僕等は瞳を輝かせ、沢山の話をしてきた


 僕とファルマンは夫婦ともども友達が本当にいない、友達が本当にいない系夫婦だ、というふうに、何の疑問もなく信じ込んでいた時期があったが、あるとき、ファルマンには母がいて、妹がふたりいて、そして娘がふたりいる、ということに気付き、この人は実はぜんぜん俺とは事情が違う、境遇的に太いから他者に対してガツガツしていないだけのことだ、渇望しているのに得られないのと、不要だから持たないのではぜんぜん違う、と義憤に駆られた。
 信頼していた同志に裏切られ、やっぱりこんなにも友達がいないのは僕だけだ、と絶望の淵に堕ちかけたのだけど、そんなとき僕を救ってくれたのは、脚の付け根に鎮座するちんこで、ちんこをいじり、快楽が生じれば、友達がいるとかいないとかというのは本当にどうでもよくなる、ということを喝破し、だとすれば、友情欲がそれで充足するというのならば、僕にとっては他ならぬちんここそが、ファルマンにとっての妹や娘がそうであるように、友達の代替品、もとい上位互換でさえあるのではないか、と思った。
 ちんこは友達、と言ったのは誰だったか。大空翼か。いや、大空翼は睾丸にのみ特化した言い回しでそんなようなことを言ったのだったっけ。だいぶ珍しいな。睾丸方面、すなわち金玉肉袋方面は、もちろんそれはそれで特別の情趣があるけれど、しかし主体はどうしたって肉棒のほうということになりがちだ。若いときなんて特にだろう。たしか大空翼のその発言は、彼がまだ小学生の時分だった頃のものであるはずだ。それでその達観はすごい。早熟である。
 ともだちんこ、と言ったのは、これは間違えようがない、御坊茶魔である。これを御坊茶魔は、友達と認定した人物の手を自分のちんこに当てさせながら言うので、言葉の捉え方としては実は今回の文脈とは異なる。御坊茶魔の場合、自分の弱点であるちんこを触らせてもいいくらいあなたのことを信用していますよ、みたいなニュアンスで使用しており、それはそれでさすがは趣深い表現だな、という気もする。
 だが僕が到達したのは、ちんこそのものが自分にとって唯一無二の、大事な友達であるという、その境地である。ここに至ったことで、別にもうだいぶ前から、友達が存在しないことについての苦悩などには苛まれなくなっていたけれど、ますます生きるのが楽になった。ファルマンの場合、ただの友達と違って妹や娘は切っても切れない関係であり、特に娘などはまず間違いなく自分よりも長生きしてくれるので、生きている限り寂しい思いをする可能性は低いわけだが、そうは言っても、娘だって常にそばにいるわけではない。
 それに対し、僕のちんこの心強さと言ったらどうだ。生まれたときからずっと一緒で、41年間、ひとときも離れることなく、われわれはずっと寄り添って生きてきた。学生時代などには、僕にも外の世界で友達と呼べる存在がいたりもしたけれど、彼らとは環境が変われば離れたし、ちんこよりも大事にしたいと思えるほどの者はひとりもいなかった。こいつとは気が合うな、と思う相手がいた時期もあったが、それでも人生中のいつだって、ちんこほど僕のことを愉しませ、笑わせ、感動させ、気持ちよくさせ、しあわせにしてくれる奴はただのひとりもいなかった。めいめいに位置を変える星々に対し、ちんこはポラリスのごとく、常に僕の人生の進路を示し続けてきてくれたのだった。
 愛しい。そしてこんなにも愛しく、依存しているからこそ、年を取って、このかけがえのない友達が元気をなくし、音沙汰がなくなってしまったら、それはもう言葉の綾でもなんでもなく、「死ぬほど」哀しくなるのだろうな、と思う。その日をなるべく遠いものにするために、友達といつまでも仲良く過すために、PC筋の鍛錬に努めようと思う。