2024年 年精数発表報告


 1年間の射精回数。略して年精数。
 日々の中で、泳ぎに行った回数と射精回数を記録していて、泳ぎのほうは、基本的にホームプールの年内営業が終了した時点で完了となり、そのため12月29日に「swimming pooling」で報告をしたのだけど、こと射精に関しては、12月31日の23時59分59秒まで判らない、それどころか、ともすれば、果たしてこれは2024年最後の射精と言うべきか、はたまた2025年最初の射精と言うべきか、という事態さえ起り得るので、どうしたってきちんと年が明けてからでないと最終報告をすることができない。もっとも紅白歌合戦をスタートから23時45分までがっつり観て、そのあと「2355-0655」で年越しを迎えるわが家で、夕方以降どのタイミングで回数が増える可能性があるというのか、という話ではあるのだけども。
 そうは言っても厳密に、きちんと2025年になってから、やおら集計ノートを取り出し、改めて1月からの毎月の回数を加算してゆく作業を始めた。書初めであったり、秘め初めであったり、年始に行なわれる儀式的な行為というのはさまざまあるが、僕が年が明けて本当に最初にする行為は、この年精数の算出ということになってゆくのだな、と思った。
 それというのも、これの1年前(2023年)が初めての、年精数の把握であったわけだが、このときは年泳数の集計と一緒に年末に行なって、それはやはり12月29日のことだったのだけど、その時点での数字が108という、年末に馴染みのある愉快なものであったこともあり、そこから2日間あった年内はもう数を増やすまいという意思を固めてしまった、といういきさつがまずあって、さらには今年において、10月が終わった時点でそこまでの数字を出すという行為をして、そこから「1年前の自分より1歳年を取った現在の自分」としての矜持が刺激され、昨年の数字に対して負けてたまるかと奮起し、11月はそれでずいぶんと励んだ、などという展開を経て、しかし12月中旬において僕はようやく達観し、頂上戦争時のエースの心持ち、「もうジタバタしねえ」の境地に到達して、そこからはもう心の中に設置された、合計数字のカウンター表示に「?」のパネルを被せてしまい、一切の恣意なく、思うがままに、したいと思ったときに自由に射精をするという、本来あるべき形に戻したのだった。だから去年の数字に勝ったのか負けたのか、最後の時点で本当に判っていなかったのである。そのためワクワクしながら、年が変わるなり集計した、という次第である。
 というわけで、いよいよ発表に移りたいと思う。
 その結果は、…………(ドラムロール)…………ドンッ!
 109回。
 違うんです。本当なんです。嘘じゃないんです。恣意性は、11月の振る舞いは、それはもちろん明らかな恣意があったわけだけど、説明したように、12月に合計数とにらめっこして射精を調整するようなことは一切しなかったんです。でも結果的に、1年前よりも1回だけ凌駕するという、今年の勝利欲求を充足させつつ来年以降になるべく負担をかけないという、なんかしらの作為があったとしか思えないような数字になってしまったんです。本当です。やってません。やらかしてません。信じてください。
 そしてこの109という数字をはじき出した瞬間、なんともぞわぞわした気持ちになったのは、この日、大みそかの午後、ファルマンと子どもたちが実家に行って、ひとり家に残った際、その際の、たった数時間前のそれこそが、そのままでは去年とまったくの同数であった年精数を、寸でのところで上回らせたのだという、ヒリヒリするようなスリル感ゆえだ、ということもここに追記しておく。予定されていたスケジュールではない。たまたま巡ってきたチャンスで、ならばとカウンターの数字をひとつ進めた。あれが運命を分けたのだ。日常でなかなかこれほどのギリギリの局面は味わえない。年精数の算出、暮しに刺激を与える、とてもいい習慣のように思えてきた。
 2年目である去年(2024年)に関しては、10月末での集計という行ないをしてしまったため、少し話が雑然とした感がある。年数を経るにしたがって、徐々に制度はブラッシュアップされ、整ってゆく。途中集計は、今後基本的に禁止にしたいと思う。したいと思うが、プレイヤーの気持ちになって考えると、たしかに10月末あたりで、そこまでのペースを確認しておかなければあまりにも不安だろう、算出の結果あまりにもさんざんな(すなわち老いを感じさせる)数字が出たときの哀しい年明けと来たらどうだ、などと思うと、これはなかなか一筋縄にはいかない問題である。よって年精数協会の本部に持ち帰って、役員レベルで協議することにする。
 それはともかく、とりあえず109回という数字はめでたい。しかも素数だ。割り切れない思いを、それでも割り切ろうと思って、2024年の僕は年精数を重ねたのかもしれない(ちょっとなにを言っているのか分からない)。
 今年も回数はもちろん、質にもこだわって、納得のいくプレーを続けていこうと思う。現役生活も、えーっと、デビューがたしか13歳だったと思うから、28年目になるのかな。これからは勢いだけではなく、テクニックで観客を魅了してゆけたら、と思っている。応援よろしくお願いします。

子羊たちのちんこ その3(完結)

 裸体主義文化はドイツがその中心地となっており、Freikörperkultur、すなわち「Frei:開放的な」「körper:身体」「kultur:文化」の頭文字を取って、FKKなどと呼ばれる。Pubococcygeus muscleのことをPC筋と呼ぶのと一緒だ。
 ヨーロッパにはあちこちにヌーディストビーチがあるらしいが、学術的な話題で取り上げられる場合が大抵ドイツの話なのは、たぶんフランスのヌーディストビーチとかは、特に深い意味などなくて、エロエロな非日常を愉しみたいという素直な欲求だけで出来ているからなのだろう。それはたぶんお国柄によるもので、そもそも現代日本人のイメージからすると、ドイツというのは頑固で堅実な国民性であるため、衣類もアイロンをきっちり当てたものを、シャツのボタンをひとつも外すことなく着ているような印象があり、ヌーディズム文化があること自体が意外に感じられる。しかしその来歴を読むとFKKの思想というのは、近代化、工業化によって人が人として扱われない、人間としての健康と尊厳が失われたことを憂えたドイツの人々が、なるほど理屈っぽく、そのアンチテーゼ的な意図でもって自然への回帰を提唱したことに端を発するらしい。
 自然への回帰とは、すなわち衣服を着ないことである。ここに若干の論理の飛躍があるように感じられるかもしれない。深く知りたいなら本を読めばいいと思う。とにかく、体温を獲得するための皮膚呼吸を阻害する存在として衣服を捉え、それを脱いで外気にあたることを、18世紀のドイツの科学者、ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクは、「空気浴」という治療法であるとした。この考え方は、『パンツを脱いで寝る即効療法』という本を読んだ数年前から全裸で寝ている僕の心に刺さった。こちらの本の論拠は主に、ゴム製品による体への弊害であったが、結論は一緒である。できうる限り、人は衣服なんて着ないほうがいい。生きものとしてそちらのほうが正しい。そういうことである。
 世界には、ヌーディストビーチ以前に、そもそも服を着ない人たちがいる。裸族と呼ばれる人たちだ。しかし裸族にもいろいろあって、性器だけは隠すタイプもいれば、性器もまったく隠さないタイプもいる。中には、性器はさらけ出しつつ、女性の乳房は覆う、という人たちもいる。彼らの理屈は、性器はもともとあるものだが、乳房は性の象徴として年頃になると現れるものだからエロい、というもので、なるほどそれはそれで理屈だろう。一方で、ひと昔前の日本では、往来で普通に女性が子どもに乳を与えてやっていたなどとも言うし、はたまた女の乳首は一般的に隠す対象だけど男のそれは看過される、というのが長らくの共通認識だったが、過剰なジェンダーフリー思想も影響して動画サイトなどでは男性の乳首も規制の対象となっていたりもする。斯様に、なには出してもよくて、なにを隠すべきなのかは、その時代や場所によっていかようにも変移する。
 翻って、今回の福岡の男の話である。短パンから下半身を露出させたままランニングをし、現行犯逮捕された男の話。別に、世の中には裸族もいるのだから、男が下半身を出したっていいじゃないか、などと乱暴なことを言うつもりはない。それを主張し、男を擁護しようとする人間は、それを世間に向かって訴えるとき、自分も下半身を露出させていなければ筋が通っていない。現代日本において、公衆の面前で下半身を露出させた場合、逮捕される。そのことに反対するつもりはない。でもなにか、捨て置けないものがある。明日は我が身という恐怖感かもしれない。
 ボケたとき、下半身を露出してしまうタイプの人がいるという。わりと学のある、立派でまじめな人とされてきた人に限って、そんなことになったりするという。これも要するにドイツ人的ということで、人生観が統制的で抑圧的であればあるほど、反動としてそんなことになるのかもしれないと思う。たぶん僕も、ボケるほど長生きしたら、そういうことになるのではないかと考えている。逮捕された59歳の男は、ボケてはいなかったろうが、心身の不調によって9月から自宅療養をしていたという。彼は抱えていたモヤモヤをなんとかするために、あのような行為に至ったわけで、そこには悲痛さがある。僕の考察なので確証はないが、「その1」で述べたように、股間部にあからさまな穴をあけたわけではなく、前あきのボタンがないことでランニングの振動で性器がまろび出てしまうという形を狙った点にも、彼の小心が見て取れる。どこまでも放埓に、すべてを投げ棄てて犯罪行為に走れるほどの豪胆さはないのだ。そこがしかし、愛しいし、そんな子羊は救われなければ嘘だろう、と思うのだ。彼にかける世間の言葉が、「退職金がもらえる直前でとんでもない失敗をやらかしてしまった変態校長ざまあ(笑)」では、この世はもう、地獄ではないか。
 アドルフ・コッホという人がいる。やはりドイツの人で、奇遇にも、男と同じ、小学校の教師であった。彼は児童に特化した裸体体操を考案し、既存の学校の枠組みから逸脱したのち、彼の理念を協賛する人々とともに私学校を設立するに至る。裸体文化実践家たちが直面する性的な問題を、性教育と道徳教育をもって解決するというのが彼の考えの骨子で、男女の児童がともに全裸で体操をすることにより、彼らは異性の身体への敬意や注意を学び取るという狙いがあった。すなわち、秘すれば花というわけで、隠されているから裸体は性的な対象となり、空気浴などが自由に行なえる理想の裸体主義文化は瓦解してしまうわけで、いっそ裸族のように性器を当たり前のものとして開陳させておくことでそれを避けるのである。これはこれで理屈だ。でも理屈通りにいかないことだってあるだろう。いくら裸体が当たり前の環境があったとしても、当たり前のはずの裸体にムラムラしてしまうバイオリズムの夜だってある。相手がそういう気分であるときに、理想の名の下に裸でいることは、きわめて危険だろう。
 結局、どこかで心身のバランスを取り、折り合いをつけなければならないのだ。解放されすぎても、抑圧されすぎても、支障が出る。民主主義社会におけるルールはいちおう、その時勢における構成員の総意ということになっている。女は基本的に胸を隠すし、男だって自由に立ちションをしていいわけはない。でも総意は平均値であるから、どうしたって逸脱する者は出てくる。それが今回逮捕された男だろう。しかし誰にでもそうなる可能性はある。だって正解はなくて、男は平均から大きく外れただけだからだ。さらには男性の場合、体の自然な流れから独立した、きわめて「まろび出しやすい物体」、もとい「まろび出すための物体」と言ってさえいいものがあるので、余計にこの穴に落ちやすいと思う。男の短パンにあいていたという穴は、男性器をまろび出すための穴であると同時に、現代人が抱くべきコモンセンスの島のぐるりに掘られた、深い落とし穴でもあったのだ。だが穴は穴でも、持て余された男性器は、本来生きものとして収めるべき穴に収めたいものだと思う。ドイツが多く登場した今回の話は、ドイツ語で「存在する」という意味を含む、脚を頭上に持ち上げて女性器をさらけ出す姿勢を意味する、「BUNS SEIN!」という名のブログに紡がれた、というのは皮肉な話であると思う。
 以上で今回の事件に関する記述を終えようと思う。最近ちょうどヌーディズムや性習俗に関する本を何冊か読んだので、アウトプットができてよかった。

子羊たちのちんこ その2

 福岡県で穴のあいた短パンから下半身を露出させたままランニングしていた男が現行犯逮捕された件、前回の記事では装置、すなわち穴のあいた短パンとはいかなるものかについて考察した。そしてそれは、肌着の乳首の部分だけを切り抜くような、そういう下品なやつじゃなくて、ボタン留め方式の前あきの、ボタンが取れてしまったver.みたいな、たぶんそんな感じのものだったんだろうと結論付けたわけだが、それだと左右の生地がだいたい3.5~4センチくらい重なるようになっているので、普通にしていれば男性器がまろび出るということはまずない。それなのに今回の場合、まろび出たから事件になっているわけで、刑事さん、僕はここに、今回の事件における重要なファクターがあると思うんですよ。
 というわけで、こんどは動機の方面から、このニュースを深掘りしていこうと思う。
 結果的にまろび出てしまっただけれど、普通にしていれば男性器がまろび出る可能性は低い短パンを穿いていたのだから、そこには余地が生まれる。なんの余地か。それはもちろん、情状酌量の余地である。生地を切り抜いていたわけではない。さらけ出そうという強い意思があったわけではない。もちろん不安はあった。ボタンが取れていることは認識していたからだ(「1週間前から穴があいてしまいました」という証言)。でもボタンは取れたときにどこかに行ってしまったし、そもそも男にボタンを縫い付ける技術はなかった。それでも普通に穿いて日常を過すぶんには問題ないので、使用を続けていた。ひとつ問題があるとすれば、それがスポーツ用の短パンであったということだ。なにしろスポーツ用の短パンであるので、それを穿いていると、どうしたってランニングをせずにはおれなくなってくる。ボタンが取れて大きな穴があいている形になっているので危ないぞ、と思う気持ちはもちろんあった。それでも趣味であるランニングの衝動を抑えることはできなかった。そうして男は激しく飛び跳ねながら走りはじめ、するとむべなるかな、律動した男性器ははずみでたちまち、正面の開口部から飛び出す結果となった。飛び出したな、ということは男性器に感じる10月の空気でもちろんすぐに判った。しかし判ったところで、いったい男になにができただろう。だって短パンのボタンは取れてしまっているのだ。いちど男性器を中に仕舞ったところで、ふたたび走りはじめればまたすぐに飛び出してしまうことだろう。ならば仕舞っても仕舞わなくても同じこと。そう考えて男はそのまま走り続けた(「下半身が出てしまったが見せようとしたわけではありません」という証言)。
 以上である。プロペファイリングは、まるで本人であるかのように、男の思考に寄り添う。動機はざっとこんなものだろう。もちろん僕だって聖人君子ではないので、男にほんの少しも、スリルを味わおうとする意思がなかったとは思っていない。でもそれは証明できないじゃないか。だって故意に穴をあけていたわけじゃないのだから。スポーツ用の短パンの前あき部分のボタンが取れてしまっただけなのだから。これで罪になるのだとしたら、水泳の授業の日、水着を下に着て登校したはいいが、授業後に穿くためのショーツを持ってくるのを忘れた女生徒が、仕方なくノーパンプリーツスカートで過すはめになり、しかし運の悪いことにその日は午後から風が出て、女生徒はスカートを必死に手で押さえながら下校していたが、意中の先輩に声を掛けられた際、思わず手を上げてしまい、ちょうどその瞬間に突風が吹いて、スカートが盛大にめくり上がり、女生徒のきわめてプリミティブな部分が公衆の面前にさらけ出されてしまった、という案件があったとして、ショックのあまり泣きじゃくるばかりの女生徒を、しかしあなたがたは現行犯逮捕なさるんですか、という話になってくる。そうはしないだろう。みんな女生徒に気を遣って見て見ぬふりするだろうし、なにより意中の先輩がすぐに、着ていたカーディガンを女生徒の腰に巻いてやり、ふたりの仲はそこから急速に深まることだろう。なんで? って話じゃないですか。やってること、起ったことは同じ。女生徒だって、ノーパンでびくびく過しながら、心のどこかで昂る部分があったことは否めないだろう。じゃあ一緒じゃないか。女生徒も、変態校長も、やっていることは一緒。ならばどちらかだけが罪に問われるのはおかしい。「すべて国民は法の下に平等である」って『虎に翼』で言ってたもん!
 この事件についての考察、ここまで装置、動機と来て、まだ終わらない。次回は、「露出とはなにか」という、社会的な背景について考えていこうと思う。つづく。

子羊たちのちんこ その1

 福岡県で先日、穴のあいた短パンから下半身を露出させたままランニングしていた小学校校長が、現行犯逮捕されたじゃないですか。それについて、いろいろ思うところがあったので、ここに書いていこうと思う。
 このニュースを受けての世の中の大抵の反応は、「変態校長やっちまったな(笑)」みたいな感じだと思う。病気療養中だったとのことだが、やはり現役の小学校校長というところが世間の耳目を集め、こうしてニュースになったのだろう。
 嫌な感じだ、と思う。
 立場のある人間なのに。聖職者なのに。子どもの手本となるべきなのに。
 だからなんだよ、という話ではないか。ひとりにひとつ性器はあって、それを出すか出さないかに、その人の職業なんて関係ないはずだ。身に着けるもので格の違いを見せつけるのは別にいい。それは社会を構成する生きものとしては正しい行為だ。でもだからこそ、裸になること、そして裸そのものに関しては、それがどんな社会的地位の人間であるかを問うべきではないと思う。それは本当にくだらないことだ。どうしてあなたがたはそんなふうにしかものを考えられないのですか、と問いただしたくなる。
 なので、小学校校長であるということは一切考慮せず、単なる「男」のやったこととして、この出来事について考えたいと思う。
 まず気になるのは、「穴のあいた短パン」というワードだ。ニュースには実物の映像がなかったため、丈の長さも含め、イメージがしづらい。その表現だとダメージジーンズの可能性だってあるけれど、そこから下半身が露出していたというのだから、穴はほかでもなくフロント部分にあったわけだ。
 でも、そもそも「穴」ってなんだろう。
 ここから話は僕の専門分野になる。男性器をのびのびさせやすい衣類に関しては、日夜せっせと思索を重ねている。男性器が出しやすいことを追求していくと、それは介護用ウェアへとたどり着きがち、というのがこの界隈の鉄板あるあるジョークだ。
 そんな見地からいわせてもらえば、警察やマスコミが大雑把に「穴」といっているそれは、「あな」ならぬ「あき」ではないのか。「あき」とは、要するにスリット的なことだが、隣り合う布の縫い合わせない部分、あえてあけている箇所のことだ。短パンということであれば、ファスナーで開閉できるようになっている、あれも当然「あき」である。
 しかし短パンにもいろんな種類があって、今回の場合、ランニング中に穿いていたということならば運動用であると考えられ、だとすればファスナータイプの可能性は低くなってくる。そもそも「あき」はないもののほうが多いだろう。
 じゃあやっぱり「あき」じゃなくて「あな」なんじゃないか、男は自分でそこに男性器が出るほどの穴をハサミなどであけたのではないか、という疑いが出てくるが、「ランニング中に男性器がまろび出てしまう」というスリルを求める心理を想像すると、やはりそうとは思えない。だってそんな故意的な、そこにあった布が切り取られた、ぽっかりとした穴があいていたら、言い逃れができないではないか。それではスリルもなにもあったもんじゃない。また容疑者の供述として、「下半身が出てしまったが見せようとしたわけではありません」と、「1週間前から穴があいてしまいました」というふたつの発言がある。この言い回しから見ても、男はただ露出するのではなく、カムフラージュする意図がなきにしもあらずだった様子が窺える。
 そこで僕が考えたのが、トランクスやステテコによく見られる、「あき」の部分がボタン留めになっているタイプだ。あれは、10センチほどの長さの「あき」の中央にボタンとボタンホールが仕立てられていて(ちなみに自分で作ろうとするととても面倒くさい)、ボタンを留めている限りは男性器がまろび出ることはないが、外れている場合、なにかのはずみで出てしまうことは十分あり得る。男が穿いていたのはその機構の短パンで、1週間前から、それが故意かどうかは判らないが、ボタンが取れてしまった。だから「あき」を閉じることができなくなった。ボタンがなくなってしまったボタン留めの「あき」は、それはもはや「あき」ではない。「あな」である。つまりそういうことではないのか。
 以上が、パンニパル・レクター博士による、プロファイリングならぬプロペファイリング。この事件、今回は短パンについて主に考えたが、次は「下半身を露出するという行為」について考えていこうと思う。つづくのだ。

岡田の射精

 いま放送中、でももうすぐ終わる朝の連続テレビ小説「虎に翼」で、主人公である寅子の夫、岡田将生演じる星航一の口癖が、「なるほど」なのである。裁判所に勤める秀才という設定なので、他者とのちょっとしたやりとりから、さまざまなことを頭の中で考え、そして理解しての、「なるほど」なのだと思う。あまり特筆するような、大した言い回しではない。本ばかり読んで、実地でのコミュニケーションが得意でない人間は、とりあえずよく使う言葉だ。だからもちろん僕も使う。わりと便利である。
 しかしこのドラマの星航一というキャラクターによるものか、岡田将生という俳優の持ち味によるものか、この「なるほど」に、なんとなく色気がある。主人公の夫なので、基本的に夫婦間の会話の中で出てくるのも一因かもしれない。
 星航一は、寅子とは再婚同士で、前妻との間に子どもがふたりいる設定である。でもそこにはだいぶ違和感がある。岡田将生の見た目がどうしたって若いから、というのもあるが、岡田将生という俳優は、どことなく童貞っぽい感じがあり、そこに原因がある気がする。実際はひどくモテるに違いなく、童貞であるはずはないのだが、そのあまりの清潔感ゆえか、岡田将生の脚の間には、陰毛の生えた男性器があるようにはとても思えず、それゆえに童貞性がある。この感覚は僕だけだろうか。僕がやけに岡田将生を神聖化しすぎているのだろうか(ちなみに「ゆとりですがなにか」では、岡田将生ではなく松坂桃李が童貞キャラだった。松坂桃李もたしかに童貞っぽさはあるが、むしろ岡田将生のほうが強いと思う)。
 それでなにが言いたいかと言うと、僕は星航一、つまり岡田将生の「なるほど」を聞くたびに、岡田将生は童貞だから、寅子とぜんぜん別のことを話しているのに(ドラマは終盤に入って重たい社会問題のオンパレードである)、なにか頭の中でエロい曲解をしてしまって、それで「なるほど」と言っているのではないか、と思うのだ。そう思わせる「なるほど」なのだ。
 だから、もしも岡田将生がこの先、童貞を喪失することがあったとして(生えていないのにどうやって行為をするのかという問題は別として)、挿入し、抽送し、やがて果てるとき、生まれて初めての快楽に心の中では感激しながらも、やはり長年培われてきた童貞性はそう簡単には捨てられず、なるべく平静を装ったような感じで、「なるほど」と言うのだろうと思う。それは、僕は決して利己的な快感のためだけに腰を振ったわけではなく、これは生命の根源的な神秘に触れんがための行為だったわけで、神はこの瞬間のわれわれに、こういう感覚を持たせてくれたのか、蒙が啓けたような思いだな、という「なるほど」である。とてつもなく童貞っぽい「なるほど」である。
 でもこれは岡田将生にのみ許されたセリフではなくて、射精をするときに男はなんと言えばいいのか問題というのは長く存在し、これまでの僕の暫定的な答えは「食らえー!」だったわけだが、岡田将生の真似をして、われわれも「なるほど」と言えばいいのではないだろうか。動きや膣圧、なにより全体的な相性など、多角的に味わい、吟味した感じを出しての、「なるほど」。「ジョブチューン」で一流料理人がコンビニスイーツをジャッジする感じでの、「なるほど」。えっ、だとしたらそれはとても感じが悪くて、相手の女性に怒られるのではないかって? いいえ、怒られるかどうかはあなた次第。岡田将生は怒られない。要するにそういうことだ。なるほど。

除夜の鐘 2023

 2023年が終わる。
 終わるにあたり、プールに行った回数とともに去年の途中から集計を取るようになった射精の回数も、1年間の合計を出した。出した結果がミラクルだった。
 108回だったのだ。
 折しも108という数字を意識しやすい年末である。煩悩の数だけ撞くと言われる除夜の鐘。僕はこの1年間で、ちょうどその回数分だけ射精をしたのだった。射精をした直後の清々しさのことを思えば、なるほど射精と除夜の鐘は同一の機能を持つのかもしれない。
 以前からプールに行った回数に関しては記述をしていたが、射精回数に関しては明確な数字を記すのを控えていた。あくまで射精の回数であり、セックスの回数ではないので、ファルマンを巻き込むことになるから自重していたということではなく、自主的な羞恥により隠してきた。そのスタンスを変えるつもりはまったく持っていなかったが、しかし今回は数字が数字だったので、こうして発表するほかなくなった。
 ちなみに発表を前に、40歳での年間108回というのが、多いのか少ないのか、いちおう確認しておくことにした。「年間射精回数」で検索したところ、もっとこう、「俺の今年の年間射精回数は〇回だったぜ」みたいな、気さくな記述がざくざく出てきてほしかったのに、そういうものにはついぞたどり着けず、日本人のセックスレス問題や、射精回数が多い人のほうが前立腺癌になりにくい、みたいなページばかりが表示され、役に立たなかった。その中でひとつだけ参考になったものとして、とある泌尿器科の医者が書いていたブログ内で、「射精の頻度を割り出す9の法則」というものが紹介されていた。それによると、年齢の十の位に9を掛け、20代ならば18、30代ならば27、40代ならば36となり、それぞれ10日に8回(年間292回)、20日に7回(同128回)、30日に6回(同73回)という計算になるらしい。なんとなくそれっぽい数字だな、と思う。とすれば、40代と言っても僕は9月までは30代であったし、なんかまあ順当なところなのかな、と思った。まあ別に回数の数字が大きければ大きいほどつええ奴、ということでもないし、そこまで拘るものでもなかろう(とは言え発表前に確認をしておく必要はどうしたってあった)。
 最終的にそんな数字になるとは夢にも思っていなかったから、意識せずに日々の射精をしていたけれど、僕は1年間を通して、除夜の鐘を鳴らしていたのだった。108回。満足のいく撞きになったときもあれば、失敗したときもあった。そのひとつひとつが煩悩との闘いであったと考えると、この1年間の自分のその行為が、丸ごと愛しいものに思えてくる。
 寺社にある、釣鐘を撞くためのあの棒は、橦木(しゅもく)と呼ぶらしい。傘も刀もピストルも、ありとあらゆるものが陰茎のメタファーであるならば、あれなんかはもはやメタファーでさえなく陰茎そのものだと言えそうだ。昔行ったかなまら祭りの風景なんかも、自ずと甦ってくる。僕はこの1年で108回、堅牢なる橦木で鐘を撞いた。
 僕の造語でシャノマトペと言われる、射精の際に放たれる擬音(擬態)語。それはこれまで「ドピュピュピュ」であるとか「ビュービュビュー」であるとか、だいたいそのような文字列であったが、これからは僕の橦木が打ち鳴らす音として、「ゴーーーン」こそがふさわしいのだと喝破した。大みそかの夜、どこからかその重厚たる音色が聴こえてきたらば、それは僕の射精の響きであると思ってほしい。そしてそれは、思うだけでいいのだ。なぜなら「ゴーーーン」は、もう過ぎ去ってしまったもの(gone)だからだ。陰嚢から放出された、失ったものではなく、その次のことにこそ思いを馳せてほしい。
 そんな見事な結末を迎えた、今年の僕の射精ライフなのだけど、プールの年間最終開館日の夜に、一緒に集計を行なったので、この数字が判明したのは12月29日なのであった。そのため話をこのままきれいに終わらせるには、今年はもう1回も射精をしてはならないということになってしまい、そもそもその時点で、前回の射精からほどほどの日数を経ていたので、なんか少しやるせない感じになった。もう1回すれば109、そこからさらにもう1回すれば110ということになり、それぞれの数字でうまいこと言えないものかとも模索したが、やはり煩悩の数に勝るものはないという結論に至った。でももう大みそかも夕方なので、それは無事に成りそうである。
 来年はきちんと40代として過す1年間になるからこそ、108という数字に拘ることなく、今年以上の数字を目指し、スタートダッシュを決めたいと思っている。
 よいお年を。

「金玉肉袋の寛ぎ」を読んで 8年H組 purope★papiro


 鼻炎薬を服むと金玉肉袋が寛ぐ。
 とかく気が滅入る体調不良の中で、その発見にどれほど魂が救われたか知れない。金玉肉袋が寛ぐと、勃起とはまた違う種類の、生きる希望が滾るのだった。
 体調が回復して、鼻炎薬の効果が切れれば、金玉肉袋はいつもの状態に戻った。体そのものは元気になったのだから、良しとするべきなのだろうが、金玉肉袋に関してだけは、幽かな喪失感を抱くこととなった。
 鼻炎薬を服むことで金玉肉袋が寛ぐのは、要するに血流であろう。血流が良くなり、体温が上がることで、免疫力が上がり、鼻炎は鎮静化し、そして金玉肉袋は寛ぐ。寛ぐというのは客観的な感想で(僕が僕の金玉肉袋に対して完全な客観性を持つことは不可能だが)、精巣擁する金玉肉袋は、突然の体温の上昇に際して、熱を逃すために表面積を増やしているのだろう。そのためピンチと言えばピンチだが、ピンチは同時にチャンスでもあり、嵐を前にして的確な指示で帆を張ってみせる航海士のように、その姿はどこか誇らしげでもある。
 であるならば、金玉肉袋を肥大化させるためにいつも鼻炎薬を服むわけにはいかないが、生活の中で血流を良くすることを心がければ、金玉肉袋というものは、これまでの暮しの頃よりも、寛いだ表情を見せてくれる場面が増えるのではないかと考えた。
 そこでインターネットで血流を良くする方法を検索したところ、ハイカカオチョコレートがいいという情報を得て、それ以来1日20gほど、カカオ分85%だというチョコレートを食べる習慣を始めた。すべては金玉肉袋を寛がせるためである。
 そしてこのたび、それを開始して10日ほどが経過したので、その結果について報告をしたい。
 ハイカカオチョコレートを摂取することで、本当に金玉肉袋は寛ぐのか否か。
 答えはYESである。
 ただし鼻炎薬ほどの強烈な現象ではない。しかしそれはそうだと思う。あれはやはり医薬品の、イレギュラーな刺激に対する反応であろう。常時あのような態勢でいたら、たぶん健康に良くない。
 それに対してハイカカオチョコレートを食べるようになってからの金玉肉袋は、健康的である。だらんと弛緩するのではなく、しかしこれまでのように萎んで固い感じとも明らかに違う。なんと言うか、ぷりぷりしている。触り、揉むと分かる。ぷりぷりしている。
 ぷりぷり! 怒っているのではない。肉体の描写にこの表現を使われ、悪い気のする人間はそうそういないと思う。おじさんが、若い女の子とかに使うと、もしかすると嫌がられるかもしれない。それこそぷりぷり怒るかもしれない。でもそんなおじさんの金玉肉袋を触ったら、若い女の子もこう言わざるを得ない。やけにぷりぷりしてる!
 滝口悠生の「死んでいない者」という小説に、幼児の男の子の性器を、金魚の心臓のよう、と喩える場面があり、その比喩はやけに心に刺さり、健やかな少年の性器というものは、なるほど金魚の心臓のような、自然の摂理というか、生命そのものというか、好もしさが漲ったものだな、ということを思ったが、ハイカカオチョコレートを摂取することでぷりぷりし出した僕の金玉肉袋は、かつては僕も実際にそうであったはずの、往時のその姿を彷彿とさせているのではないかと思った。
 血流を良くするのと同義なのかもしれないが、ハイカカオチョコレートの効能のひとつに、ポリフェノールによるアンチエイジング効果、というものがある。つまり僕はハイカカオチョコレートを食べたことにより、金玉肉袋を若返らせることに成功したのかもしれない。そして今のところ金玉肉袋にしかその効果は見出せない。これは金玉肉袋が、人体におけるカナリヤ的な、なにか異変があったときに真っ先に反応するという特性を持っているからなのか、あるいは、筋トレをするときはそのトレーニングで効果を得たい部位を意識しながらやると効果的というのと一緒で、僕が金玉肉袋のことだけを一心に考えていつもチョコレートを食べるものだから、素直にその効果がそこに注がれているのか、定かではない。どちらにせよ、求めていた結果は得られたので万々歳だ。
 願えば叶う。やればできる。不可能なんてない。僕は金玉肉袋を通して、そのことを学んだ。もうこれまでの僕とは違う。だって僕の金玉肉袋は、ぷりぷりしているのだから。

俺とツタンカーメン


 ポルガが相変わらずツタンカーメンに傾倒している。1年以上前から古代エジプト王朝への情熱はあって、それで去年あのTシャツを作ったわけだが、あれからますますその度合いは強まっているように思う。それにしてもあのTシャツは本当によく着た。同時に作ったピイガも同じくだが、たぶん365日でそれぞれ90日くらいはあのTシャツだったんじゃないかと思う。娘たちは、見たらいつもあのTシャツを着ていた。
 そんなポルガがつい先日、「ツタンカーメンのお墓から、パンツが150枚発見された」という情報を開陳してきたので、パ、パンツが150枚!? と衝撃を受けた。この衝撃は、大抵の人においては、そんなにたくさん!? というものだろうが、僕の場合は違う。おなじだ! である。パンツ150枚。最近はもうきちんとナンバリングしていないので、何枚になったのか不明瞭なのだけど、たぶんそのくらいではないかと思う。既製品を足したらもっと多くなるが、とりあえずハンドメイドショーツだけで考えれば、僕とツタンカーメンは同じくらいの数のパンツを所持していたということになる。
 なんだか一気に親近感が湧いた。
 ただしツタンカーメンが特別なインナー好きであったという証拠は残されていないようで、おそらく体の弱かった彼のために、清潔を保つ目的で数多く用意されたのだろう、という推測が立てられているらしい。本当だろうか。清潔を保つことだけが目的で、それほどの数になるだろうか。推測を立てた研究者は、まず間違いなくパンツを150枚持っていないだろう。それではパンツを150枚保持する人間の気持ちが分かるはずがない。僕は分かる。ツタンカーメンは、インナーに対して特別な偏愛があったのだ。分かる。分かるよ、トゥトアンクアメン(正確な表記)。インナーは愉しい。そしてインナーのなにが愉しいのかと言えば、インナーのすぐ下には性器があるという点だと思う(いまツタンカーメンが大きく頷いている姿が見えた)。つまりインナーっていうのは、性器のための演出道具なのですね。
 だから僕はさまざまな形、さまざまな素材、さまざまな柄でショーツを作る。それに包まれ、それからまろび出されるちんこを愉しむために。そして気付けば150枚になっていた。しかしツタンカーメンの時代には、残念ながらそういったバリエーションは望めなかったらしい。もちろん王族なので上等な生地であったそうだが、物自体は画一的であった。では、画一的ならば150枚あってもしょうがないのではないか、という気がしてくるが、ところがどっこい、ここからが約3300年の時を超え、150枚ショーツ同盟を組む同志である僕にしかできない推察である。静粛に。心して聞いてほしい。
 同じ生地、同じ形で作られた150枚のショーツ、作ったのはすべて違う女。
 どうだ。これだろ。間違いないだろ。そういうことだろ。そういうことなんだろ、トゥトアンクアメン(正確な表記)。謎は全て解けた。なぜツタンカーメンの墓には150枚ものパンツがあったか。人類最大の謎と一部で囁かれていたこのミステリは、ひとりのハンドメイドが趣味のブロガーによってこうして鮮やかに解明されたのだった。
 ついでにツタンカーメンのページをちらほらと眺めたら、ツタンカーメンは死後、冥界の神オシリスに似せようと細工をされた形跡があり、すぐに崩れてしまったので証拠は残っていないが、男性器は垂直におっ立てられていたという。オシリスは死と再生を象徴する神だというが、男性器を勃起させつつ、どうしたって日本人にとっては尻を連想せざるを得ないオシリス神の象徴などと言われても、なんかもう下ネタ過ぎるだろ、という気しか起こらない。もしかするとツタンカーメンは、僕の人生の目標である、なんかしらの性に関連する事柄の象徴となって奉られたい、という願いもまた、共有していたのかもしれない。
 そんなツタンカーメンとの縁を感じた出来事だった。ちなみにツタンカーメンの身長は167センチだったそうで、ここまで来るともうちょっと怖い。同志どころか、もしかすると僕はツタンカーメンの生まれ変わりなのだろうか。そう考えれば、実の娘が異様にツタンカーメンに耽溺するのも、なんかしらの第六感によるものかもしれないと思えてくる。

ハーレムという選択

 ハーレム的な一夫多妻生活を行なっていた男が逮捕され、ニュースになっていた。
 74歳、元占い師(という謎の肩書)。逮捕されたのは初めてではないそうだが、今回の罪状は、10代の少女にUFOの映像を見せて洗脳し、乱暴をしようとしたことだという。
 74歳。10代少女。乱暴。
 すげえな、と思う。
 すげえな、と思うと同時に、この男以外の女性には顔にモザイクがかけられた、一夫多妻生活のさまを撮った映像を目にし、普通に「気持ち悪い……」という感想も抱いた。我ながら、それは意外といえば意外だった。あれほど希うハーレムの、実際の風景だというのに、そこに羨望のような気持ちはまるで湧いてこないのだった。
 しかし思えば僕は、エロ小説などのハーレムものでも、集団において主人公ひとりがひたすらモテ、女の子がちんこの争奪戦を繰り広げる、という段階はとても好きで、物語がそのままなんの、本当になんの発展性もなくダラダラと続き、そして、「この夢のような愛欲生活は当分終わりそうにない……」みたいな、締まっているのか締まっていないのかよく判らない締めで、話が閉じられるともなく閉じられるのならば万々歳なのだけど、稀に、いやあまり稀でもなく、ハーレムに所属する女の子が、ほぼ同時にみんな妊娠する、という種類の終末が描かれることがある。もちろんそれは最高のハッピーエンドとしてだ。しかしあれが僕はとても苦手で、その結末が待っているのだと分かってしまった時点で、それまでの妊娠前のハーレム風景にも影が落ちてしまう。それはなぜかと言えば、やっぱり妊娠は、現実的な、人生的な、さまざまな問題を孕むからだ(妊娠なだけに)。もっとも僕はなにも妊娠をネガティブなことと言っているわけではない。僕との行為を経てファルマンは妊娠し、娘をふたり産んだ。これはとてもすばらしいことだ。すばらしくて、大事で、そして大きな責任を伴う出来事だ。そのことが実感としてあるがゆえに、ハーレム孕ませはもちろんのこと、純愛ものであったとて、エロ小説の最後に妊娠を持ってこられると、困る。もっと直截に言うと、萎える。そういうのは発生しない条件下での桃色遊戯だと思っていたのに、と思う。
 ここまで書いていて思ったが、もしかするとこの強い感情は、父が母以外の女性を妊娠させたことで家庭が崩壊したという来歴も影響しているのかもしれない。たぶんそんなに影響していないだろうけど、こんな自分の人生を切り売りするようなことを文章中に織り交ぜると、話の内容に深みが生まれるのではないかと思って実行した次第である。
 えっと、それでなんの話だったっけ、そうだ、現実の74歳元占い師のハーレムの話だ。記事によると、ハーレムのメンバーは妻および元妻が9人、そして子どもが男女合わせて3人だそう。思ったより子どもが少ないことをこの段階で知り、この話の根幹は揺らぎかけている。妻たちは、働いてお金を稼いでくるグループと、家のことをするグループに分かれていたそうで、どうも思ったより統制の取れた、理に適った共同体だったのかもしれないと感じ始めた。ボスである男に対してとりあえず慕う心があり、ひとりで生きるより集団で生きたほうがマシかなと思ったのなら、こういう選択もそこまで箍の外れた行為ではないのかもしれない。「独り」か「核家族」かの二択は、言われてみれば少し乱暴なところがあるし、年を取ればケアハウスや老人ホームで結果的に似たような形式の暮しをすることになる。
 ハーレムの、あっけらかんと性快楽を謳歌したいだけなのに、妊娠や共同生活によって責任が生じること、そして責任とハーレムセックスというふたつの言葉の相性の悪さから来る歪みによって気持ち悪さを覚えること、だからハーレムセックスというのは、モテモテの男子高校生あたりが学園の女子相手と好き放題にやりまくる(もちろん妊娠はしない)、というのがいちばん理想的な形だ、一緒に暮らそうとしてはいけない、ということを今回の記事では綴ろうと思っていたのだが、本当に見事なまでに揺らいだ。逮捕の理由は本当にひどく、揺らいで着地した地面がまた揺らぐのだが、そんなことさえなければ、以前の乱交パーティーと一緒で、誰に迷惑をかけたということもなく、それを求め、それに救われる人もいるのだ、という事案なのかもしれない、これは。
 どちらにせよ、もう少しじっくり考える必要がありそうだ。

ショーツの理由

 150枚くらい作っておいて何だが、ショーツ作りの動機がいまだ自分の中で定まっていない。「顔パンツ」という言葉に触発されて、布マスクを作るように真正パンツも作ってみよう、で作り始めたわけだが、その動機ならせいぜい5枚くらい作れば気が済んで話はおしまいだろう。しかし実際にはそのあともずっと作り続け、そろそろ1周年になんなんとしている。それは一体いかなるモチベーションで行なわれているのだろうか。
 しばし考えた末に、それは「ちんことの対話」なのではないかと思った。ちんこはきわめて身近な存在でありながら、その一方で高みの存在でもある。僕個人の所有物であることはたしかだが、同時にイデア界からの借り物であるような気もする。だからタイミングによって、とてもぞんざいに扱うこともあれば、奉るかのごとく丁重に扱う場面もある。つまり150枚ものショーツとは、ちんこへの貢物であり、そうやって日々献上品を納めることによって、僕はちんことより昵懇な仲になろうとしているのではないか、と思った。実際、毎日のように新しいショーツを穿き、新しい見た目、新しい着心地を与えたことによって、それまでの日々に較べて、僕とちんこの関係性は親密になったと思う。
 先ほど貢物という言葉を使ったが、日々新しく捧げられるショーツが、ちんこという男性性の象徴への貢物なのだとしたら、ショーツとはすなわち女だ、とも言える。なにぶんショーツという、一般的には女の子の下着に使われる言葉をあえて使うくらいなので、僕はショーツに、女性性を感じ取っている。製作したショーツを紹介しているインスタグラムでも、「このデザインのショーツは、こういう女の子が穿いてそう」みたいな言い回しをよくする。だから150枚のショーツは、150人の女の子のメタファーだ、ということもできる。世の中には、実在の女の子のショーツを、購ったり、あるいは盗んだりして、自分で穿いて興奮するという嗜好の男性もいる。知り合いにいるわけではないが、世に聞くに、いるに違いない。それを僕は、自作し、完成したショーツから女の子を想像し、そして創造することによって、同種の快感を得ているのではないか、という気がする。それは全てではないが、たしかにある。「女の子が穿いてそうさ」は、自作ショーツの魅力を語る上で、重要なファクターのひとつである。
 そんな自覚を持ち始めた折に、年が明けてすぐ、「クラスショーツ」という試みをした。年末から頭にあったものを、冬季休業を利用して実行に移したのである。完成品は「nw」に投稿したけれど、要するに「もしも僕が女子校の教師で、受け持ちのクラスが、クラスTシャツの代わりにクラスショーツを作ることにして、そして担任である自分の分も作られ、しかもそれをちゃんと穿いているか全員の前で脱いで確認させられたら」というストーリーの、そのショーツで、もちろん僕は実際には女子校の教師ではないのだけど、それなのにその学園の2年D組のクラスショーツはたしかに手元にあるわけで、どこかファンタジックな風味もある、特別な1枚となった。
 そしてこの体験を通して、僕はまたひとつ、ショーツ作りの動機において、新しい階梯へと進んだ。すなわち、件のクラスショーツが、教室で唯一のちんこ保持者である僕への、ティーンエイジャー少女特有の性的好奇心からの、「あげるからその代わりに穿いてるところを見せてね」という形での貢物なのだとしたら、はい出ました再びここで貢物というワード、だとしたらこれまでに作った150枚のショーツもまた、全てが実は受け持ちのクラスの生徒が僕に作って捧げてくれたものなのではないか、僕はショーツに対し、そういう受け止め方をすることもできるのではないかと思った。僕は女の子たちから、サイドの部分が2センチもない、フロントの上部から陰毛がはみ出る、それでいてちんこの膨らみはきちんと前に迫り出る、とても小さい面積のショーツを、怒涛の如く贈られている。そう考えたとき、150枚のショーツはまた一段、その淫靡な輝きを増した。