでなくてはならないのだけど、それは市井の暮しにおいては、触らぬ神に祟りなしというスタンスに帰着するほかなく、性の話はタブーということになり、しかし冒頭でもいったように、この世は性によって成立しているので、性の話がタブーの世界では、発せる言葉などなにも存在しないことになってしまう。でもそのことに息苦しさを感じることが、もう旧時代的な感性なのであって、性的マイノリティを無意識に排斥していた時代の人々が感じる息苦しさになんて、新しい時代は思いをかけてくれない。彼らは新時代の言語を持っていないだけ、ということにされてしまう。そして我々は無口になり、たまに言葉を発しては、問題発言だと糾弾される。しかし性から逸脱した、解放された話に、いったいなんの価値があるだろうか。旧世代による性的な話に呆れるのと同じくらいに、我々だって新世代の性的じゃない話に、つまらなすぎて白目をむいているのだ。こっちはダメで、そっちはいいのか。
 話が横道に逸れた。にわかに熱くなったが、実は横道の話だった。読んだ本で最も印象に残ったのは、彼女の都合を考えずにセックスをねだる彼氏に悩む女子へ向けた、『「ため込むと性欲が抑えられなくなる」というのは嘘。射精をしない日が続いたから性欲が増すなんてことはありません』という文言で、なぜなんだ、と思った。なぜ、この本の著者はそんな虚偽を平気で書くのか。ためると性欲、増すよ! 射精直後と3日後では、世界の見え方がぜんぜん違うだろう! 空腹は最高の調味料というのと一緒で、射精せずに性欲が増せば増すほど、世の中のありとあらゆるものが性的に思えてくるものじゃないか。人生ってその繰り返しだろう。そのバイオリズムで、性によって成立している世界を、瞬間瞬間どう見るかという、生きるとはそういうことだと思っていた。新しい時代は、そこまで否定するのか。言葉のみならず、世界の見え方まで否定するのか。目的はなんなのだ。貴様らの目指す先の未来には、いったいなにがあるというのか。

それってどんなりんご?

 ファルマンと、ファルマンの友達だという好色な女と、3人で遊んだ。
 夢の話である。
 ファルマンの友達に、好色な女はいない。いや、いないかどうかは知らない。少なくとも、僕の夢に出てきたあの好色な女は、実在するファルマンの友達ではないということだ。
 なにをして遊んだかといえば、「それってどんなりんご?」をしていた。
 「それってどんなりんご?」とはなにかといえば、僕もついこの間、夢の中で好色な女といちどやっただけだから、そう詳しいわけではないのだけど、たとえば僕と好色な女、実際のところファルマンはゲームには参加せず横にいるだけであり、このゲームは基本的にふたりでの対戦となるわけだが、ふたりが順番に、「それってどんなりんご?」と相手に訊ねる。訊ねられた相手は、「蜜が詰まっているよ」だとか、「種があるよ」だとか、「皮を剝くよ」だとか、「赤くて丸いよ」だとか、りんごの特徴を答えていく。しかしそれはりんごの特徴であると同時に、性器の特徴でもあるのだ。というより、りんごでカムフラージュしつつ、実はずっと性器のことをいい続けていたのだ、僕と好色な女は。
 夢の中で行なったのはそこまでで、起きてから、対戦する競技ゲームという触れ込みのくせに、いったいあれのどこが競技なのか、ただのりんごにかこつけたエロトークではないかと思って、どういうことなのかと考え、マジカルバナナが、ゲームのルール説明の際に「バナナといったら滑る、滑るといったら氷」というふうにバナナを使うから、本物のゲームの中ではバナナがぜんぜん出てこないことのほうが多いのにゲーム名はあくまでマジカルバナナ、というのと一緒で、要するに夢の中の僕と好色な女は、永井美奈子が口で説明する「バナナといったら滑る……」を、僕に実際にやってみせてくれていたのだと思った。
 つまり、ゲーム名は「それってどんなりんご?」であり、それを決め台詞として互いに訊ね合うのだけど、本当にりんごが主題になるわけではない。それぞれが頭に思い浮かべた(あるいはあらかじめカードなどに記した)なんかしらの対象について、性器の特徴と絡めながら答えていく。そして相手はその答えから、なにについていっているのか当てる。これはそういうゲームなのだ。
 たとえばこうである。
A「それってどんなりんご?」
B「やわらかかったり、固かったりするよ」
A「…………?」
B「それってどんなりんご?」
A「中にいろいろなものが入れられるよ」
B「…………?」
A「それってどんなりんご?」
B「引っ張ると伸びるよ」
A「…………?」
B「それってどんなりんご?」
A「使ってるとだんだん黒ずんできちゃうよ」
B「…………?」
 というふうに、ゲームは展開する。ちなみにA(♀)のりんごは「ペンケース」、B(♂)のりんごは「餅」である。
 しかしプレイヤーが自分でりんごの正体を考えていいとなると、上記のそれがそうであるように、どうしても性器に対して寄ってしまうというか、共通項の多いものになってしまいがちだと思う。まだ僕はこのゲームをしたことはいちどもないけど、しまいがちだと思う。これを改善するためには、第三者に20個くらい、「カメラ」とか「湖」とか「チョコレート」とか「蜂」とか、性器のことは気にせず単語を挙げてもらい、それをカードにして、プレイヤーに1枚ずつ選ばせればいいのだと思う。そうして性器とはまったく関連性のなさそうなものから、これまでまるで気づいていなかった性器との共通項、すなわち性器性を探ることこそが、このゲームの醍醐味なのだと思う。そして思い至る。夢の中のファルマンは、この役割の人だったのだと。夢の中では本当にりんごをテーマにしていたから不要だったはずなのに、それでもファルマンはあの場にいた。それはつまり、このゲームには3人が必要だということを示唆していたのではないかと思った。
 そんなわけで、みなさんもぜひ、合コンとかで「それってどんなりんご?」をやってみてほしいと思います。それってなんだかとってもいいんじゃないかと思います。

モーニングキャンディ賛歌

 モーニングキャンディ、と呼ばれる現象があるだろう。
 寒い地域の冬に、大気中の水蒸気が昇華してごく小さな氷晶が舞う、あの幻想的な情景、というのはダイヤモンドダストの説明であって、モーニングキャンディにはなんの関係もなくて、実際のモーニングキャンディは、少年が朝、股間の違和感で目を覚ますと、女の子がちんこを勝手に取り出して舐めしゃぶっている、という例のやつのことである。一般的には「朝フェラ」「お目覚めフェラ」「おはようフェラ」「寝起きフェラ」などと呼ばれる。それらの言葉がどうも気に食わなかった僕が、なにかもっといい言い換えはないかと思案して、しかしなにも浮かばなかったので、横にいたファルマンに「なんかない?」と訊ねたところ、返ってきた答えがこれだったのだ。
 それがいま確認してみたところ、なんと2010年の出来事だった。実は今年はモーニングキャンディ爆誕10周年だったのだ。2020年はほかにもっと大きなイベントが用意されていたような気もするが、思い出せないので、全世界的に今年はその年だということにしてしまえばいいと思う。しまえばいいと思うのだが、いかんせん世の中にモーニングキャンディという言葉は未だまったく浸透していないので、客観的に鑑みてその目はないだろう。(余談だが、本当にまるで浸透していないのだろうか? と抱くだけ哀しい疑念を抱き、「モーニングキャンディ」で検索をかけてみたところ、なんとそのままのネーミングの飴が、去年アサヒグループ食品から発売されていたことを知った。トーストを模したパッケージの、バタートースト風味のキャンディだそうだ。なにそれ手に入れたい、と色めき立ったのだが、トリッキーな味に世間の評判もいまいちだったようで、現在は終売となっていた。半年あまり気づくのが遅かった。ショックだ。僕がもっと人気のあるブロガーだったら、読者の誰かが教えてくれただろうに、オケラとアメンボしか読んでいないので情報が届かなかった)
 気に食わない、一般的に使われるバリエーションの中で、それでも無理にどれかを選べというのなら、「おはようフェラ」だと思う。これは一見いい。でもこの言葉は、「朝、少年が股間の違和感で目を覚ますと女の子がちんこを舐めしゃぶってる」という状態の、捉え方が根本的に僕の考えているものと異なる。どういうことかといえば、「おはようフェラ」という言葉は、女の子はフェラチオによって少年を起そうとしている、という認識で作られている。そうじゃないのだ。これはそんな実地的な目的のもとになされる行為ではない。ひとえに女の子がちんこを舐めしゃぶりたくて舐めしゃぶる、ただそれだけのことなのだ。少年が起きようが起きまいが関係ない。なんなら起きずじまいで射精まで至ってもいい。それならそのままお掃除フェラ(果たしてこれはこのままの言い回しでいいのだろうか)へと移行し、さらにそのあとも飽きるまで行為を続けるのみである。僕は女の子に、そこまでちんこ好きであってほしいし、実際にそうであると信じている(36歳、ふたりの娘持ちにして)。「おはようフェラ」にはそこまでの崇高さがないのだ。女の子にはちんこ以外の目的を持ってほしくない。頭を空っぽにしてひたすらちんこを堪能するという、ちんこの嗜好品性、それこそがモーニングキャンディの身上である。
 そんな気高い理念の下に提唱された言葉なのに、こうも流行らない。僕の伝播能力の低さ(クソ愚民とのレベルの違いに由来する)はとりあえず置いておいて、他になにか原因はあるのだろうかと考えて、モーニングキャンディという言葉は、説明するまでもないがちんこを飴に喩えて表現しているわけだが、だとしたら女の子がちんこを舐める行為を指すならば正確には「モーニングキャンディリッキング」(lick:舐める)とでも言うべきで、ただ「モーニングキャンディ」という名詞で、飴に模されたちんこ、ということを言うのだとすれば、その言葉の主語は女の子ではなく少年だ、ということになる。ここに誤解があったのかもしれない。少年の持つ朝の飴、というのがモーニングキャンディの原義なのだと考えれば、起きている側と寝ている側が入れ替わってくる。つまり、寝ている女の子の口に、少年がちんこを持っていく、女の子は寝ぼけながらそれを舐めしゃぶる、それがモーニングキャンディの真の意味なのかもしれない。それはフェラチオじゃなくてもはやイラマチオではないのか、と思うかもしれないが、モーニングキャンディという言葉にはフェラもイラマも入っていない。だからそれは問題ではないし、そもそもあらゆるイラマチオは結局のところフェラチオだろう、ということも思う。そしてもちろんこの場合も、少年は別に女の子を起すことを目的としない。ただ女の子に、女の子の大好きな飴玉を与えてやりたいという、その一心である。そうなのだ、モーニングキャンディという言葉は、そんなにも優しい言葉だったのだ。これが時代とともに、人々の口から口へと伝わるにつれて変遷を繰り返した結果、女の子が先に起きて舐めしゃぶるケースも、「リッキング」を省略してモーニングキャンディと呼ぶようになった。しかしもともとがあまりにも優しい、慈愛に満ちた、甘々しい言葉なので、「フェラ」を組み込む「おはようフェラ」や「お目覚めフェラ」にどうしてもパンチ力で敵わない。だからいつまでもポイズンの世の中には浸透しない。でもそれいいんだと思う。優しさに包まれて射精したい。

不入

 射精をするとそこで終わってしまって寂しいから、いつまでも勃起して愉しい状態を保つための心得として、「不出」というのがある。ださず、である。女の子とエロいことはするけれど、女の子のほうだけイカせて、自分はいつまでも射精しない、女の子を、エロ愉しさを増幅させるための装置として利用する考え方である。
 これはたしかに理屈で、本当なら射精なんてしないほうがいいに決まっているのだ。いちどの射精で、200メートル全力疾走分の体力を消費、なんてことがまことしやかにいわれるし、そもそも射精したあとの寂しさ、もの哀しさといったらない。いわゆる賢者タイムのなにがいちばん哀しいって、射精する前の愉しかった自分を、否定する思考になってしまうことだと思う。自分はなんてくだらないことに時間と情熱をつぎ込んでしまっていたのか、などと感じてしまう。それは不幸なことだ。
 だから「不出」は守れれば守るに越したことはないのだけど、でも実際問題として、挿入しておいて射精しないってどういうこと? という話だ。自分自身の消化不良感はもちろんのこと、なにより相手の女の子の気持ちになって考えたとき、挿入をされたことがないので推測にはなるが、挿入をされながら相手が射精に至らなかったら、きっとムッとすると思う。普通に考えて中折れを疑う。そんなに気持ちよくなかったか、と憤りたくなることだろう。それを「俺、不出信奉者やねん」で納得させるのは難しいはずだ。
 じゃあどうするかということを考えて、「挿入」と「不出」が両立しないのならば、そのどちらかのチェックを外すほかないという結論に至った。それで多くのパターンでは「不出」のチェックが外され、男たちはもの哀しき賢者となってきた。では逆に、「挿入」のチェックを外したらどうか。つまり「不入」である。いれず。
 実はこの心得については、前々から構想していた。例えばエロ画像を、漫然と見たりしていて思うことは、挿入って、してしまうともうつまんねえな、ということだ。根元までずっぽり嵌まっている状態って、当人たちにとってはそりゃあ気持ちいいのだろうが、見ていてぜんぜんおもしろくない。だって古事記でいうところの、成り成りて成り余れる処と、成り合はざる処の、双方がピタッと組んでしまっているから、完璧な状態になってしまい、見た目的には無なのだ。ざっくばらんにいえば、ちんこもまんこもない、互いの脚の間をくっつけているだけ世界がそこにはできあがり、見ていてなにも愉しくない。興奮しない。ちなみにこの問題を解決するための方策として、二次元イラストにおいては、断面図という手法がある。膣内にペニスが入り込んでいる様を、アントクアリウムのように断面で見せてくれる。なるほどな、とは思うが、正直いってあまり興奮にはつながらない。膣内の様子は、もうそこはエロの領土ではないような気がするからだ。だからもういっそのこと、入れなければいい。入れたらもう、あとは射精まで待ったなしになってしまう。それは祭りに似ている。始まってしまえば、すぐに終わりを意識してもの哀しくなってしまう。始まる前の、準備している期間がいちばん愉しい。セックスもそうだ。だから入れる直前の、互いに欲情して、男はよく勃起し、女の子はよくほぐれているという状態が、実はいちばん多幸感があるし、だからいつまでも続けばいいと思う。
 そしてこの、挿入には至らないけれど永く欲情している状態、これとはすなわち、童貞の所業である。童貞は、挿入に焦がれ、挿入への思いを募らせ、しかしそれがままならず、夢想し、煩悶する。それが実は、セックスの奥義のひとつである「不入」の体現であったのだ。セックスの修行者が「不入」の階梯へと進んだとき、自分はかつて完璧なる「不入」の体現者であったことを喝破する。武道の動きや呼吸法などで、赤ん坊が自然とやっているようにやる、というのが意外と奥義であったりするように、セックスの神髄というのもまた、性に目覚めたばかりの、性という世界における赤ん坊のような、入り口に立ったばかりの存在としての童貞にこそあるのかもしれない。その入り口は、どこまでも続く長い道程の入り口のようで、実は女性器とは、入り口であり出口でもあるので、スタートがゴールでもある(もといそのどちらでもない)。つまりセックスとは、セックスをしないこと、ともいえる。あるいは、セックスをしないセックスをするのだ、ともいえる。これを「不入」といい、われらが流派における珍宝とされております。

きんたまをめぐる冒険

 「無辜の民」という言葉はどうして睾丸という字を使うのだろう、睾丸がないことがどうして罪がないことになるのか、睾丸は罪だっていうのか、と気になって確認したら、ふたつは違う字だった。無辜の辜は、「つみ」という意味で、古いに辛い、と書く。それに対して睾丸の睾は、「買」にも使われる、へしゃげた四みたいなパーツ(よこめ。あみがしら。などと呼ばれる部首である)にノの字が加わったものに、幸せと書く。辛いと幸せだったのだ。ちなみに辛いと幸せは、路上詩人などがよく、辛いに一本足すと幸せ、などとホザくが、実際のところ漢字の成り立ち的には近いのかどうなのか、と確認したら、「辛」は入れ墨をするための針の象形で、もちろん昔の入れ墨なので罪人が受ける罰的なものらしい。それに対して「幸」は、じゃあ180度違ういい意味なのか、といえば、どっこいそんなこともなくて、これは手枷の象形で、「執」という字の右側は、手枷を嵌められた人を表しているのだそうで、そこからその右側がない「幸」が、手枷を嵌められるのを免れたということとなり、しあわせという意味になったらしい。ややこしいし殺伐としている。そうか、しあわせとは、手枷を嵌められないことだったのか。じゃあもう大体みんなしあわせなんじゃん、ともいえるし、誰もがみんな見えない手枷を嵌められているのだ、ともいえる。
 ここまでが余談と前置き。このブログは日本語ブログでもなければ雑学ブログでもない。猥談ブログである。なのでここから先、睾丸をぶら下げる、ちがう、掘り下げるのがこの記事の本題である。
 そんなわけで睾の字義を見てみると、「1、さわ(沢)。2、高いさま。広大なさま。3、きんたま。睾丸」とある。睾丸が一番じゃないのかよ、という感想がまず浮かぶ。そして「さわ」ってどういうことだ、と思う。なので「沢」の項を見てみる。するとその字義は、「1、さわ。つねに浅く水にひたっている所。草木のしげっている湿地。2、つや。ひかり。3、うるおす。ぬらす。しめらせる。めぐむ。恩徳をほどこす。4、もてあそぶ。5、もむ。こする」となっていた。ずいぶんと多岐に渡り、そしていろいろ面白味のある意味たち。ここに「沢」の旧字体も載っていて、それで気づいたが、なるほど「睾」は「澤」の右側とほぼ同一なのである。じゃあこの澤の右側はどういう意味なのかといえば、「つぎつぎに手繰り寄せる」という意味らしい。駅とか、鐸とか、なるほどうっすらと意味が繋がっている。水が次々にわいて出るから澤なのだ。それで、じゃあその意味と睾丸の睾はどう繋がってくるのか、という話になるが、残念ながらこれは解説になかった。しかし睾丸で生産された精液が日々排出されることを思えば、イメージは自明だともいえる。ところがその一方で、睾は「皋」の異体字だ、ということも漢語林はいう。「皋」は同じくコウと読み、旧暦五月、皐月の「皐」と同じ漢字であるという。ならば「皐」はどういう意味の漢字なのか、と見てみると、これもやはり字義の筆頭は「さわ」である。しかし解字を見ると、「白い頭骨と四足の獣の、死体の象形から、しろくかがやくの意味を表す。転じて、水面のしろくかがやく、さわ・ぬまの意味を表す」とある。象形はどうしてこうも内容が殺伐としているのか、という感想は置いておくとして、「睾」を巡ってその親権を争う「澤」と「皐」で、同じ「さわ」の意味へのアプローチがぜんぜん違うではないか。どうなっているんだ。「睾」は「澤」の子なのか、それとも「皐」の子なのか。字面は「澤」の右側とよく似ているが、読みのコウは「皐」のそれである。さらにいえば「澤」の右側と唯一異なる、頭のノの字。これは「皐」からもらったもの、というふうにも見える。ふたりの遺伝子がマーブル状に現れていて、もはや「子は鎹」状態。さらにいえばそうして生まれた「睾」がきんたまの意味になっているのだから、話はやけに高い水準で成立している。これは落語だろうか。ちなみに「睾」の解字は、「皋の異体字」のあと、さらにこう続く。「高に通じ、高いさまを表す。タク(引用者注:澤の右側)にノを加え、男の身体の、さわの部分にある突起したもの、ふぐりの意味をも表す」。そう。睾はさらに「高」へも通じ、そのために字義の2にあったように、「高いさま。広大なさま」という意味も持つ。きんたま以外の意味は余計だろう、と最初に見たときは思ったが、すなわちきんたまとは高くて広大な存在なのだ、と捉えると清々しい気持ちにもなってくる。しかしこの字義の骨子はそのあとだろう。「男の身体の、さわの部分にある突起したもの」。さわの部分? 突起したもの? 急になにを言い出したのか。突起したものは、まあ判る。だってそれ以外に突起したものなんてない。それが、「ノ」なのか。なぜわざわざそのまま「澤」の右側ではなく、「ノ」が付与されているか。それは睾丸の上にある陰茎を表しているからだったのだ。すごい。どっち向きなんだか知らないが、だいぶ反っていることは間違いない。元気だ。しかし「突起したもの」は判るが、「男の身体の、さわの部分」がやはり判らない。なんだろう、「さわの部分」って。精巣とか、そこらへんのことを指しているのか。それにしたってやはりこの、ひらがなというのがなまめかしいな、と思う。女の子のその部分のことを、陰茎を刀に見立てて、さやというときがあるが、そのことも連想して、ますます淫靡な気持ちになる。そうして「男の身体の、さわの部分」に思いを馳せて、頭をよぎるのは、「沢」の字義にあった数々の文言だ。もむ。こする。うるおす。ぬらす。しめらせる。恩徳ほどこす。めぐむ。睾丸。思わず語順を調整して、七五調に仕立ててしまう。春の七草の覚え歌のように、「男の身体の、さわの部分」としての睾丸の字義を、これを使って覚えていただければ幸いである。このうち、なんといっても「恩徳をほどこす」がいい。セックスってなんだろう、ということをずっと考えているが、セックスとはつまり、恩徳をほどこすことなのかもしれない。セックスは女の快楽のほうがはるかに大きいっていうし。ちょうど恩徳という字には、僕が男性器の象形に違いないと主張している「心」がどちらにも入っている。じゃあもう、ちんこって恩徳なんだ。ありがたいものなんだ。かしずくべきものなんだ。
 2020年はちんこのこと、恩徳って呼ぼうかな。なんかオントクって、実際にどこかの外国語でそう呼ばれてそうな語感だと思う。