物価高騰に負けない節約術


 6月は射精に懊悩した1ヶ月だった。
 不惑に突入してもう2年弱も経過するというのに、いまだ射精のことで思い悩む。人って案外そういうものなのかもしれない。たぶん個人差があるだろうとは思うけれど。
 射精に関して、どういう点で苦慮していたかと言うと、タイミングである。出すか、否か、そのことに大いに頭を悩ませていた。
 「不出」という考え方があるだろう。このブログでも言及した。探ったところ、書いたのはもう5年も前のことだった。久々に読み返したら、なかなかおもしろかった。切々と語った末に、『つまりセックスとは、セックスをしないこと、ともいえる。あるいは、セックスをしないセックスをするのだ、ともいえる。』という、なかなか哲学的な結論を導き出していて、36歳の僕もずいぶんとやるもんじゃないか、と思った。
 36歳の2月の僕がそんな境地に至っていたというのに、41歳の6月の僕と来たらどうだろうか。出すべきか、出さざるべきか、迷い、惑い、参った。ハイキングくらいの軽い気持ちで足を踏み入れた小径は、平坦な道が平坦なまま、しかし延々と続く、迷宮であった。
 なぜ出すのを渋ろうとするのか。それは言うまでもなく、出したあとの寂しさのせいだ。出したあとは、しばらく冷静な頭になる。いわゆる賢者タイムである。それが怖いのだ。狂ったこの世の中において、性欲があるからこそ、気を紛らわせて生きていけるのであり、それを失ってしまったら、正気を保てなくなるのではないか、という恐怖感がある。
 この結果、具体的に言うと、6月15日のそれから、6月24日のそれまで、実に8日もの間が空いた。これは年間ペースで換算すると、1年間で約40回しか射精しないこととなる数字である。ちなみに大谷翔平も今年の6月は、投手復帰に向けての調整も作用したのか、打撃成績には大きな波があって、6月3日に放った23号ホームランから、実に11日もの間が空いて、ようやく24号ホームランを打ったのは、奇しくも僕が長い空白前最後の射精をした6月15日のことであった。さらに大谷はこの日、25号も同試合内で放っており、もしかするとこれが僕の射精に、あるいは逆に僕の射精こそが大谷のホームランに作用しているという可能性も、否定できない。よし、今年の夏の自由研究はこれでいこうと思う。
 8日間も射精をしなかったのは稀有なことで、こんなとき記録は尊いとしみじみと思うが、この前にこれほどの期間に渡って射精をしなかったのは、去年の8月、9日から16日までの同じく8日間にまで遡る。ただしこの期間はと言えば、行きと帰りにそれぞれホテルで1泊した、合計5泊6日の横浜帰省を含むのだから、イレギュラーだろう。通常時に較べ、射精の自由が著しく阻害されていたわけで、一緒に扱うわけにはいかない。それ以前だとどうなるかとページを1枚めくり、2024年7月のカレンダーを眺めて驚いた。7月17日から28日まで、なんと僕は12日間に渡って射精をしていないのだった。それを見て、去年の7月の僕はいったいどうしていたのかと、慌てて「ブログ投稿報告ツイートブログ」で当該の期間の記事を確認したところ、「andp」に「夏チンポ短歌 やわらか10首」なるものを投稿していた。そのうちの1首に「ただでさえやらかいという白人の夏チンポリンピックinパリス」というのがあり、そうか、ほとんど観なかったパリオリンピックをやっていた時期かと、臨場感あふれる生き生きとした短歌によって、当時のことがありありと思い出された。ちなみにこの時期、大谷翔平はどうしていたかと言えば、月6本と、結果としての月間射精回数が5回だった僕と、似たり寄ったりの低調なホームラン数で、やはりここにはなんかしらの因果律の存在が疑われることだと思った。
 ワイドラジオ番組かな、というくらい、話がダラダラと漫談のように続くが、実はきちんと書きたいことがあって書きはじめている。そろそろ本題に入ろうと思う。漫談に入る前の、話のわりと前半のほうで、賢者タイムがもたらす冷静さへの恐怖心がある、ということを書いた。今回の結果論的禁欲生活において、そのあたりの考察が深まったので、その研究記録をしておきたいのである。
 結果論的禁欲生活というのは、たとえば実際にいま僕がやったように、未来の僕が過去となった期間を指して、この時期は射精から遠ざかってストイックに暮していたんだなあ、と感じる、数字上の結果論ということだが、それが真実ではないということは、まだ生々しく当事者であると言っていい現在の僕が、声を大にして言いたい。射精をしなかったという意味では禁欲かもしれないが、射精をしない分だけ、「エロいこと」は常に傍らにあったのである。それはとても心地のいい状態で、僕はそれを失いたくないから、射精を避け続けた。
 そのさまは、要するに経済活動、商品やサービスの対価として支払いをする、それとまったく一緒なのではないかと気づいた。欲求があって、それを手に入れたい、味わいたいと思う。だからそれのために資金を調達し、権利を購う。結果として欲求が満たされ、嬉しい。しかし当然、資金はその分だけ減る。資金が減ると、次の欲求を満たすための道のりは遠くなり、それは選択肢が減るということを意味する。だからなるべくなら、資金を使わずに済ませたい。たしかに、実際に手にするよりも、貯めた資金で、なにをしようか、なにを買おうか、あれこれとイメージを膨らませているときがいちばん愉しかったりもする。
 ちんこを擦り、快感を得ながら、もったいなさから射精はせずに済ますというやり口は、まさにそれを地で行くものであり、そしてなぜ人は、僕は、そんなことをしなければならないかと考えたとき、ここには存在感の強い「貧しさ」が横たわっているのだと思った。資金が潤沢にあれば、射精をしてもすぐにエロい気持ちがみなぎるのならば、こんなせせこましい真似をする必要はないのだ。そうではないから、必死にやりくりをしなければならない。陰茎とクリトリスは本質的に同じものだと言うし、見せ槍というジャンルもあることだから、槍のようなクリトリスを操作するという意味で、僕らは槍クリをしなければならない。
 今回、9日ぶりの射精をしたあと、揺り返し的な心の作用なのか、今度は射精を毎日のようにしていくことにしようと思い立ち、その次の日も行ない、もちろんその次の日も行なう予定だったのだが、どうにも虚しくなり、続かなかった。やっぱり僕は、支払いそのものは好きじゃなくて、この世は後払いの風俗店のようなもので、行為を終えて会計に行かなければ、ずっとずっと性的サービスを受け続ければ、いつまでも支払いはしなくていいわけで、もちろんそれでもどうしても払わなければならない局面はやってくるけれど、なるべくならそれを先に伸ばす感じで暮していこう、と思ったのだった。
 ちなみに、不惑のくせに射精のことでいまだ悩む、ということを冒頭に書いたが、逆にこれは精力が衰えた中年になったからだろう、などという指摘があるかもしれないが(誰からだ)、そうではない。20代の頃から、別に一日に何発も出すような、そういう性分ではなかった。思えばずっと無意識に、乏しい資金での槍クリに励んでいた半生であったように思う。なので、もうすっかり人間が、発想が、そのように出来上がってしまっている。貧乏性ならぬ、貧乏精なのだと思う。今回、これが言いたかったのです。