ものの本を読んでいたら、「鳥類(新鳥類)にペニスがないのは空を飛ぶために身体を軽くする必要があったから」という記述があり、なるほどなあと感じ入る部分があった。
空を飛ぶことに対する憧れは、得てしてロマンチックに描かれるけれど、そんなことをのたまう男の前に、絶対的な存在が現れ、「じゃあ飛べるようにしてあげる代わりに、ちんこ没収ね」と言ったら、男はすごく悩んで、悩んで悩んで、頭の中がちんこでいっぱいになって、そしてなんかしらの結論を出すのだ。斯様に、実際はぜんぜんロマンチックじゃないのだ。脳内は、亀頭と、陰毛と、玉袋で埋め尽くされている。どれほどお前が社会で大成して、非の打ちどころのない好青年だと周囲から褒めそやされても、出自は卑しく、アル中で無職の伯父が、家族の弱みをチラつかせてすぐに金を借りに来ることを、ゆめゆめ忘れてはならない。ゴミできらめく世界が僕たちを拒んでも、夢を濡らした涙が海原へ流れても、空を飛ぼうとすれば、どうしたってちんこが足を引っ張るのだ。
こうも言える。
ちんこは空を飛ばない。
君はロックなんか聴かないし、あの日見た花の名前を僕達はまだ知らないし、岸部露伴は動かないし、ちんこは空を飛ばない。ちんこは空を飛ぶようにできていないのだ。飛行機に乗ったとき、あるいは飛行機に乗るまでもなく、空を飛ぶことの疑似体験として高い所に登っただけでも、陰嚢のあたりがひゅーっとなるけれど、あれはちんこが空を飛ぶという、この世のことわりに背く行為をしているからだったのだ。今年のGWの帰省の際、僕の飛行機でのビビり方を、妻と娘たちは嘲笑していたけれど、あれはしょうがないことだったのだ。能力者が海楼石に近づくだけで体を弱らせるように、ちんこを持つ父は、空からものすごい力でちんこを苛まれていたのだ。それは元気もなくなろう。しかもそのちんこが、空的にもそのくらいのサイズのちんこならまあ許せるかな、という程度のちんこの男もこの世には多くいようが、幸か不幸か、僕の場合はそうではない。僕の飛行機の怖がり方は常軌を逸していると言われるが、そういうことだったのだ。ちんこのサイズと、空からの拒まれ度合は、比例するのだ。なるほど僕の感じる恐怖は規格外なわけだぜ。
そしてこうも言える。
ちんこと翼は等価交換である。
すなわち、ちんことは翼である。
大空にはためかせ飛んでゆくために「ください」と希われる翼だけど、実はわれわれは既にそれとまったく同価値のものを持っていたのだ。思えば伏線はあった。ディズニー映画「ダンボ」である。あれ、象が耳を使って空を飛ぶじゃないですか。象はもちろんちんこだから、あれってちんこが翼と合同であるという真相にたどり着くためのヒントだったんですよ。アメリカでの公開は1941年だそうだから、80年前から張り巡らされていたんだね。あと絶頂を迎えるときに「飛ぶ!」って叫ぶパターンがあるじゃないですか。あれも伏線ですね。さらには精子って飛ぶじゃないですか。大いに飛ぶだろうと思ったら意外と飛ばないときもあるけど、でもまあ飛んだりしますよね。あれももちろん伏線。あとからこうやって数々の周到な伏線に気づくと、作者すげえ、ってなる。今なってる。
これまでちんこちんこと言ってきたけれど、ダンボの耳に対応し、左右対であるという特徴を踏まえれば、ここまで述べてきた「ちんこ=翼」は、「陰嚢=翼」と言っていいだろう。ならば右の金玉は右ウイング、左の金玉は左ウイングということになり、右の金玉がエムバペ、左の金玉がネイマール、そして陰茎がメッシという、MNMトリオを形成する。3人の年俸を合計すると367億円だそうだ。俺はそんなものをぶら下げて、日々を生きている。自信が湧く。空なんか飛べなくていい。幼い微熱を下げられないまま神様の影を恐れて隠したナイフが似合わない僕をおどけた歌でなぐさめなくていいんだ。