顔パンツを巡る冒険 8

 マスクは下着なのに堂々と見せてくれる、というところまで書いた。そこまで書いたところで、いちど短歌を挟んだものだから、間が空いてしまった。冒険に寄り道はつきものなのである。
 下着というのは本当によいもので、もしも神様からある日、
「特別に透視能力を授けよう」
 といわれ、
「マジっすか! やったあ!」
 と喜び、
「よかったじゃんねー。そんなに喜んでもらえるとこっちも嬉しいよね」
「いや、こちらこそっすよ!」
 などと和やかに話したあと、神様が
「で、度合はどうする?」
 と訊ねてきて、
「へ? 度合? 度合といいますと?」
「透視の度合。下着が見えるレベル? それとも裸が見えるレベル? どっちにする? あ、別にそれ以上でもいいけど」
 と問われたら、そこから僕は
「…………」
 と黙考を開始し、きっと2ヶ月半くらい考え続け、最後、ガリガリに痩せて、ギラギラと目を血走らせた末に、絞り出すような声で、
「……下着でお願いします」
 と答えると思う。つまりそれくらい、下着は尊いのだ。
 裸よりも下着を尊ぶのは、現代のルッキズム的な概念にも適合する。ルッキズムってほら、持って生まれたものについてどうこういったらいけないってことなんでしょ。だから持って生まれたものじゃなくて、その人の選んだもの、作ったものなんかを、褒めたり言及したりするようにしようね、と。その考え方と、裸よりも下着のほうがいい、というのはぴったり合致する。どんな裸かはそこまで興味がないのだ(だいたい分かるから)。それより、どんな下着を着けているのか、のほうがよほど気になる。「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人か言い当ててみせよう」はブリア=サヴァランの遺した言葉だが、じゃあ僕は「箪笥の下着の段を見せてみたまえ。君がどんな人なのか言い当ててみせよう」をここに唱え、遺しておく。僕の冒険のあとに続く者たちのために。
 さて顔パンツの話である。これでは単なる下着の話になってしまう。下着とは自己表現である、ということをここまで書いてきたが、自己表現でありながら、下着というのは公開されない。裏アカウントとかでは公開されていたりもするが、一般的ではない。女の子同士では、インナーパーティーとかがあったりするのかもしれないが、インナーパーティーなんて言葉はいま初めて、自分の打ったキーによって画面に現出して目にしたし、もしも本当に存在したとしても、自分がそこに参加することはまずないだろう。
 残念だ。誰が残念って、みんながだ。僕は女の子の下着を見ることができずに残念。そして女の子は、自己表現としての下着を見せられなくて残念。せっかく今日はかわいい下着なのにな! nanonina!
 そんな下着が長らく抱えてきたディレンマの救世主こそが、そう。顔パンツなのだ。顔パンツによる自己表現。説明するまでもなく、顔パンツがその役割を持つということを、われわれはこの2年間でさんざん見てきた。
 そして顔パンツがインナーの代替としての自己表現であるならば、次の展開として、こんなことが起ってくるのではないか。
 下着と顔パンツを、同じ素材で作ってみたらどうか。
 この発想により、冒険は新たな章へと進む。
 冒険の舞台は、次に「nw」へと進む。なぜ「nw」か。まさか縫ったのか。
 つづく。

顔パンツを巡る冒険 6

 顔をプライベートゾーンと捉え、「プライベートゾーンなのにビキニで隠している場所よりもはるかに高い確率で晒しているところを見ることができる」ということに喜びが感じられるようになったら、その次に「プライベートゾーンを隠す布を尊ぶ」階梯へと進んでいくのは自然なことだろう。それはすなわちグラビアに対する尊びである。局部だけを隠す、水着なり、下着なりの、表面積の小さな、少しでもずらしたらすぐに性器が露見してしまうような布片のみを纏った姿の女の子を見て、われわれはとても満ち足りた気持ちになる。あのグラビアの心の作用を、当世みなが着けているマスクで得られれば、これほど効率のいいことはない。
 グラビアアイドルの水着は、少しでもずらせばすぐに性器が露見してしまうほどに小さく、ずれればいいなあと常に希いながら、われわれはその姿を眺めるが、しかし実際にはずれない。撮影現場ではもしかしたらずれているのかもしれないが、その姿は撮影されないし、ましてやわれわれの目に届いたりしない(届いたとしたらそれは流出であり、大問題になる)。でもそれでいい。グラビアというジャンルのある一方で、ヌードだったり、あるいはさらに進んだ、それこそ性行為中の姿を写したものもある。それらは直截的なエロさではグラビアよりもたしかに威力があるし、なにより忘れてはいけないのは、プライベートゾーンまでも隠さず晒してくれた女の子に感謝をしなければならないということだが、しかしながら残念なことに、そうやって大事な部分までをも公開した結果、隠しているグラビアよりもすべての要素で上をいっているかといえば、決してそんなことはない。乳首や性器には個性があり、それに対してわれわれの好みもまた、さまざまに分化している。だから、もちろんみんな誰かの愛しい女ではあるけれど、出さないほうがよかった、見せてくれないほうがむしろよかった、なんて残酷な感想もどうしたって出てくる。また、寄せて上げるとかの矯正下着というわけでなくても、本当に小さな、乳輪よりもひと回りだけしか大きくないような三角ビキニであっても、乳房の中心である乳首をその布が支え、そこから伸びた紐が背中で結ばれることによって、乳房全体を持ち上げる効果が生まれ、その結果として、おっぱいは裸のおっぱいよりも、ビキニのおっぱいのほうが、往々にして形がよく見える。そしてビキニのおっぱいは形がいいものだから、われわれはその下が見たいと希う。しかしその願いは叶わない。そして叶わないから無意味かといえば、上記の理由によりそんなことはない。叶わないからいい、という面もある。その下にプライベートゾーンを抱く布片は、忌々しい存在であると同時に、しかしそれがあるからわれわれは希望を抱いて今日もこの世を生きていけるという、感謝の対象でもある。下着や水着がなければ、われわれは女の子の体に希望を抱けない。それが隠し、支えてくれているから、われわれは甘美な気持ちになることができる。女の子が身に着けていなければ本当にただの布でしかないものが、着けた瞬間に価値を持つ。これは宗教にも似ている。本当に大事なのは実体のない教義そのものであるはずなのに、それではピンと来ないから、像を作ってそれを崇拝の対象にしてしまう。すなわち下着や水着を尊ぶことは、偶像崇拝なのだともいえる。
 翻って、マスクである。顔の下半分、鼻の穴や咥内が局部であり、それをマスクが覆うのだとすれば、マスクは下着としての条件を十分に満たしている。それでは女の子のショーツを尊ぶように、われわれはマスクのことも尊ぶべきだ。
 そして僕は今からとんでもないことを言う。心を落ち着けてから聞いてほしい。
 マスクは。
 マスクは顔パンツと称され、今や下着とまったく同じ役割を持っているのに、出ている。さらけ出されている。パンチラ、ブラチラと、一瞬垣間見えただけでわれわれを喜ばせる力を持っている下着が、当たり前のように公開されているのだ。
 いまコロナ禍において、そんなとてつもないことが起っているのだ。
 つづく。

顔パンツを巡る冒険 5

 水着にならないグラビア、というのがたまにあるだろう。堀北真希とかがやるやつ。ここで持ち出すのが堀北真希というのが、我ながらなんともいえないと思う。結局、それ以降の時代、そこまでグラビアそのものに強い関心を持っていなかったため(最近また再燃している気配もあるけれど)、時代がそこで止まってしまったのだ。そんなホマキを代表とする脱がないグラビア、キャミソールにショートパンツ、あるいはノースリーブのワンピースくらいの薄着で微笑んでいるだけの、そういうグラビアを目にして思うのは、こんな股間への刺激のないものに割かれた誌面がもったいない(他にいくらでもビキニになってくれる女の子がいただろうが)、ということと、それと同時に、これでビキニグラビアと同じレベルに欲情することができたら最強だろうな、ということだ。なにしろビキニの女の子は、プライベートゾーンを隠しているという意味では、普通の服と同じくらい健全であるはずなのに、実際は滅多にいない。普通のプールにはあんな小さい水着の女子はいないのだ。真夏の、ナイトプールとか、湘南の海とか、本当に限られた場所にだけいる(とされている)。それに対して、ホマキ程度の薄着の女の子は、世の中に普通にいる。だからそれで欲情することができれば、その人の世界はとてもハッピーなものになるに違いない。
 顔パンツにも、その可能性を感じる。顔は、これまで当たり前に晒すものとされてきたし、今後も、コロナの感染状況に関わらず、完全に秘匿するものとはならない。普通に考えて、女の子がそれを外したとき、すかさず欲情できるほどには、確固たるプライベートゾーンにはなり得ない。しかし前回の記事でもいったように、確固たるプライベートゾーンではないけれど、淡いプライベートゾーンに、顔は、この2年でなった。この淡さは、普段まとめ髪にしている女子が、プールの授業のあと髪を下ろしている姿であったり、あるいは夏休みにばったり会った女子が近所の気楽さからキャミソールにショートパンツという薄着姿であったりという、そういう淡さであると思う。
 つまりホマキの薄着グラビアで発情できる人間は、顔で発情することができる。顔で発情できるってすごくないか。だって芸能人はみんな顔を出している。その昔、マスク(とサングラス)は芸能人の象徴だったが、今はそれがすっかり逆転した。一般人がマスクを着け、芸能人はマスクを着けない(テレビに出ている間は)。じゃあ、それに発情することができたら最強だろうと思う。その人にとって、テレビはいつだってイメージビデオだ。バランスボールに乗ったり、なんか棒状の食べ物をいやらしく食むやつだ。夢のようだな。

顔パンツを巡る冒険 4

 水着は下着とまったく同じ面積しか覆わないのに、「水着だから」という理由でやり過ごされている、という話のテーマがある。もうそろそろ20年くらい、僕はこの手の話をしている。これに関して、「このことについてあまり言及すると、女の子にかかっている催眠術が解けてしまうから控えねばならない」という自戒があった。自戒があったわりに、さんざん言及してきたけれど。しかし最近になって、女の子だって水着の布の面積が頭おかしいことは分かっているけど、でも分かった上で、あえてあの恰好をしているのだ、女の子にもそういう欲求や願望があるのだ、と思うようになった。
 顔パンツについて考えようとしているとき、パンツ、すなわち下着ではなく、水着にまで話を広げると、論点がぼやけ、収拾がつかなくなるのではないかとも思ったが、やはりここは水着も含めて複合的に、プライベートゾーンの取り扱いについて考えていくべきだろう。そうなのだ、これは要するに、プライベートゾーンの話なのだ。これまで顔はプライベートゾーンではないとされてきたのが、新型コロナウイルスの流行によってマスクが一般化し、覆われるのが常態化したため、結果としてプライベートゾーンの雰囲気を帯び始めた。これによって下の口と上の口の近似性が再認識されることとなり、われわれはマスクを顔パンツとして捉えるに至った。
 そもそも顔パンツという言葉がどこで誕生し、生み出した本人がどういう意味合いでそう言ったのかは知らない。ともすれば「マスクは顔のパンツだから、社会生活では必ず着けましょうね」みたいな健全なメッセージだったのかもしれない。しかしパンツと呼んだ瞬間に、どうしたって脱ぐことについて思いを馳せずにはおれなくなる。だってパンツは、脱ぐものだから。脱いでもらえぬものかと、切に願うものだから。
 そしてここが顔パンツについて考えるときに最も重要な部分だと思うのだが、パンツは、ショーツは、水着は、脱いでもらえぬものかと切に願っても、大抵の場面では脱いでもらない。なぜならその下にあるのは、ガチガチのプライベートゾーンだからだ。プライベートゾーン中のプライベートゾーンとして、確固たる位置に君臨している。そのためその下を見せてくれるのは、特殊な職業の人か、あるいは自分と特殊な関係にある人だけだ。これは人口比で考えると、とてつもなく少ない。もっとも人口比で考えると、その下を見たいなんて思いをぜんぜん抱かない種類の人が、逆にとてつもなく多いので、「その下を見たいと思う人比」で考えたほうがいい。そして、それでもやはり、実際にその下を見せてくれる人は、とてつもなく少ないのだ(俺に透視能力があればなあ……)。それに対して顔パンツである。顔パンツは、その隠す部分がまだ、プライベートゾーン部に体験入部でやってきたくらいのレベルなので、とても気軽に脱着される。プライベートゾーンに片足を突っ込んでいるのに、もう片足の足ぐりはすでにショーツを脱いでいるのだといってもいい。もはやショーツは片方の腿にかろうじて引っ掛かっているだけで、ほとんど用を成していない。ここに我々の勝機がある。我々とは誰なのか。勝機とはなんの戦いの勝ち負けなのか。
  顔パンツを巡る冒険はまだまだつづく。

精事の話

 これまでずっと黙ってきたけど、僕は「マスターベーション」も「オナニー」も好きではないのだ。なんというか、ちょっと違和感があるというか、抵抗感がある。その場面になるたびに、果してこれで本当によかったのだろうか、もっとよくできたのではないか、という葛藤があり、すっきりできない。これまで長年そんな状態が続いていた。
 行為ではなく、言葉の話である。
 「マスターベーション」は、ラテン語で「手で汚す」、「オナニー」は旧約聖書の登場人物、オナンから、それぞれ来ているという。しかし語源なんてどうでもいいのだ。大事なのは、いま、現代日本においての、言葉のイメージである。
 僕は「マスターベーション」も「オナニー」も、女の子が使う言葉だと思う。
 いまどき言葉に関して、女が使う言葉、男が使うべきではない言葉、などという観点でものを言い出したので、度肝を抜かれているかもしれない。なんと前時代的なことを言うのだこいつは、と思っているかもしれない。思う人間は勝手に思えばいいと思います。ジェンダーレスで、ユニセックスで、ありとあらゆるものを男女で共有すればいい。最近ネットで下着を物色していたら、男女共用のショーツなどというものが売られていて、衝撃を受けた。ちんこはよ、と思った。男女不差別の志は(勝手にすれば)いいが、厳然たる事実として、男のその部分にはちんこがあるだろう。(極寒の時期以外は)まあまあの容積がある陰嚢があり、そして(頻々に)大きくなる陰茎があるではないか。それがいったいどうやって、女と共通のショーツになど収まるというのだ。収めようと思えば収まるかもしれないが、収めるなよ、主張していけよ、前に出ていけよ、と柄にもなく松岡修造みたいな熱いことを思ったのだった。
 セックスで果てる際、女の子は「イク!」と言うが、男がそれを言うのは気持ち悪い、ということを前に書いた。どのブログで書いたのかすっかり忘れ、検索しても出てこないのだが、じゃあ男はそのときなんと言葉を発するのが正解なのか、という問いに対して、僕はちょうど読んでいたエロ小説に書いてあった、「食らえー!」を推奨したのだけど、「マスターベーション」「オナニー」問題も、これと同じように解決策を探っていこうと思う。
 それらは女の子が使うべき言葉、という理由とはまったく別の、言葉にまとわりつく淫靡さ、下品さ、罪悪感などの理由から、近ごろ新たに提唱されている言葉として、「セルフプレジャー」というのがある。これに関してはもう、ノーコメントというか、いいとか悪いとかの範疇から逸脱していて、男が「ちんこ」あるいは「ちんぽ」、女の子が「おちんちん」であるのに対し、「ペニス」と言っているようなもので、それは対象を指し示す言葉では確かにあるけれど、しかし言った人、言われた人に、なんの感情ももたらさない言葉であり、そういう言葉が必要な場面ももちろんあるだろうが、しかし日常生活においてそんな言葉ばかりを使っていたら、暮しがつまらなくてノイローゼになってしまう。それよりは「マスターベーション」「オナニー」のほうがいい。ただしそれは繰り返しになるが、男がちんこのことを「おちんちん」と呼ぶ程度には気色悪さがある。なぜなら「マスターベーション」と「オナニー」は、「おちんちん」と同じく、少しかわいいからだ。少しかわいいから、女の子用の言葉なのだ。時代遅れと言わば言え。
 ちなみに(ほぼ)男専用の用語しては、既に「センズリ」であるとか、「マスをかく」などがある。しかし僕はこれらの言葉を使ったことがない。なんかあまりにも下品で、目を背けたくなるくらい使いたくない。言葉の女子っぽさを鋭敏に感じ取って忌避するわりに、男臭さが一定量を超えるとそれはそれで激しい拒絶反応が出る。可動範囲が狭いのだ。
 その僕がたゆたう、極狭の可動範囲に、いま現在ふさわしい言葉が存在しないので、新しく考える必要がある。新しく考えてやることで、僕の世界は彩りを増す。
 それでまず考えたのは、「射精」だ。射精という言葉は本当にいいな、ということを最近しみじみと思う。射精なんて「ペニス」を凌駕して「交尾」と同じくらい、どこまでもシステマチックな用語ではないか、と思われるかもしれないが、メタファーとしてのピストルを持つ男性の、本質的なやりたいこと、かなえたいことを、簡潔に表したすばらしい表現だと思う。しゃせい、という音もいい。その瞬間、俺のしたいことはなんだったろうと考えたとき、それは「マスターベーション」でも「オナニー」でもなく、もちろん「センズリ」でも「マスをかく」でもなく、うん、射精だな、と深く感じ入る。精で、射たいんだな、と。
 じゃあ「射精」で決まりなのか。決まりでもいい、とも思った。「射精」では、ひとりでしているのか、相手がいる状態でしているのか、単語だけでは区別ができないが、英語圏において、絵画も写真もpictureであるような感じで、そこは文脈で察しろよ、それに、ひとりだろうがふたりだろうが乱交だろうが、本質は「射精」なんだよ、と。
 とはいえ「マスターベーション」と「オナニー」を否定し、新しい表現を考えるとぶち上げた結果が「射精」では、正直言って拍子抜けだろう。ここはやはり、ちゃんと新しい表現を提案するべきだ。
 ということで考えたのが、「個精」です。こせい。ひとりでの射精だから個精。パートナーがいる場合、セックスはもちろん大事だが、しかしひとりでしたくなるときだってあるだろう。そういうときはためらいなくしたらいい。個精を大事に。ただし個精を偏重するあまり、ふたりでするとき、ひとりよがりな、すなわち個精的なセックスになってはいけないですね。うまいこと言うもんですね。
 併せて、ひとりでの行為が「個精」ならば、ふたり、あるいは何人でもいいが、とにかく他者が介在する行為での射精、こちらのことは、「多様精」でどうだろう。「さまざま」を意味する「多用精」、他者が用いる「他用精」も考えたが、やはり今のご時世、「個性」に対応するのは「多様性」であろうと思い、この字を選んだ。
 ジェンダーレス時代を真っ向から否定するような導入から、最終的には新しきパーソナリティとディバーシティの形の提案へと帰着するという、とてもよくできた話になった。ひとりひとりの個精を大事にし、多様精あふれる社会を実現したい。膣内で射精されたものが、あふれ出るわけではないが、一部排出される現象を、フローバックといいます。日本フローバック党でも立ち上げて、出馬しようかな。

水着グラビアへの回帰 1

 最近グラビアに開眼した。何度目の開眼だろう。
 グラビアというのは、水着グラビア、それもピンポイントでいうとビキニ姿のもののことをいっている。それを近頃はせっせと眺めている。まるで中学生のようだ。もっともいまどきの中学生は、スマホでいくらでもエロ画像を眺めるのだろうから、あの当時の中学生のようだ。
 とてもエロいエロ画像がいくらでも見られる時代に、水着グラビアになんの価値があるのか。鉄砲や大砲で戦う時代に、剣がなんの役に立つのか。たしかに水着は、裸に対して、局部を覆い隠しているという点で、下位のように思えるかもしれない。水着姿を見せてくれるのはいいけど、本当はもっと中身をさらけ出してくれたほうがいいんだよなあ、と思い、その願望を叶えてくれるのがエロ画像であると。つまり水着グラビアのその先にエロ画像はあるのだと。そう思いがちだと思う。僕もそう思う時期もある。大人の僕も傷ついて眠れない夜はある。苦くて甘い今を生きている。
 しかし水着グラビアに何度目か知れない到達をした今の僕には、これは水着グラビアという始発駅から、エロ画像という終点まで続くただの路線ではなく、実はこれは環状線になっていて、水着グラビアの先にはエロ画像があるけれど、しかしエロ画像の先にもまた、水着グラビアがあるのだと、そういう風景が見えている。覆い隠すからこそ見えてくるものがあるのだと、なんかしらの武道における、かなりの境地に達した感がある。
 昔と今ということでいうなら、エロ画像の手に入りやすさのほかに、登場する女の子のクオリティ(このあたりの表現は現代ではとても厳しくなり、岡村隆史のことも脳裏によぎる)に関しても、かつては厳然たる事実として、露出度と顔の美醜は比例関係にあり、かわいい子は脱がず、そこまでかわいくない子は脱ぐというシステムになっていたが、現在はそんなこともなく、すごくかわいいのにあられもない姿でとんでもないことをする子もいるし、その一方でなぜ脱がずに成立するのか疑問を抱かざるを得ない子もいる。そういう意味でも、水着グラビアとエロ画像のあわいは曖昧になっていて、単純ではない。
 しかしこうして論めいたことをつらつらと述べるよりも、僕自身が、エロ画像ではなく水着グラビアを見る理由、なにを求めて水着グラビアをまた眺めるようになったのかという、自身の心情について語るのが手っ取り早いだろう。
 水着グラビアは、エロ画像に較べて、どこがいいのか。
 脱がないのに、チンポを咥えないのに、なにがいいのか。それは。
 脱がないし、チンポを咥えないところだ。そこがいいのだ。
 つづく。

陰嚢宝石

 鳥取旅行の帰りの車中でポルガの撒き散らすウイルスを浴びまくり、体調を崩したが、その気怠い日々の中で、宝石みたいに輝くひとつの発見を得た。
 それは、鼻炎薬を服むと陰嚢が寛ぐ、ということである。
 旅行が終わった途端に山陰に冬がやってきて、冬がやってきたということは、陰嚢は縮むのである。「当園のマスコットキャラ金玉くん夏と冬とでサイズ激変」という短歌があるが(藤原定家が詠んだのだったか僕が詠んだのだったか忘れた)、この中で示されるように、金玉及び陰嚢というのは、気温によって形態がまるで変わり、陰茎と同じく、それゆえに愛しさがひたすらに募るわけだが、とにかく寒いと陰嚢は縮む。
 精子は熱に弱く、そのために陰嚢は体の外に垂れ下がっているといわれるが、もともとのベースとしての女体においては、陰嚢は大陰唇にあたり、体の内側にあるものなので、高熱の脅威にさらされていない、冬のキュッとした陰嚢こそが、生命体としては自然な姿、望むべく姿なのであって、夏のダランとした陰嚢のほうが非常事態なわけである。とはいえエンターテインメント性の観点からすると、陰嚢はタプタプしていたほうが断然いい。そよぎ、揺れ、揉まれ、持ち上げられ、引っ張られ、そのように可動域があると、行為にもいろいろバリエーションが生まれ、情趣が増す。
 冬の陰嚢にはそれがない。風呂などで時間をかけてぬくもらせれば和らぐが、寒い空気の中に戻ればたちまち元に戻る。戻ってしまえばそれまでだ。陰茎は血液が充填されれば膨らむが、陰嚢はそんなことにはならない。熱を逃すために表面積を増している夏の陰嚢は、勃起した陰茎に対して、なるほど黒幕というか、名参謀というか、実はこれが陰茎を操っているのだな、ということに納得がいくバランスだが、冬のそれは勃起に対してあまりにも頼りなげで、不格好であると思う。
 おとなり韓国では、前になにかの本で読んだが、陰嚢の大きさというのがとても重要視され、名誉を守るために、死後に陰嚢に液剤を注入して陰嚢を膨らませたりするそうだが(本当かどうかは分からない)、なんとなく気持ちはわかる。陰茎が大きいのはもちろん大事だが、陰茎がIQだとすれば、陰嚢はEQというか、数字では計れない本質的な部分みたいな、そういう価値観があると思う。
 そんな冬の陰嚢、陰嚢の冬において、鼻炎薬を服んだ日は、あれ、ここは常夏の国かな、というくらいに、陰嚢が寛いだのだった。もっとも寛ぐというのはこちらの主観であって、繰り返しになるが夏に陰嚢がその状態になるのは熱を逃すためなので、本当はリラックスなんかしてないはずである。でもここではそう表現する。
 どういうことだろう、血流だろうか、薬の成分で血流がよくなって熱が高まるから陰嚢が(肉体が)夏のような状態になるのか、と考えたが、鼻炎薬にそんな作用はない。じゃあなぜだろうと検索をかけた結果、「鼻炎薬 陰嚢 寛ぐ」などで検索してもなにも出てこなかったが、鼻炎薬の作用として、筋弛緩作用というのがあったので、もしかしたらこれによるものかな、と思った。体に力が入らなくなるから、陰嚢もキュッとならず、ダレる。そういうことなのではないか。だとすればやっぱり陰嚢のあの状態というのはリラックスということなのだろうか、などとも思う。
 原因は不確かにせよ、鼻炎薬を服むと陰嚢が寛ぐ、というのは、鼻炎薬を服んでいた数日間は寒くても陰嚢が寛いでいたという、身を張った人体実験の結果として証明されたので、これは日常生活の中でのライフハックとして、知識のひとつに加えようと思う。冬に陰嚢を寛がせたいとき(陰嚢が寛いでいたほうが、そよぎ、揺れ、揉まれ、持ち上げられ、引っ張られ、いろいろしてもらえる可能性が高まる)は、鼻炎薬を服めばいい。ためになる情報だな。これで無人島にひとり漂着しても安心。ポケットに鼻炎薬さえあれば、タプタプの陰嚢をいじって、ずっと愉しんでいられる。よかったよかった。

ちんしょぼ

 ひとつ前の記事を書いたあと、自分の中では、妻が少し右を向けばどんなものを見ているのかすぐにバレてしまう状況でエロサイトを眺めることに、大義名分が得られた気持ちになり、そして眺めていたのだけど、ファルマンはまだその投稿された記事を読む前だったので、少し右を向いた瞬間に僕の頭越しにエロサイトが見えて、「なに見とんねん」という話になった。それで僕は、これこれこういうことなんだよ、とブログ記事を示して弁解したのだけど、「はあ?」と一蹴された。おかしいな。確固とした大義名分を手に入れた実感があったのだが、他者には通用しない手形だったのかもしれない。あるいは、経済社会においてなんでも買えるクレジットカードを持っていても、お金の概念さえない未開の地ではなんの価値もない、みたいな感じか。とにかく通用しなかった。びっくりした。しかも、「見るにしたって、そんな、あまりにも下品な、そんなのやめてよ」といわれたのだが、そのとき開いていたサイトは、僕が見ているエロサイトの中では、だいぶ穏当な部類のものだったので、なんかもう詰んだな、と思った。
 どうやら僕はもう、のびのびとエロサイトを眺めることは、できないらしい。そして前記事にも書いたが、こうしてエロサイトを眺めることができない日々が続くと、ちんこの筋力、それはただ単にセックス能力というわけではなく、ちんこ発想で世界を明るく照らす力とでもいうべきものだが、それはどんどん衰えていって、取り戻すこともかなわず、やがて完全に枯渇してしまうことだろうと思う。
 そのとき爆誕するのがなんなのか、分かりますか。
 ちんこがただの黒ずんだ排泄器官でしかなくなった、しょぼくれた、おじさんですよ。ちんしょぼおじさんですよ。エロサイトを排斥する倫理観は、この世にちんしょぼおじさんを生み出すんですよ。いいよいいよ、ちんしょぼおじさんで溢れ返ったユートピアがお好みならば、そうやってエロサイトを邪険にしておればいい。エロサイトを邪険にするあなたがたを見て、おじさんたちは優しく微笑む。そしてそのおじさんたちのちんこは一様にしょぼくれている。世界には頻繁に勃起するちんこと、しょぼくれているちんこしかない。その選択肢において、あなたたちは後者を求めたのだ。そのちんしょぼユートピアに、いったいどんな幸福があるだらう。

凛と咲く花

 模様替えにまつわる話ばかりになるが、先日の模様替えの結果、これまで互いのパソコンの背面を突き合わせるようにして、向かい合っていた僕とファルマンの机は、やっぱり机って素直に壁に面したほうが部屋が広く使える、という何度目かわからない発見によって、北側の壁を向く僕の左後ろにファルマンの机、西側の壁を向くファルマンの右横に僕の机、みたいな配置になって(向きを東西南北で言い表すの、非常に田舎者っぽい)、そうなるとどういうことになるかというと、僕がエロサイトを漫然と眺める時間が、以前に較べて大幅に減った。コロナ禍の居酒屋の売上くらい、ガクンと減ったと思う。
 それで、こうしてブログを毎日ペースで書いたり、部屋の広くなったスペースで裁縫のことをしたり筋トレをしたりしているので、いいことづくめだ。いいことづくめである。いいことづくめなのだけど、心のどこかで常に、(エロサイトを漫然と眺めたい……)という思いがくすぶり続けている。エロサイトを漫然と眺めるのって、本当に生産性のない行為で、時間ばかりが空費されるのだけど、でもこうして禁断症状のようなものが出て、渇望感があるということは、精神的になんかしらの作用をもたらしていたのだと思う。そしてそれは、人には無駄な時間も必要なんだよ、などという、なにかいっているふうの、なにもいっていない理由なんかではなく、もっと実際的な、それこそ筋トレ的なものだったのではないだろうか。
 すなわち、ピアノだったりバレエだったりで、1日サボると取り戻すのに〇日かかる、みたいな、それくらい厳しくて高度なジャンルなんですよ、というアピールとしか思えないいい回しがあるけれど、エロというのもまた、これとまったく同じことがいえるのではないだろうか。ましてや僕は38歳である。若い頃ならば意識せずとも衰えることなどなかったが(そもそもサボろうにもサボれなかった)、ぼちぼち、うかうかしているとそっち方面が薄らいでいってもおかしくない年齢である。自然に任せて薄らぐのなら、薄らがせればいいではないかと思われるかもしれないが、やっぱりそんなわけにはいかない。性欲だと、まるでそれが清廉で正しいことかのようだが、体型で考えたらどうだろうか。代謝が落ちてきて、下腹が出たりする、中年からの体型の変化を、なすがままに任せて放るのが、潔くてかっこいいだろうか。そんなことないだろう。性欲だってそれと一緒だ。だから僕は意識を高く持って、現状の性欲を保とうと努めなければいけないのだ。エロサイトを漫然と眺めることは、つまり僕にとって筋トレみたいなものだったのだ。筋トレならぬ、いわゆるひとつの、チンのほうですけどね(哄笑)。
 であるからして、この配置になり、自由にエロサイトを眺められないことは、大いに問題がある。この問題を打開するにはどうしたらいいか。答えはひとつだ。不意に画面を見られて、咎められても、くじけず、眺めたいときは眺めればいい。高い志を持っていれば、周囲の雑音なんか気にならない。この道をゆく。ゆけばわかる。歩いたあとに花が咲く。

渡りたい渡れない

 先日部屋のわりと大規模の模様替えを行ない、机周りがとても整ったのだが、それにあたって処遇に困ったのが、純粋理性批判(二次元ドリーム文庫)および社会契約論(美少女文庫)の群である。困ったというか、僕は別に困らないのだけど、こうして模様替えを行なうたびに、それの詰まったミニ本棚がファルマンの目について、「ちょっとそれはもうどうなんだ」ということを言及されるのだった。家に帰るまでが遠足であるように、ファルマンにエロ小説のことで苦言を呈されるまでが、正しい模様替えなのかもしれない。
 「どうなんだ」というのは、もうどちらもレーベルとして完全にオワコンではないのか、エロ小説文庫というジャンルの役割は既に終わったのではないか、という指摘ではもちろんなく、もう10歳、二次性徴間近の娘を持つ父親として、そこまで厳重に隠すというわけでもなくこういう本を保持しているのはいかがなものか、という意味である。
 それをいわれると、若干の心苦しさはある。しかしその一方で、娘たちが妙齢になるからこそ、父親は青春の、もとい本当にくだらない当て字になるが、性春の象徴であるこれらの本を、手離してはいけないのではないかと思う。これを手離してしまった瞬間に、いまの僕と、あの頃の僕は、陸続きではなくなる。つまりこれらの本は、橋なんだと思う。橋の名は勃起橋。ただいちど渡ればもう戻れぬ、振り向けばそこから思い出橋。勃起の先に、あの頃の僕がいる。
 最近、勃起の種類ということを考える。勃起とは海綿体が膨らんで起る生理現象だが、結果として現れるそれはどれも変わらないように見えて、実は、いかにして醸成されたものかによって、その中身はぜんぜん違ってくると思う。やはり血流ということで、液体として捉えると、カッと沸かした湯はすぐに冷め、じっくり長く火を入れたお湯はなかなか冷めないように、勃起もまた、弱火でゆっくり作り上げた勃起は、堅牢で濃厚であると思う。そして勃起における弱火とはなにかといえば、それは活字なのだ。画像や映像は、瞬間湯沸かし器のごとく勃起をもたらす。しかしそれは臓腑に降ればすぐに醒めてしまう。それに対して文字によって仕立てられた勃起は、いつまでも熾火のように熱を持ち続ける。僕はエロ小説の、そこが好きだ。そこに価値があると思う。
 だからやっぱり手離すことはできない。たぶんもう増えることはないのだけれど(そこに一抹の寂しさを覚える)、かつて5倍をはるかに超える量があったところから、それこそ弱火で長い時間をかけ、凝縮された結果いまの量となったこの結晶のような数十冊を、僕はやはり常に目の届く場所に置いておきたいと思う。