ちんまんだん

 我々が「男根」「巨根」と言っているとき、突き出た長い形状のものを指すはずがない「根」になぜかその意味を持たせているのは、無意識に「棍」(「棒」という字義があり、こん棒や三節棍で用いられる)と混同してしまっているからだ、という、先日「パピロウせっ記」の中で提唱した説は、エロ言語学上、とても重大な発見なのではないか、という気持ちが、その日以来ずっと頭の中でくすぶっている。このくすぶりは、僕がいつまでもかすかな酸素を与え続けることで、いつまでもくすぶり続けるのだろうと思う。ボワッと発火はいつまでもしない。なぜなら僕ひとり分の酸素しかこの界隈にはないからだ。
 同じく「パピロウせっ記」の中で、睾丸および陰嚢のことをなんと呼ぶかという議題の中で、いちど「宝玉袋」に決まりかけた場面があり、その際に「肉棒と宝玉袋、これに八咫鏡を加えたものが、古来より三種の神器と呼ばれております」という記述をした。なにぶんその記事内では玉のことについて熱心に思案していたため、宝玉と来たら八尺瓊勾玉、という連想が手近に来ていた。そして玉がそれならば、自ずと肉棒は草薙剣ということになる。「ちんぽこ」というときの「ぽこ」は矛であるという説もあるし、ペニスフェンシングという競技も(僕の生きる世界の中には)ある。ちんこと剣の相似性に誰も文句はないだろう。当該記事では「これに八咫鏡を加え……」とだけ書き、それについて深い言及はしなかったし、そもそも書いた際にはなにも頭になかったのだが、その翌々日くらいに、通勤の車の中でふと、「鏡は亀頭じゃないか!」と天啓が舞い降りた。亀頭が鏡ってなんだそれは、と思う向きがあるかもしれない。でもエロ小説を読む人間ならば知っていると思う。亀頭って鏡なんですよ。で、あるからして、草薙剣、八尺瓊勾玉、八咫鏡という三種の神器って、瓢箪から駒みたいな話ですけど、もしかしたら男性器のメタファーなのではないか、アマテラスは女性で、女性が生体として基本であり、それが男性であるニニギに授けたのは、Y染色体であり、すなわちちんこで、それこそが三種の神器ということなのではないか、と思った。思ったと言うか、悟ったし、悟った瞬間、アマテラスが、「その通りよ、パピロウ」と言ったような気がした。なんてったって島根県在住ですからね。そしてこの発見もまた、ここにこうして記したとて、他者のたくさんの酸素を浴びることはなく、いつまでもくすぶり続けるだけに違いない。もどかしい。
 そんな種々の発見を得ることとなった、「パピロウせっ記」のインスタ事前会議だが、このたび無事に会議は終わり、僕はいよいよインスタグラムを始めることにする。ああ始める。始めるさ。始める始めると言いながらいつまでも始めなさが、なだぎ武のやるディランが自転車から降りるときのようだが(古すぎて震える)、とうとう始める。ああ大丈夫、いま始めようとしているところだ。具体的に言うと、10月1日からやる予定だ。10月1日ということは、その時点で今年の残り日数が92日ということになる。だとすれば、やれるかどうか分からないけれど、その全日投稿するだけの弾はあるのだ。つまり、作ったショーツはもう92枚を超えているということだ。作ったな……。