きんたまをめぐる冒険

 「無辜の民」という言葉はどうして睾丸という字を使うのだろう、睾丸がないことがどうして罪がないことになるのか、睾丸は罪だっていうのか、と気になって確認したら、ふたつは違う字だった。無辜の辜は、「つみ」という意味で、古いに辛い、と書く。それに対して睾丸の睾は、「買」にも使われる、へしゃげた四みたいなパーツ(よこめ。あみがしら。などと呼ばれる部首である)にノの字が加わったものに、幸せと書く。辛いと幸せだったのだ。ちなみに辛いと幸せは、路上詩人などがよく、辛いに一本足すと幸せ、などとホザくが、実際のところ漢字の成り立ち的には近いのかどうなのか、と確認したら、「辛」は入れ墨をするための針の象形で、もちろん昔の入れ墨なので罪人が受ける罰的なものらしい。それに対して「幸」は、じゃあ180度違ういい意味なのか、といえば、どっこいそんなこともなくて、これは手枷の象形で、「執」という字の右側は、手枷を嵌められた人を表しているのだそうで、そこからその右側がない「幸」が、手枷を嵌められるのを免れたということとなり、しあわせという意味になったらしい。ややこしいし殺伐としている。そうか、しあわせとは、手枷を嵌められないことだったのか。じゃあもう大体みんなしあわせなんじゃん、ともいえるし、誰もがみんな見えない手枷を嵌められているのだ、ともいえる。
 ここまでが余談と前置き。このブログは日本語ブログでもなければ雑学ブログでもない。猥談ブログである。なのでここから先、睾丸をぶら下げる、ちがう、掘り下げるのがこの記事の本題である。
 そんなわけで睾の字義を見てみると、「1、さわ(沢)。2、高いさま。広大なさま。3、きんたま。睾丸」とある。睾丸が一番じゃないのかよ、という感想がまず浮かぶ。そして「さわ」ってどういうことだ、と思う。なので「沢」の項を見てみる。するとその字義は、「1、さわ。つねに浅く水にひたっている所。草木のしげっている湿地。2、つや。ひかり。3、うるおす。ぬらす。しめらせる。めぐむ。恩徳をほどこす。4、もてあそぶ。5、もむ。こする」となっていた。ずいぶんと多岐に渡り、そしていろいろ面白味のある意味たち。ここに「沢」の旧字体も載っていて、それで気づいたが、なるほど「睾」は「澤」の右側とほぼ同一なのである。じゃあこの澤の右側はどういう意味なのかといえば、「つぎつぎに手繰り寄せる」という意味らしい。駅とか、鐸とか、なるほどうっすらと意味が繋がっている。水が次々にわいて出るから澤なのだ。それで、じゃあその意味と睾丸の睾はどう繋がってくるのか、という話になるが、残念ながらこれは解説になかった。しかし睾丸で生産された精液が日々排出されることを思えば、イメージは自明だともいえる。ところがその一方で、睾は「皋」の異体字だ、ということも漢語林はいう。「皋」は同じくコウと読み、旧暦五月、皐月の「皐」と同じ漢字であるという。ならば「皐」はどういう意味の漢字なのか、と見てみると、これもやはり字義の筆頭は「さわ」である。しかし解字を見ると、「白い頭骨と四足の獣の、死体の象形から、しろくかがやくの意味を表す。転じて、水面のしろくかがやく、さわ・ぬまの意味を表す」とある。象形はどうしてこうも内容が殺伐としているのか、という感想は置いておくとして、「睾」を巡ってその親権を争う「澤」と「皐」で、同じ「さわ」の意味へのアプローチがぜんぜん違うではないか。どうなっているんだ。「睾」は「澤」の子なのか、それとも「皐」の子なのか。字面は「澤」の右側とよく似ているが、読みのコウは「皐」のそれである。さらにいえば「澤」の右側と唯一異なる、頭のノの字。これは「皐」からもらったもの、というふうにも見える。ふたりの遺伝子がマーブル状に現れていて、もはや「子は鎹」状態。さらにいえばそうして生まれた「睾」がきんたまの意味になっているのだから、話はやけに高い水準で成立している。これは落語だろうか。ちなみに「睾」の解字は、「皋の異体字」のあと、さらにこう続く。「高に通じ、高いさまを表す。タク(引用者注:澤の右側)にノを加え、男の身体の、さわの部分にある突起したもの、ふぐりの意味をも表す」。そう。睾はさらに「高」へも通じ、そのために字義の2にあったように、「高いさま。広大なさま」という意味も持つ。きんたま以外の意味は余計だろう、と最初に見たときは思ったが、すなわちきんたまとは高くて広大な存在なのだ、と捉えると清々しい気持ちにもなってくる。しかしこの字義の骨子はそのあとだろう。「男の身体の、さわの部分にある突起したもの」。さわの部分? 突起したもの? 急になにを言い出したのか。突起したものは、まあ判る。だってそれ以外に突起したものなんてない。それが、「ノ」なのか。なぜわざわざそのまま「澤」の右側ではなく、「ノ」が付与されているか。それは睾丸の上にある陰茎を表しているからだったのだ。すごい。どっち向きなんだか知らないが、だいぶ反っていることは間違いない。元気だ。しかし「突起したもの」は判るが、「男の身体の、さわの部分」がやはり判らない。なんだろう、「さわの部分」って。精巣とか、そこらへんのことを指しているのか。それにしたってやはりこの、ひらがなというのがなまめかしいな、と思う。女の子のその部分のことを、陰茎を刀に見立てて、さやというときがあるが、そのことも連想して、ますます淫靡な気持ちになる。そうして「男の身体の、さわの部分」に思いを馳せて、頭をよぎるのは、「沢」の字義にあった数々の文言だ。もむ。こする。うるおす。ぬらす。しめらせる。恩徳ほどこす。めぐむ。睾丸。思わず語順を調整して、七五調に仕立ててしまう。春の七草の覚え歌のように、「男の身体の、さわの部分」としての睾丸の字義を、これを使って覚えていただければ幸いである。このうち、なんといっても「恩徳をほどこす」がいい。セックスってなんだろう、ということをずっと考えているが、セックスとはつまり、恩徳をほどこすことなのかもしれない。セックスは女の快楽のほうがはるかに大きいっていうし。ちょうど恩徳という字には、僕が男性器の象形に違いないと主張している「心」がどちらにも入っている。じゃあもう、ちんこって恩徳なんだ。ありがたいものなんだ。かしずくべきものなんだ。
 2020年はちんこのこと、恩徳って呼ぼうかな。なんかオントクって、実際にどこかの外国語でそう呼ばれてそうな語感だと思う。