子羊たちのちんこ その3(完結)

 裸体主義文化はドイツがその中心地となっており、Freikörperkultur、すなわち「Frei:開放的な」「körper:身体」「kultur:文化」の頭文字を取って、FKKなどと呼ばれる。Pubococcygeus muscleのことをPC筋と呼ぶのと一緒だ。
 ヨーロッパにはあちこちにヌーディストビーチがあるらしいが、学術的な話題で取り上げられる場合が大抵ドイツの話なのは、たぶんフランスのヌーディストビーチとかは、特に深い意味などなくて、エロエロな非日常を愉しみたいという素直な欲求だけで出来ているからなのだろう。それはたぶんお国柄によるもので、そもそも現代日本人のイメージからすると、ドイツというのは頑固で堅実な国民性であるため、衣類もアイロンをきっちり当てたものを、シャツのボタンをひとつも外すことなく着ているような印象があり、ヌーディズム文化があること自体が意外に感じられる。しかしその来歴を読むとFKKの思想というのは、近代化、工業化によって人が人として扱われない、人間としての健康と尊厳が失われたことを憂えたドイツの人々が、なるほど理屈っぽく、そのアンチテーゼ的な意図でもって自然への回帰を提唱したことに端を発するらしい。
 自然への回帰とは、すなわち衣服を着ないことである。ここに若干の論理の飛躍があるように感じられるかもしれない。深く知りたいなら本を読めばいいと思う。とにかく、体温を獲得するための皮膚呼吸を阻害する存在として衣服を捉え、それを脱いで外気にあたることを、18世紀のドイツの科学者、ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクは、「空気浴」という治療法であるとした。この考え方は、『パンツを脱いで寝る即効療法』という本を読んだ数年前から全裸で寝ている僕の心に刺さった。こちらの本の論拠は主に、ゴム製品による体への弊害であったが、結論は一緒である。できうる限り、人は衣服なんて着ないほうがいい。生きものとしてそちらのほうが正しい。そういうことである。
 世界には、ヌーディストビーチ以前に、そもそも服を着ない人たちがいる。裸族と呼ばれる人たちだ。しかし裸族にもいろいろあって、性器だけは隠すタイプもいれば、性器もまったく隠さないタイプもいる。中には、性器はさらけ出しつつ、女性の乳房は覆う、という人たちもいる。彼らの理屈は、性器はもともとあるものだが、乳房は性の象徴として年頃になると現れるものだからエロい、というもので、なるほどそれはそれで理屈だろう。一方で、ひと昔前の日本では、往来で普通に女性が子どもに乳を与えてやっていたなどとも言うし、はたまた女の乳首は一般的に隠す対象だけど男のそれは看過される、というのが長らくの共通認識だったが、過剰なジェンダーフリー思想も影響して動画サイトなどでは男性の乳首も規制の対象となっていたりもする。斯様に、なには出してもよくて、なにを隠すべきなのかは、その時代や場所によっていかようにも変移する。
 翻って、今回の福岡の男の話である。短パンから下半身を露出させたままランニングをし、現行犯逮捕された男の話。別に、世の中には裸族もいるのだから、男が下半身を出したっていいじゃないか、などと乱暴なことを言うつもりはない。それを主張し、男を擁護しようとする人間は、それを世間に向かって訴えるとき、自分も下半身を露出させていなければ筋が通っていない。現代日本において、公衆の面前で下半身を露出させた場合、逮捕される。そのことに反対するつもりはない。でもなにか、捨て置けないものがある。明日は我が身という恐怖感かもしれない。
 ボケたとき、下半身を露出してしまうタイプの人がいるという。わりと学のある、立派でまじめな人とされてきた人に限って、そんなことになったりするという。これも要するにドイツ人的ということで、人生観が統制的で抑圧的であればあるほど、反動としてそんなことになるのかもしれないと思う。たぶん僕も、ボケるほど長生きしたら、そういうことになるのではないかと考えている。逮捕された59歳の男は、ボケてはいなかったろうが、心身の不調によって9月から自宅療養をしていたという。彼は抱えていたモヤモヤをなんとかするために、あのような行為に至ったわけで、そこには悲痛さがある。僕の考察なので確証はないが、「その1」で述べたように、股間部にあからさまな穴をあけたわけではなく、前あきのボタンがないことでランニングの振動で性器がまろび出てしまうという形を狙った点にも、彼の小心が見て取れる。どこまでも放埓に、すべてを投げ棄てて犯罪行為に走れるほどの豪胆さはないのだ。そこがしかし、愛しいし、そんな子羊は救われなければ嘘だろう、と思うのだ。彼にかける世間の言葉が、「退職金がもらえる直前でとんでもない失敗をやらかしてしまった変態校長ざまあ(笑)」では、この世はもう、地獄ではないか。
 アドルフ・コッホという人がいる。やはりドイツの人で、奇遇にも、男と同じ、小学校の教師であった。彼は児童に特化した裸体体操を考案し、既存の学校の枠組みから逸脱したのち、彼の理念を協賛する人々とともに私学校を設立するに至る。裸体文化実践家たちが直面する性的な問題を、性教育と道徳教育をもって解決するというのが彼の考えの骨子で、男女の児童がともに全裸で体操をすることにより、彼らは異性の身体への敬意や注意を学び取るという狙いがあった。すなわち、秘すれば花というわけで、隠されているから裸体は性的な対象となり、空気浴などが自由に行なえる理想の裸体主義文化は瓦解してしまうわけで、いっそ裸族のように性器を当たり前のものとして開陳させておくことでそれを避けるのである。これはこれで理屈だ。でも理屈通りにいかないことだってあるだろう。いくら裸体が当たり前の環境があったとしても、当たり前のはずの裸体にムラムラしてしまうバイオリズムの夜だってある。相手がそういう気分であるときに、理想の名の下に裸でいることは、きわめて危険だろう。
 結局、どこかで心身のバランスを取り、折り合いをつけなければならないのだ。解放されすぎても、抑圧されすぎても、支障が出る。民主主義社会におけるルールはいちおう、その時勢における構成員の総意ということになっている。女は基本的に胸を隠すし、男だって自由に立ちションをしていいわけはない。でも総意は平均値であるから、どうしたって逸脱する者は出てくる。それが今回逮捕された男だろう。しかし誰にでもそうなる可能性はある。だって正解はなくて、男は平均から大きく外れただけだからだ。さらには男性の場合、体の自然な流れから独立した、きわめて「まろび出しやすい物体」、もとい「まろび出すための物体」と言ってさえいいものがあるので、余計にこの穴に落ちやすいと思う。男の短パンにあいていたという穴は、男性器をまろび出すための穴であると同時に、現代人が抱くべきコモンセンスの島のぐるりに掘られた、深い落とし穴でもあったのだ。だが穴は穴でも、持て余された男性器は、本来生きものとして収めるべき穴に収めたいものだと思う。ドイツが多く登場した今回の話は、ドイツ語で「存在する」という意味を含む、脚を頭上に持ち上げて女性器をさらけ出す姿勢を意味する、「BUNS SEIN!」という名のブログに紡がれた、というのは皮肉な話であると思う。
 以上で今回の事件に関する記述を終えようと思う。最近ちょうどヌーディズムや性習俗に関する本を何冊か読んだので、アウトプットができてよかった。

子羊たちのちんこ その2

 福岡県で穴のあいた短パンから下半身を露出させたままランニングしていた男が現行犯逮捕された件、前回の記事では装置、すなわち穴のあいた短パンとはいかなるものかについて考察した。そしてそれは、肌着の乳首の部分だけを切り抜くような、そういう下品なやつじゃなくて、ボタン留め方式の前あきの、ボタンが取れてしまったver.みたいな、たぶんそんな感じのものだったんだろうと結論付けたわけだが、それだと左右の生地がだいたい3.5~4センチくらい重なるようになっているので、普通にしていれば男性器がまろび出るということはまずない。それなのに今回の場合、まろび出たから事件になっているわけで、刑事さん、僕はここに、今回の事件における重要なファクターがあると思うんですよ。
 というわけで、こんどは動機の方面から、このニュースを深掘りしていこうと思う。
 結果的にまろび出てしまっただけれど、普通にしていれば男性器がまろび出る可能性は低い短パンを穿いていたのだから、そこには余地が生まれる。なんの余地か。それはもちろん、情状酌量の余地である。生地を切り抜いていたわけではない。さらけ出そうという強い意思があったわけではない。もちろん不安はあった。ボタンが取れていることは認識していたからだ(「1週間前から穴があいてしまいました」という証言)。でもボタンは取れたときにどこかに行ってしまったし、そもそも男にボタンを縫い付ける技術はなかった。それでも普通に穿いて日常を過すぶんには問題ないので、使用を続けていた。ひとつ問題があるとすれば、それがスポーツ用の短パンであったということだ。なにしろスポーツ用の短パンであるので、それを穿いていると、どうしたってランニングをせずにはおれなくなってくる。ボタンが取れて大きな穴があいている形になっているので危ないぞ、と思う気持ちはもちろんあった。それでも趣味であるランニングの衝動を抑えることはできなかった。そうして男は激しく飛び跳ねながら走りはじめ、するとむべなるかな、律動した男性器ははずみでたちまち、正面の開口部から飛び出す結果となった。飛び出したな、ということは男性器に感じる10月の空気でもちろんすぐに判った。しかし判ったところで、いったい男になにができただろう。だって短パンのボタンは取れてしまっているのだ。いちど男性器を中に仕舞ったところで、ふたたび走りはじめればまたすぐに飛び出してしまうことだろう。ならば仕舞っても仕舞わなくても同じこと。そう考えて男はそのまま走り続けた(「下半身が出てしまったが見せようとしたわけではありません」という証言)。
 以上である。プロペファイリングは、まるで本人であるかのように、男の思考に寄り添う。動機はざっとこんなものだろう。もちろん僕だって聖人君子ではないので、男にほんの少しも、スリルを味わおうとする意思がなかったとは思っていない。でもそれは証明できないじゃないか。だって故意に穴をあけていたわけじゃないのだから。スポーツ用の短パンの前あき部分のボタンが取れてしまっただけなのだから。これで罪になるのだとしたら、水泳の授業の日、水着を下に着て登校したはいいが、授業後に穿くためのショーツを持ってくるのを忘れた女生徒が、仕方なくノーパンプリーツスカートで過すはめになり、しかし運の悪いことにその日は午後から風が出て、女生徒はスカートを必死に手で押さえながら下校していたが、意中の先輩に声を掛けられた際、思わず手を上げてしまい、ちょうどその瞬間に突風が吹いて、スカートが盛大にめくり上がり、女生徒のきわめてプリミティブな部分が公衆の面前にさらけ出されてしまった、という案件があったとして、ショックのあまり泣きじゃくるばかりの女生徒を、しかしあなたがたは現行犯逮捕なさるんですか、という話になってくる。そうはしないだろう。みんな女生徒に気を遣って見て見ぬふりするだろうし、なにより意中の先輩がすぐに、着ていたカーディガンを女生徒の腰に巻いてやり、ふたりの仲はそこから急速に深まることだろう。なんで? って話じゃないですか。やってること、起ったことは同じ。女生徒だって、ノーパンでびくびく過しながら、心のどこかで昂る部分があったことは否めないだろう。じゃあ一緒じゃないか。女生徒も、変態校長も、やっていることは一緒。ならばどちらかだけが罪に問われるのはおかしい。「すべて国民は法の下に平等である」って『虎に翼』で言ってたもん!
 この事件についての考察、ここまで装置、動機と来て、まだ終わらない。次回は、「露出とはなにか」という、社会的な背景について考えていこうと思う。つづく。

子羊たちのちんこ その1

 福岡県で先日、穴のあいた短パンから下半身を露出させたままランニングしていた小学校校長が、現行犯逮捕されたじゃないですか。それについて、いろいろ思うところがあったので、ここに書いていこうと思う。
 このニュースを受けての世の中の大抵の反応は、「変態校長やっちまったな(笑)」みたいな感じだと思う。病気療養中だったとのことだが、やはり現役の小学校校長というところが世間の耳目を集め、こうしてニュースになったのだろう。
 嫌な感じだ、と思う。
 立場のある人間なのに。聖職者なのに。子どもの手本となるべきなのに。
 だからなんだよ、という話ではないか。ひとりにひとつ性器はあって、それを出すか出さないかに、その人の職業なんて関係ないはずだ。身に着けるもので格の違いを見せつけるのは別にいい。それは社会を構成する生きものとしては正しい行為だ。でもだからこそ、裸になること、そして裸そのものに関しては、それがどんな社会的地位の人間であるかを問うべきではないと思う。それは本当にくだらないことだ。どうしてあなたがたはそんなふうにしかものを考えられないのですか、と問いただしたくなる。
 なので、小学校校長であるということは一切考慮せず、単なる「男」のやったこととして、この出来事について考えたいと思う。
 まず気になるのは、「穴のあいた短パン」というワードだ。ニュースには実物の映像がなかったため、丈の長さも含め、イメージがしづらい。その表現だとダメージジーンズの可能性だってあるけれど、そこから下半身が露出していたというのだから、穴はほかでもなくフロント部分にあったわけだ。
 でも、そもそも「穴」ってなんだろう。
 ここから話は僕の専門分野になる。男性器をのびのびさせやすい衣類に関しては、日夜せっせと思索を重ねている。男性器が出しやすいことを追求していくと、それは介護用ウェアへとたどり着きがち、というのがこの界隈の鉄板あるあるジョークだ。
 そんな見地からいわせてもらえば、警察やマスコミが大雑把に「穴」といっているそれは、「あな」ならぬ「あき」ではないのか。「あき」とは、要するにスリット的なことだが、隣り合う布の縫い合わせない部分、あえてあけている箇所のことだ。短パンということであれば、ファスナーで開閉できるようになっている、あれも当然「あき」である。
 しかし短パンにもいろんな種類があって、今回の場合、ランニング中に穿いていたということならば運動用であると考えられ、だとすればファスナータイプの可能性は低くなってくる。そもそも「あき」はないもののほうが多いだろう。
 じゃあやっぱり「あき」じゃなくて「あな」なんじゃないか、男は自分でそこに男性器が出るほどの穴をハサミなどであけたのではないか、という疑いが出てくるが、「ランニング中に男性器がまろび出てしまう」というスリルを求める心理を想像すると、やはりそうとは思えない。だってそんな故意的な、そこにあった布が切り取られた、ぽっかりとした穴があいていたら、言い逃れができないではないか。それではスリルもなにもあったもんじゃない。また容疑者の供述として、「下半身が出てしまったが見せようとしたわけではありません」と、「1週間前から穴があいてしまいました」というふたつの発言がある。この言い回しから見ても、男はただ露出するのではなく、カムフラージュする意図がなきにしもあらずだった様子が窺える。
 そこで僕が考えたのが、トランクスやステテコによく見られる、「あき」の部分がボタン留めになっているタイプだ。あれは、10センチほどの長さの「あき」の中央にボタンとボタンホールが仕立てられていて(ちなみに自分で作ろうとするととても面倒くさい)、ボタンを留めている限りは男性器がまろび出ることはないが、外れている場合、なにかのはずみで出てしまうことは十分あり得る。男が穿いていたのはその機構の短パンで、1週間前から、それが故意かどうかは判らないが、ボタンが取れてしまった。だから「あき」を閉じることができなくなった。ボタンがなくなってしまったボタン留めの「あき」は、それはもはや「あき」ではない。「あな」である。つまりそういうことではないのか。
 以上が、パンニパル・レクター博士による、プロファイリングならぬプロペファイリング。この事件、今回は短パンについて主に考えたが、次は「下半身を露出するという行為」について考えていこうと思う。つづくのだ。