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「やらハタ」の人間と「女の子も実はエロい」という真理の関係性


分が10代の頃に知っていればどんなによかっただろうと、日常生活の中でたびたび痛感する、「女の子も実はエロい」というこの世の真理。これさえ! これさえ知っていたらば! 義務教育課程および高校(あまつさえ男子校だし)で学んだすべての知識と引き替えにしてでも、このことさえ誰かが教示してくれていたら、僕の人生はぜんぜん別のものになっていたに違いないのに、と34歳でふたりの娘の父親になった今でも、悶えたくなる夜がある。
 「やらハタ」という言葉があって、これは「やらずハタチ」の略で、セックスを経験しないまま20歳になることを表しているが、これは20歳とか21歳とか、そういう年齢でまだ童貞であることの恥ずかしさを嗤うための言い回しではなくて、じゃあ22歳になってやっと無事に卒業を果たして、20歳や21歳のときはやらハタと言われて居心地が悪かったが、遅まきながら卒業したからにはもうそんなの関係ないよね、となるかと言えば、そんなことは決してないのである。20歳を過ぎてからの卒業およびその年齢、あるいは依然として継続される非卒業なんていうのは、この烙印を押された人間にとってなんの関係もない。たとえ20歳を過ぎてわずか1週間後の童貞喪失であったとしても、その人間の後半生に、やらハタのレッテルはいつまでも付き纏う。社会的な話をしているのではない。自己の精神の話である。やらハタの人間は、そのあとの半生でどれだけセックスをしたとしても、心の中でやらハタの焔は燃え続ける。そういうものだと思う。
 そうでない人生のほうを経験していないので、実際にどちらが幸福なのかは判らない。パラダイムでさえ渦中にあるうちはそうでない状態が想像しづらいというのに、やらハタの人生とやらハタを回避した人生のどちらもを想像するなんてこと、絶対に誰にもできない。やらハタ思考の愉しさもあれば、非やらハタ思考の満足感もあることだろう。どちらにせよ、隣の芝生は青い。それゆえに僕には、非やらハタ人種に対して、壮絶なまでの憧憬と劣等感がある。なんで俺のこの人生は非やらハタじゃなかったんだよ、と自分に対してではなく、世界に向けて激しい怒りの感情を持っている。
 それで冒頭の、「女の子も実はエロい」である。このことを知っていたら、もっとうまく立ち回れた場面が、10代の頃にいくらでもあったろうと思う。高校は男子校だったが、そんなの関係ない。童貞を喪失している同級生はいくらでもいた。彼らは知っていたのだ。「女の子も実はエロい」ということを。それなのに僕には教えてくれなかった。なんて薄情な奴らだろうか。もっとも僕も疑いを持ったことはあった。世界の姿を眺め、これって女の子も実はエロいってことにならないか? という疑念は抱いていた。でもそれは決して確信にならなかった。なぜ確信にならなかったのか。その理由について考えて、こう答えを導き出した。今は「女の子も実はエロい」ということを理解しているが、やはりそれは親切な誰かが教えてくれたわけではない。ではなぜいつの間にかそれを僕は知っているのかと言えば、自分の中のエロを客観的に見られるようになり、これと同程度のものを女の子が持っているのもまた当然だ、と思えるようになったからだと思う。10代の頃はその客観視というのが壊滅的にできなかった。なにしろエロの度合が違った。女の子も本当はエロいんじゃないかと少し疑っても、いや、そんな、まさか、女の子がここまでエロいはずないだろう、こうエロいのは男ばかりだろう、こんなエロさをぶつけたら(おそらく)清純な女の子は押し潰されてしまうことだろう、と否定してしまったのである。悲劇だ。力が強すぎて、愛しい子猫を抱きしめて殺してしまう、化け物のお話のようだ。
 本当は当時から、10代後半の少年がエロエロなのと同じように、10代後半の少女はエロエロだったはずだ。知っているのだ。本当はちんこのことに興味津々だったに違いないのだ。知っているのだ。握って感触を味わったり、舐めて味を知りたかったり、女の子だって悶々としていたに決まっている。知っているのだ。こういうことを言うと、妻は否定する。勘違いだと言う。なにぶんやらハタのため、実地での根拠があるわけではなく、そういうことを言われると途端に自信が揺らぐ。かつて遠い昔10代の少女だった妻の証言は、僕の類推よりもどうしたって説得力がある。
 そういうとき、僕は文献にあたる。参考資料にあたる。そうすると、やっぱり女の子はちんこのことが大好きで、それを前にすると上の口からも下の口からも粘性の液体をダラダラ垂らすようなので、僕は安心して、この世界に感謝のお祈りをして、眠りにつく。