プロペとパピロウ


性包茎なんてないらしい。読んだ本に書いてあった。
 日本では一般的に、いつでも剥けている状態の「ずる剥け」、基本的には皮を被っているが勃起すると亀頭が露出する「仮性包茎」、勃起しても亀頭が完全には露出しない「真性包茎」の3パターンに分類するけれど、医学的には「ずる剥け」と「仮性包茎」は区別しないらしい。なぜなら、剥こうと思えば剥けるのなら、なんの問題もないからだ。
 そんな気はしていたのだ。世の中の男性は、本来その大部が仮性包茎なのだ。だとすればそれが自然で、そして自然であるということは、理に適っているということなのだ。それを「仮性包茎」などと、「ずる剥け」に対してどこか劣るような、引け目を感じさせるようなラベリングをするから、男たちは必死に剥きグセをつけたりして、仮性包茎からの脱出を図る。かくいう僕もそのひとりで、ましてや今年に入ってから公衆浴場やサウナによく足を運ぶようになったので、余計にそのことを意識するようになった。大人の男たるもの、常態において剥けていないと恥ずかしい、という思い込みがあった。
 でもそれは正しくなかった。ナチュラルな「ずる剥け」が多くなく、「仮性包茎」と区分される層が多いのは、それが優れているからだったのだ。「ずる剥け」は限られた上位の選民ではない。むしろはみ出し者なのだ。なぜなら亀頭が常に露出していると、乾燥したり、さらには頻繁に刺激を受けることで皮膚が厚くなり、それらは亀頭の感覚を鈍麻させてしまうからだ。亀頭の感覚が鈍麻するということは、セックスでの快感を得づらくなるということで、強い快感を得るために無理やりな激しい動きをすることに繋がる。そしてそれはペニスにとっても相手の女性にとっても当然よろしくない。読んだ本にはこのように書いてあった。「つまり亀頭を大事にするということは、女性を大事にするということ」。そう。実は亀頭とは女性だったのだ。思えば亀頭とは、女性の内部に最も深く入り、女性と合一する器官である。男性性の最も象徴的な部分でありながら、男性性の極北とは、すなわち隣接する女性性の極南なのだ。なんと示唆に満ちたいい話か。そう思えばこれまで以上にますます、陰茎のことが愛しくもなってくる。
 思えば僕はこれまでサウナに入るとき、髪の乾燥を防ぐため、濡らしたタオルを頭にかけて過し、そして亀頭は露出させていたわけだが、それでは対策として片手落ちだった。とは言え1枚しかないタオルを、亀頭のために使って髪を見捨てるわけにはいかないから、じゃあどうすればいいか。そう、亀頭には包皮を被せてやればいいのである。なんと、なんと素晴らしい仕組みであろうか、包皮。もうこんなのあれじゃん。瞼じゃん。瞼めっちゃ大事。じゃあ包皮もめちゃくちゃ大事なんじゃん。それを剥くだなんて。ましてや切るだなんて。亀頭に包皮を被せ気味になるかわりに、心の亀頭の蒙がすっかり啓かれた気がする。いい本を読んだ。
 それにしたって「仮性包茎」という言葉がとにかく悪い。ここにはどうもクリニック業界の陰謀があるようだ。仮性って、包茎以外にあまり使われなくて、もはや包茎のほうが略され、仮性といったら仮性包茎のことを指すようにさえなっているけれど、なんかこの言葉って、裁定者の温情でぎりぎり許容されているというような、そんなイメージがある。本当はアウトだけど俺だから許してんだかんな、みたいな威圧感があり、そのため我々は仮性包茎に引け目を持つ。しかしさんざんいっているように、仮性包茎なんて状態はないのだ。さらに言えば「ずる剥け」もない。あるのは「勃起して剥けている状態」と「勃起しても剥けない状態」で、これの後者はケースによっては治療の必要があるから、それは区別しなければならないが、それ以外はなにがどうだろうと関係ない。平常時に包皮がどうなっているかは議論しても意味がないし、なんなら前述したように包皮にくるまれているほうが優れてさえいる。だから言葉を変えるべきだと思う。
 そこで僕は提案する。皮を被っている状態、これを「プロペ」。皮が剥けている状態、これを「パピロウ」。それぞれそう呼んだらどうか。ただ自分の名前を歴史に遺したくていっているのではない。根拠がある。「パピロウ」は、漢字表記で「破皮狼」ということでこれまでやってきた。皮を破る狼。この皮は、これまで女の子の処女膜を便宜的に皮ということにして表現していたわけだが、この皮がなんのことはない、実は包皮だったのである。包皮はもちろん陰茎を取り巻くように筒状になっているわけだが、真横から見たら勃起して亀頭が顔を出していく様は、皮を突き破っているようにも見えるだろう。だから皮が剥けている状態がパピロウ。それに対してプロペは、公衆浴場やサウナに入るときは、むしろ皮を被せていたほうがいいという点から、「風呂へ」入る際にふさわしい状態、すなわち皮を被っている状態を指す。そしてこのふたつの言葉は、あくまで皮の状態のみを指すのであり、勃起しているかどうかは論点としない。しかし世の中の大部の男性が、これまで仮性包茎と呼称されてきたその区分なのだとすれば、どうしたって平常状態がプロペ、勃起状態がパピロウ、という使われ方をされるのはやむを得ないだろう。それは提唱者の真意ではないが、言葉は使う人のものだからしょうがない。
 常々いっていることだが、僕の最終的な夢は、ちんことか性欲とかの神様的な存在として奉られることであり、今回の新名称の提案によってその実現がだいぶ近づいたと思う。この世のすべてのプロペに、すべてのパピロウに、しあわせが舞い降りますように。