悖鬼宣言


ロ短詩をひたすら投稿してゆくTwitterをはじめるにあたり、せっかくなのでpurope★papiroとは別の、俳号みたいなものを作ろうと思い、すぐに頭に浮かんだのが「勃起」だった。やっぱり人生に本当に大事なのは勃起だよな、ということを、最近ますますしみじみと感じるようになり、それ以外の俳号は浮かばなかった。しかしそのまま「勃起」では、それはそれで潔くておもしろい気もするが、ちょっとストレートすぎるので、漢字だけ変えることにした。そうしたとき、「鬼」のほうはすぐに思い浮かんだ。もちろん西東三鬼のことも頭の中にあった。「おそるべき君等の乳房夏来る」の三鬼は、岡山県出身という繋がりもある(僕は出身ではないけれど)。それでは「ぼっ」のほうをどうするか。これは漢字辞典の力を頼った。そして「悖」を見出した。意味は、もとる、みだれる、さかん、などで、理に反するがどうしても手懐けられない業、みたいな意味合いが勃起に通じるので、ふさわしいのではないかと思った。性的な業の化け物、それが俳人としての悖鬼というわけである。
 斯様に、勃起のことを偏愛している僕である。勃起というのは本当におもしろいと思う。人間の体の一部が、数十秒や数分で、あんなにも形状を変える。まずそれが他にはない特徴であり、目を瞠る。さらにはその変化というのが、興奮すると膨らみ、落ち着くと萎むという、とても単純な「ムラムラゲージ」である、もとい、でしかない、という点が愛しい。それによって放出される伝達物質がどうだとか、そういうことは一切ない。ただ男子がムラムラするとピコーンと屹立する。その馬鹿さがひたすらに愛しい。
 勃起道の神髄は「不出(ださず)」である、という話がある。ある……よね? これまで何度か別々の本でそういう記述を読んだことがある。つまり、勃起は勃起し続ける限り、いじっていると気持ちがいいし、そもそも感情的にもハッピーが継続する。だからなるべく長く勃起していることが、人生においては望ましい。しかし勃起の悦楽は、深追いしすぎると射精へと至り、その一瞬はたしかに追い求めた先にあるので大きな快感がもたらされるのだけど、その代わりそれからしばらく(個人差、体調差がある)勃起の歓びからは遠ざかることになる。だからトータルで考えれば射精という一瞬のエクスタシーは忌避し、細く長く勃起し続けたほうが賢い、という考え方である。これは本当にそうだ。そしてそれは大体の男子が理解しているのだ。しかし理解しつつも、射精の誘惑に打ち克つことは難しく、ここに葛藤が生まれ、詩人という天職が出来る。すなわち勃起と音を同じにする悖鬼としてエロ短詩を作ること、それは終わらない勃起の夢なのである。勃起とは血の集中であり、現実的なことを言えばずっと続けることは不可能だ。それはなんかしらの病気だし、死んでしまう。しかし精神的に勃起をし続けることは可能である。これから年齢を重ねて、いつしか物理的な勃起がままならなくなってきたとき、悖鬼として作ったエロ短詩が、精神的な勃起を支え、僕の人生はとてもよく勃起し続けた人生だったと証明してくれれば、これ以上の幸せはないと思う。